第四章 人魚の秘密と姉妹の秘密④
翌朝、起きて一階に行くと、マリアさんがイビキをかきながら玄関で眠っていた。
「なんだよ、コイツ。酒臭えな。捨ててくるか?」
うつ伏せで玄関マットの上に眠るマリアさんのお尻をユリネラが軽く蹴り上げるも、魔女は全く動じる様子もなく眠り続けた。
「まあまあ。それより、早いところマリアさんにヒトデ達を渡してしまおうよ」
僕は正直複雑な気持ちは消せなかったけど、ユリネラを守るために必要なら仕方ないんだからと自分自身に言い聞かせた。心の奥に溜まるしこりのようなものについては深く考えないように気を付けていた。
なのに、ユリネラは軽い調子でそれを制した。
「あ、それな、ちょっと待ってくれよ。海に行ってからどうするか決めようぜ」
「どうするかって……?」
ユリネラは僕の問いには答えずに、くるりと踵を返して台所の方を覗いた。
「そういや、今日の味噌汁なに?」
「え? シジミ、だけど……」
「わ、うまそー! 飯、飯! 玲、呼んでくるな」
ユリネラはそう言ってさっさと二階に上がって行ってしまう。
階段を駆け上がるユリネラの足音は軽やかだ。でも、なんだろう、この不安は。ヒトデ達を渡したら、全ては解決のはずなのに。
僕は不穏な気持ちを消せないままだったが、バタバタと二階から降りてきて「早く朝ごはん早く」と急かす妹とユリネラのため、朝食の準備を始めた。
「それで。どうするの?」
カンカン照りの太陽の下、黒い日傘を差したマリアさんが不機嫌な表情で言った。二日酔いでまだ頭が痛いようだ。
寄せては返す波の音が繰り返し刻まれていくいつもの砂浜には、黒いドレス姿のマリアさんと、ノースリーブシャツにデニムのショートパンツ姿のユリネラが対峙していた。僕と妹はその脇でヒトデ達の入った水槽を抱えながら二人を見守る。
「ああ。決めたよ」
ユリネラがそう言ったので、僕は手に抱えた水槽を魔女に手渡そうとした。が、ユリネラが手をかざして止めた。
「ちげーよ。あたしの魂を渡すんだよ」
「は?」
僕は目を丸くする。何を言いだすんだ、この人魚は。
「なに……言ってんの?」
「だから。あたしの卵を渡すんだよ」
「え? え? なに言ってんの? それって、ユリネラが死ぬってことなんでしょ。そんなのありえないよ!」
混乱する僕を、ユリネラは面倒くさそうな顔で見ながら頭を掻いた。なんでそんな顔をするんだ。僕はイライラする。僕の抱えた水槽の中のヒトデ達もザワザワと動揺している雰囲気だった。
「あたしさ。何となく言い出せなくて黙ってたんだけど。実はそろそろ寿命なんだよな」
「え……?」
急に何を言うんだ……? 意味がわからない。
「だから、どうせ死ぬんだから、あたしの卵をやるよ、ババア。その代りヒトデ達は解放しろよな」
魔女はユリネラの言葉を聞いて、ニヤニヤと楽しそうに笑った。二日酔いも吹っ飛んだ、そんな表情だった。
「ふうん? 本当にそれでいいの?」
「ちょっと待ってよ! なに勝手に話を進めてるんだよ!」
僕は二人の間に割って入った。
「納得できないよ! なんだよ、寿命って。聞いてないよ」
「言ってねえもん」
「なんで言わないんだよ!」
「姉さんも言わなかったみたいだから」
「は?」
どうしてそこでアリアラの名前が出てくるんだ。
「ほら、ババア。さっさと殺れよ! あたしの魂をくれてやる!」
「そんなの僕は認めないからな!」
「あたしがいいって言ってんだから、いいんだよ! お前の許可なんかいらねえし!」
「僕が嫌だって言ったらダメなんだよ!」
「なんでそんな勝手言うんだよ!」
「勝手なのはどっちだよ!」
僕とユリネラは砂浜の上で睨み合った。ユリネラの剣幕は相当だったが、当然、僕も引くことはできない。そんなの、そんなこと認められるわけがないじゃないか。
状況がわからない妹は可哀想に、僕とユリネラを不安そうな顔で交互に見上げる。
「お兄ちゃん、ユリネラお姉ちゃん、ケンカしちゃダメだよー……」
僕達の洋服の裾を引っ張りながら妹は小さな声で言った。よく見ると、その目に涙が溜まっている。僕は懸命に良心に蓋をしつつ、妹から目を逸らした。ユリネラも同じで、僕達は妹を無視して睨み合いを続けた。そんな僕らの態度に妹は頬を膨らませ、僕達の服からパッと手を放した。
