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第四章 人魚の秘密と姉妹の秘密⑤

 魔女の作った輪をくぐると、それまでの燦々と太陽が降り注いでいた浜辺から一変、真っ暗な水の中にいた。パニックになりかけて僕は手足をばたつかせる。もちろん、魔女の飴を口の中に含んでいるけど、水の中で息を吸い込む行為はそう簡単にはできなかった。頭ではやろうと思っても、本能の恐怖が邪魔をしてできないのだ。僕はごぼごぼと無様に息を吐き出し続けた。当然、もっと息が苦しくなって、さらにパニックになる。

「雅、息をしろ、息を」

 地上と変わらないユリネラの声が聞こえた。

 僕のランプを握っている方の手を掴む温かい感触があった。それとほぼ同時にランプが灯り、ユリネラの姿が暗闇に浮かび上がる。スタイルのいい上半身の下には、青い鱗をまとった尾部がなめらかな曲線で続いていた。ヒレは淡い水色。短い銀色の髪が水の中をふわふわと漂い、アリアラに切られたという耳が時々覗く。暗い蒼の海の中で、明るい青の瞳が一際輝いて見えた。僕はユリネラの顔を見て少し落ち着くことができた。

「ほら、息を吸うんだよ。ゆっくり、な?」

 ユリネラは僕の手を掴むと、自分の口元へと近づけた。それこそ、唇に触れてしまうんじゃないかというくらい近く。僕はびっくりしてランプを取り落し、手を引こうとしたけど、ユリネラは僕の手を離さなかった。

「こうやって息をすんだよ」

 指先にくすぐるみたいな感覚があった。微かな水の流れ……?

 それは、ユリネラの口から吸っては吐き出される小さな水流だった。ユリネラは確かに、水を吸って吐き出していたのだ。僕はそのユリネラの呼吸に合わせるように、思い切って水を吸い込んでみる。

――ガホッ、ゴボッ!

 途端に咳き込む僕。

「ゆっくり、少しずつでいいんだよ!」

 ユリネラは僕の手を放して、代わりに僕の背中を擦ってくれた。ユリネラの手のひらの感触はやわらかくて温かかった。それは僕を落ち着かせてくれて、僕はゆっくりと、少しずつ水の中での呼吸を行った。

 やってみればなんてことはない。地上で空気を吸って吐くのと同じように、僕は海の中で水を吸って水を吐いた。何回か繰り返すうちに、息苦しさはすぐ消えた。

「あ、ありがとう。もう大丈夫」

 言葉も普通に話すことができた。

 改めて周りを見てみても、真っ暗な闇が続くばかりだった。水深が深すぎて太陽の光が届かないんだ。たぶん、本来だったら水圧で押しつぶされてしまうような深さなんだろうけど、魔女の不思議な飴玉のおかげで僕はペチャンコにならずに済んでいるらしい。

 唯一の光源は魔女に与えられたランプだ。ふわふわ海中を漂っていたそれを捉まえる。年代ものの、クラシカルなデザインで、内部のゆらゆらと揺れる光源は火なのかと思ってよく見れば、驚いたことに生きたクラゲだった。光を放つ小さなクラゲが、ガラスケースの内部をゆらゆらと泳いでいた。

 ただ、その光があったとしても、周囲二、三メートルくらいしか視界が開けない。あとはただ暗闇が続くばかり。蔵の中にでも閉じ込められたような気分だった。

「大丈夫か? 行くぞ」

「うん」

 ランプをもう一度手放してみると、クラゲを中に抱いたランプはふらふらと揺れながら闇の中を進み始めた。アリアラの荷物へと向かっているんだろう。

 ユリネラは銃を取り出し、周辺をキョロキョロした。

「まだ何もいねえみてーだな。よし、いくぞ」

 そう言って、僕の手を取った。僕は剣をきちんと握っていることを確認して頷く。

 ユリネラは僕を引っ張りながら泳ぎ始めた。尾で水を掻きながら、どんどん加速していく。景色は見えないけど、肌に感じる水流がユリネラの速さを教えてくれる。素晴らしいスピードだった。それに合わせるように、案内役のクラゲランプもスピードを上げる。

