第四章 人魚の秘密と姉妹の秘密⑥
「はあ、よかったぜー」
ユリネラは安心したように息をついた。前方では、ユリネラの手から離れたクラゲランプが、アリアラの荷物に向かって真っ暗な海中を進んで行く。
というか、僕はさっきからユリネラに後ろから抱えられたままであり。なんだか、柔らかい感触が背中にあたっているのだけども。いや、全然不快じゃないし、むしろそのままでいいわけなんだけども、よくない状態になりそうというかなんというか……。
そんな感じで悶々とする僕の背後で、はっと息を詰める気配があった。
「てか、雅、お前、離れろよ!」
「い、いや、だったら、ユリネラが離れてくれないと……」
「あ! そ、そっか! わ、わりぃ」
ユリネラは僕から離れ、代わりに僕の手を取った。
もう少しそのままでもよかったんだけど――いやいや、何を考えているんだ、僕は。
僕は頭をブンブンと横に振る。ユリネラが怪訝な表情で僕を見た。
「どうしたんだ?」
「い、いや、なんでもない」
僕は大剣を点検するふりをしてみた。ユリネラは「ふうん?」と首を傾げたが、僕の手を掴んでクラゲランプを追って泳ぎ続ける。ランプとユリネラと僕の位置関係しかないわけで、もう僕には上下の区別すらつかなくなっていた。
そのまま泳ぎ続けて五分くらいだろうか、ランプがその動きを止めた。どうやら海底に辿り着いたようだ。『髑髏海溝』の名に相応しく、ランプに照らし出された砂地の海底には大小様々な形状の骨が散乱していた。魚っぽい骨の他にも、陸上の哺乳類のような骨まである。頭骨、脊椎、手や足の骨、アバラの骨。中には人間のしゃれこうべに見えなくもない骨もあった。
「あった!」
その骨ばかりの海底に、僕のウチに来た時にアリアラが持っていた白いキャリーバッグとハンドバッグが横たわっていた。
「よっしゃ、持ち帰って……」
ユリネラがそう言いながら僕から手を離し、キャリーバッグの持ち手を掴んで横倒し状態から立ち上がらせた。と同時に、僕達の周囲に何か奇妙な気配があった。周りの海水が、異様なスピードで流れ始めたのだ。
――なんだろう?
僕とユリネラが怪訝に思いながら視線を交わし合った瞬間。ユリネラの身体に何かが巻き付いた。
「え?」
僕が一回瞬きした間に、その白くて長い何かはユリネラの腰から尾部にかけて幾重にも巻き付いていた。視界の外から一瞬で現れたそれは、僕の腕くらいの太さがあった。一端がユリネラに巻き付いているが、もう一端がどうなっているのかはクラゲランプの外を見通せない僕には確認できなかった。
「何これ……?」
「動くな! 食われるぞ!」
ユリネラに絡みついたそれを引き剥がそうと僕が動きかけた時、ユリネラが張りつめた声で小さく叫んだ。
「クラーケンだ。深海にいる種類は目が見えねえ。置き物のふりして固まっとけば、そのうちどっか行っちまうから」
ユリネラが震える声でそう言った。
よく見れば、ユリネラに巻き付いた細長いそれには、吸盤のようなものがびっしりとついていた。テレビで見たダイオウイカみたいなものだろうか。それにしても触椀が太すぎる。
クラーケンの触椀は、探るようにユリネラの尾部や胴に巻き付き、頬を撫で上げた。ユリネラは気持ち悪そうに顔を歪めながら、それに耐える。
もう一本の触椀がクラゲランプの点灯範囲に現れて、今度は僕の腕に巻き付いた。ぬめぬめとした粘膜を纏ったような感触が不快で鳥肌が立った。
動いちゃダメだ、動いちゃダメだ、動いちゃダメだ。
僕は小声で呪文みたいに唱えながら耐えた。
僕の頭上を何か巨大な影が通り過ぎていく。飛行船が掠めていったような迫力と大きさ。それに合わせて、丸い二つの光が妖しく輝きながら過ぎっていった。まるで満月が二つ、頭上を掠めていったようにも見えた。クラーケンの目だろうか。僕はメデューサに睨み付けられたみたいに固まり、遅れて腰が抜けそうになった。
「ただのデカいイカだ。気にすんな。目もでけーけど……何も見えてねえ……」
そう言ったユリネラの声も震えていた。
僕にははっきりとは見えないが、クラーケンはどうやら僕らの上をゆっくり回遊しているらしい。たまに影が見えては消えていく。
僕は祈った。どうか早くどこかに行ってください。こっちに来ないでください。僕らに気付かないでください。
僕の祈りが通じたのかはわからないが、僕に絡みついた触椀は僕から離れた。ユリネラに巻き付いた足も、その締め付けを緩め始めた。
ほっとしたのも束の間。