「もう! いつもはわたしにケンカはダメって言うのに、しょうがないんだから! 仕方ないから、わたしの宝物あげる。だから、ケンカはしちゃダメなんだからね!」
そう言いながら、妹は海岸の出口に向かって駆け出した。
「あ、おい、玲、どこにいくんだよ!」
「おうちから宝物とってくるだけ!」
「お、おい!」
妹の姿はどんどん遠ざかっていった。僕とユリネラは困惑の表情で妹の後ろ姿を見送る。再び視線を合わせた時には、睨み合いではなくて二人とも途方に暮れたような顔になっていた。
「ホホホホホ! まったく。あんな小さな子供に心配させて、ダメなお兄さんとお姉さんね」
情けない僕達を、魔女の哄笑が見舞った。ユリネラがマリアさんを睨みつける。
「テ、テメーが雅と玲の前で魂を寄越せとか言うから!」
「元はと言えば、ユリネラの万引きがいけないんでしょう?」
「グッ……!」
ユリネラは悔しげに唇を一文字に引き結んで下を向いた。
「フフフ。でも、わたしも鬼じゃないもの。優しい魔女であるところのわたしは、お困りの二人に最終チャンスをあげるわ」
魔女は黒い扇子で口元を隠し、灰色の目を細めて笑った。僕とユリネラは胡散臭そうに眉をひそめる。
「そんな顔しないで頂戴。かなりいい話をこれからしてあげようと思ってるのよ?」
そう言って、魔女は不敵に微笑んだ。
「例のブツ。ユリネラの大切なものと引き換えに、わたしが譲ってあげたアレ。ユリネラがアリアラに渡しちゃったって話だったわよね。それの現在地がわかったのよ」
「本当かよ……!」
「正確には、アリアラが荷物を落とした場所を発見したの」
マリアさんは得意げにフフンと笑った。
「昨日、わたしはただお酒を呑んでいただけじゃないのよ。お酒で魔力を補給しながら、失せ物占いをしていたの。その結果、アリアラのキャリーバッグとハンドバッグのある場所を見つけたわけ。多分、その中にアレが入っているんじゃないかしら? だって、アリアラは――今は何も荷物を持たずにいるはずだもの。ね、ユリネラ?」
「……そうなんじゃねえの?」
ユリネラは不機嫌そうにそっぽを向くが、マリアさんは満足そうに頷いた。
「フフフ。というわけで、ユリネラ。取ってきなさいよ」
「場所がわかったんなら、テメーで取りに行けばいいじゃねーか」
「なんでわたしがわざわざ取りにいかないといけないのよ。それにあの場所は――ちょっと問題があるのよ」
「知らねえよ」
悪態をついたユリネラに、マリアさんは困ったような表情で笑った。
「まあ聞きいて頂戴。アリアラの荷物が流れ着いた場所はね、髑髏海溝の底なのよ」
「マジかよ!」
それまで不貞腐れたような顔をしていたユリネラが、『髑髏海溝』という言葉を聞いた途端、驚いたように目を見開いた。僕は首を傾げる。
「髑髏海溝?」
「クラーケンとかシーサーペントとか、とにかくいろんな海の怪物がねぐらにしてる、めっちゃ深い海底だよ。知らずに迷い込んだ奴らの髑髏が敷き詰められているから髑髏海溝って呼ばれてんだ。そういやあ、ババアはあそこに近付けないんだっけ?」
「海坊主に結界を張られて締め出されちゃったのよ。まったく。酷い話」
「テメーがあそこで魔法材料を乱獲したからって噂を聞いたけど?」
「一般人と違って、わたしならあんな怪物たち一ひねりだもの。その力を使ってちょっと頑張っただけなのに、乱獲者のレッテルを張るなんてやりすぎよ!」
珍しくブンスカ怒り顔の魔女を見て、ユリネラは満足げにフンと鼻を鳴らした。
「へ。それこそ、わざわざそんなとこまで誰が取りに行くかよ。決まりだな。あたしの魂を……」
言いかけたユリネラを制して、僕は前に出た。
「僕が行くよ」
「あ?」
「僕がアリアラの荷物を取って来る」
「な、何言ってんだよ! お前にゃ無理だって」
青い目を見開くユリネラを無視して、僕はマリアさんの灰色の目をまっすぐに見上げた。
「マリアさん、僕にその場所に行くための、何かアイテムみたいなものをくれませんか? 対価が必要だったら何でも払います」
「おい!」
ユリネラは僕の腕を揺すったけど、それも無視した。マリアさんは楽しそうに真っ赤な唇の端を吊り上げて笑う。