「ユリネラはこれだけ暗くても見えるの?」

「ああ。人魚は暗闇に強いんだ」

「ふうん」

 なんだか、僕が足手纏いにしかなっていないような気がしてきた。

 いやいや。僕がアリアラの荷物を取りに行くって言ったんだ。僕が頑張らないでどうする。

 そう思って、僕が剣を握り直した瞬間。

「あぶねっ!」

 ユリネラが大きい動作で尾を振って、ほぼ直角に下へ潜航した。急激な水流の変化と慣性にもみくちゃにされながら、僕は何かの影を見た。さっきまで僕らがいた場所を何かの物体が覆い尽くしたのだ。

 クラゲランプに照らされたそれは、恐竜かと思うほど大きな生き物の頭だった。頭だけで僕の身長よりも大きいのだ。その生き物は頭部には鬣が生えているのに、トカゲのような質感の肌をしていて、爛々と輝く縦長の瞳孔がギラリと妖しい光を放っていた。大きな牙の生えた口から、ペロリペロリと細長い舌を出したり入れたりしている。

「シーサーペントかよ!」

 ユリネラは舌打ちした。

 目を凝らせば、そいつの大きな頭の背後に、蛇のように細長い体がとぐろを巻いているのがぼんやりと見える。これが伝説の海蛇シーサーペントなのか。

 シーサーペントは鎌首をもたげ、牙を見せながら僕達を威嚇した。

 ユリネラは僕から手を離し、両手で拳銃を構えて照準を合わせ、発砲した。銃口から放たれた青い光芒は、シーサーペントの頭に向かって一直線に進む。だが、やつは巨体にしては驚くほどの俊敏さでそれを避け、そのままの動きで再び僕達に向けて頭を突進させてきた。大きく開いた口から、鋭い二本の牙が覗いている。

 僕は咄嗟にユリネラの前に出た。大剣を盾のようにして、斑柄の大蛇に向かって必死に掲げる。

 ガキンッ――と、金属同士がぶつかるような音が海中に響いた。無意識に瞑ってしまっていた目を開く。幸運なことに、僕の剣はシーサーペントの牙を受け止めていた。

 当然、牙を受けると同時に両手に負荷がかかったが、思ったほど強い衝撃ではなかった。水中の浮力を受けている影響なのか、それとも、この剣に特殊な効果があるのか。仄かに刀身が黄金色に輝いているのを見ると、もしかしたら、相手からの衝撃を吸収する効果があるのかもしれない。

 ただ、地上とは違って足の裏に接触抵抗がないから、大蛇に対して重量と勢いで負ける僕は、背後のユリネラと共にどんどん海底に向かって押し込まれていった。クラゲランプが僕らにきちんとついてくるのだけは幸運だけど。

 眼前にはシーサーペントの真っ赤な口内が迫っていた。少しでも剣を引こうとしたら、あっという間にバクリと口を閉じ、僕らを飲み込んでしまうんじゃないだろうか。かといって、このまま海の底に押し込められたら、さすがにやばい。逃げ道を塞がれて、やはり丸呑みされてしまいそうだ。

 どうすれば……。

 その時、僕の背中でユリネラが動いた。

 僕の左肩の上から顔と左腕を前方に出す。左手にはあの拳銃が握られていた。どこかの貴族の館にでも飾ってありそうな優雅なデザインの銃身から、再び光芒が発射された。

「ギイヤアアアアアア!」

 ガラスに爪を立てるような、気味の悪い声だった。同時に、僕の剣が受け止める負荷が消えた。

 シーサーペントは不快な悲鳴を上げ、その口から赤い液体が海中に滲みだしていた。ばっくりと開いた口内にユリネラの放った光芒が命中したのだ。僕らの視界が徐々に血の色に染まっていく。

 背中のユリネラが、僕を後ろから抱きかかえた。

「今のうちに、逃げんぞ」

 ユリネラは片手に僕を抱え、片手にランプを掴み、赤く染まった海から脱出した。

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