ユリネラから離れようとした触椀が、ユリネラの傍らに立つキャリーバッグに名残りを惜しむように触れた。その衝撃でキャリーバッグが倒れる。
ヤバい! そう思った途端に、その触椀はキャリーバッグと共にユリネラに巻き付いた。
ばね仕掛けの人形みたいに、急激な動きだった。ユリネラの体全体が、あっというまに吸盤の付いた足に何重にも絡め取られてしまう。
僕は無意識に身体が動いていた。
僕は大剣で、ユリネラに巻き付いた足の根元を切った。意外なほど、それはあっさりと切れたが、ユリネラに巻き付いた部分はヒクヒクと痙攣するように動き続けている。ユリネラがそれを引き剥がしながら「雅のバカ!」と言ったところまでは見えた。
体中が、不快なぬめぬめした感触に覆われた。と思った瞬間に僕の身体はグンと後ろに引かれる。あっという間にクラゲランプの光源から遠ざけられ、僕の視界は闇に沈んだ。僕は唯一クラーケンに拘束されずに済んだ右腕でがむしゃらに剣を振り回してみるが、いい感触は得られない。
このままクラーケンに食べられてしまうのだろうか。
でも、不思議と後悔はなかった。ユリネラが助かったし。
いや、やっぱり少し嘘。妹の顔が頭に浮かんだ。僕が帰らなかったら、あの子はどんな顔をするだろうか。それから、ユリネラはどんな風に思うんだろう。死んだら家族に会えるかな。
走馬灯が回り始めようとした時、視界が急に明るくなった。何かと思うと、青い光芒が僕の傍らを通り過ぎていく。多分、ユリネラのあの拳銃の攻撃だ。
一瞬、青い光がスパークして、僕を掴んでいるのとは違う足が千切れる様子が見えた。
喜んだのも束の間、周りの水流の速度が増した。僕の身体が酔いそうなほど急激に上下左右に振られる。脅威を感知したクラーケンが警戒して、現場を離脱しようとしているのかもしれない。
ユリネラは焦ったように何発も連続して撃ってきた。しかし、めちゃくちゃな動きをしながら泳ぐクラーケンに当たらないようだ。
僕はタイミングを待った。
ユリネラの光芒が何発も横を通り過ぎていく。真っ青な光に照らされる、その一瞬ごとに僕は周囲に視線を這わせる。が、見えない。肝心なものがどこにあるのかがわからない。
そして、七発目。
「見えた!」
僕は、僕を掴んでいた触椀の根元側を切った。
触椀に幾重にも絡め取られた僕には、触椀の根元側が見えなかったんだ。ユリネラの七発目の光芒でようやくそれを確認できたのだが、同時に、触椀の付け根、クラーケンの口がパックリ開いているのも見えていた。もう少しでその中に放り込まれるところだったのかもしれない。
僕の身体は急ブレーキをかけたように止まった。慣性の法則によってすぐに止まることはなかったけれど、クラーケン本体との速度差が全然違うのだ。クラーケンが僕を置いてものすごい速さで遠ざかっていくのが、ユリネラの八発目で確認できた。
真っ暗闇の中に僕は取り残されてしまった。上下すらわからなくて、僕は軽くパニックになる。むしろ、必死になっていた分、クラーケンに掴まっていた時の方が恐怖はなかったかもしれない。宇宙に取り残された人間はこんな感じなんだろうか。
――ユリネラは無事かな?
「バカ野郎!」
怒声と一緒に頭を殴られた。暗闇だから相手は見えないけど、声を聞いただけで僕はほっとした。
「なんであたしなんか助けるんだよ! あたしなんか放っておけばよかったのに!」
僕に巻き付いたままのクラーケンの足を引き離しながら、ユリネラはそれから何度も僕の頭を叩いた。海の中だから殴られても全然痛くはないんだけど、ユリネラの声が泣き声みたいに震えていたから、なんだか心の奥の方がじわじわと痛くなった。
「ユリネラ、無事だったんだね。よかった」
「よかねえよ、バカ! あたしなんか助けたって無駄なんだよ!」
「無駄なことないだろ」
「無駄なんだよ。それに、お前には玲がいるのに。お前がいなくなったら、玲はどうすんだよ!」
「うん。そうだね……それは……ごめん」
それを言われてしまうと、僕は何も言えなくなってしまう。
「でもさ、やっぱりユリネラが無事でよかったよ」
「バカ野郎!」
特別強く頭を叩かれた。
「もうこんなバカは知らねえよ。さっさと姉さんの荷物拾って帰るぞ」
「そうだね」
ユリネラは僕の腕を掴んだ。前よりも少し強く掴まれながら、僕はユリネラと暗い海の中を泳いだ。
傍らの人魚の顔を覗くと、怒っているような、でも少しだけ涙目みたいな顔で前を向いている。唇を引き結んで、海にいる間は一度も僕の方を見てくれなかった。それでも、僕の腕はずっと強く掴んで離さないでいてくれた。