「ホホホホホ! 素晴らしいわ、雅くん! 出会ったばかりの人魚のためにそこまでしようだなんて。それだったら、わたしも女を見せるわ。特別無料でアイテムを用意してあげる!」
魔女はパチンと指を弾いた。すると、僕の目の前に煙がもくもくと立ち上ぼり、それが消えると砂浜の上には三つのものが置かれていた。
一つはゴテゴテと金銀宝石の装飾がついた大きな剣で、ロールプレイングゲームで見かける勇者の剣みたいな外観だった。もう一つは古風な西洋風デザインのランプ、最後の一つは飴玉ドロップの缶だった。
「その剣はね、大昔、あの伝説の海竜王ギドラメデスを倒した大勇者ザルツファイド・エト・シードリアレス大公が使っていたといわれる由緒あるものよ」
「そんな伝説聞いたことねーよ!」
「まあ、髑髏海溝の怪物達に効くかはわからないけど、気休めにはなるでしょうね」
喚くユリネラをマリアさんは華麗にスルーしながら話を続けた。
「そっちのランプはアリアラの荷物が沈んでる場所まで案内してくれるナビ、飴玉は人間が水中で息が出来るようになるアイテムよ。これは完全に副作用なし」
「ありがとうございます」
「勝手に話を進めんな!」
砂浜の上で地団駄を踏むユリネラを、僕は睨んだ。
「ユリネラだって勝手に死のうとしただろ。だったら、僕だって勝手に取りに行くよ」
「なんだよ、それ! やめろよ!」
喚くユリネラを眺めながら、マリアさんは灰色の目を細めて艶然と笑った。
「ユリネラ。海に不案内な雅くんについて行ってあげた方がいいんじゃない?」
「クソ……クソッタレ!」
ユリネラは悔しそうな顔をしていたが、僕が魔女の飴玉を口に放り込むのを見ると、「クソ」と言いながら、肩に斜め掛けしたボディーバッグから薬瓶を取り出した。僕達が出会った時、人魚だったユリネラが人間の体になるために飲んだ薬が入った小瓶だ。白と青の錠剤が入った小瓶から、今回、ユリネラは青の錠剤を取り出し口に含む。
「あっち向いてろ!」
「え?」
「パンツ脱ぐんだよ! 人魚の形に戻るから!」
そう言いながら、既にショートパンツを脱ぎ始めている。僕は慌てて後ろを向いた。
「来るなら来いよ!」
しばらく経ってから聞こえてきたユリネラの怒鳴り声は、ずいぶん遠くにいるような感じだった。振り返ると、ユリネラはすでに海に入っていて、顔と肩だけが水面に出ている。さすがにビキニの上は着ているようで、ひとまず安心した。僕は上半身の服だけ脱いで、魔女に与えられたアイテムを拾い、ユリネラの元に向かった。
魔女は黒色のハイヒールで波立つ海水面の上を優雅に歩いきながら、僕達を追ってきた。
「ホホホホホ! もう一つサービスするわ。髑髏海溝への入り口よ」
そう言うと、マリアさんは潮風になびく自らの長い金髪から一本を抜き、その両端を結んで輪っか状にした。その金色の髪は海面に向かって投げ捨てられると、着水した瞬間にものすごい勢いで増殖し出し、それらの髪は互いに絡まり合いながら尚も増え続ける。数回瞬きするうちに、金髪の三つ編み状のものがぐるりと輪っかを作るような形になった。フラフープが海面に浮いているような感じ。そして、魔女の三つ編みによって区画された円の内側だけが、まわりの真っ青な海と違って暗い闇の色をしていた。
「髑髏海溝の近所までのショートカットよ。一挙に海底二万哩へゴーできるわ」
マリアさんは黒い扇子を煽ぎながら、楽しそうに笑った。
「水圧の事だったら大丈夫。人魚は体の構造的にももともと大丈夫だし、雅くんもその飴を舐めているかぎり大丈夫よ。その原理はこうよ。海水中にある物体に対してかかる圧力というのは、大気圧プラス水圧。この水圧は、つまりは水の重量を背負うことによって生じる負荷よね。だから深く潜れば潜るほど圧力は増して、特に、空気の詰まった人間の肺なんかすぐに潰れちゃうわ。深海生物なんかは、その対策として……」
「つまんねえ解説はいらねーよ。さっさと行くぞ」
ユリネラはマリアさんの言葉を無視して、さっさと輪をくぐった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
僕も慌てて後を追った。
「素敵な海底の旅へ、いってらっ」
背後に聞こえた魔女のにこやかな声は、僕が輪を潜った瞬間に聞こえなくなった。




