第二章 ツッコミがキツい人魚姫⑦
夕飯はそうめんと冷しゃぶでさっぱりと頂いた。ユリネラは苦戦しながら箸でそうめんを掬っていたが、食感は気に入ってくれたようだった。
食べた後、ユリネラは皿洗いを手伝ってくれて、片付け終わると妹と一緒にテレビを見ながら大口を開けて笑っていた。とある芸人さんのリアクション芸が個人的なツボにハマったらしく、笑い転げている。ついには、妹と一緒に、「押すなよ、押すなよ」なんて言いながら、尻相撲みたいなことを始めていた。ウチに熱湯風呂がないのが残念だ。
お風呂は、妹、ユリネラ、最後に僕の順に決まった。
僕は女子二人が入浴している間に畳もうと、洗濯物をとりこんだ籠を居間に持ち込んだ。正直、洗濯物の片づけはあまり好きな作業ではないから、テンションが上がらない。おいしいものが出来上がる料理とか、目に見えてきれいになる掃除とかの家事は割と好きなんだけど、洗濯物だけはどうも面倒くさく感じてしまう。放っておいたら部屋が畳んでいない洗濯物で溢れてしまうから、結局はやるんだけど。
「よし! やるぞ!」
僕はテレビの音量を上げて気を紛らせつつ、気合を入れて洗濯物に取り掛かった。まずはアイロンがけの必要ないものから先に畳む。いつもどおりの方法で折り畳んでは、収納先別に積んでいった。作業を始めてしばらくすると、パジャマを着た妹がタオルで髪を拭きながら居間に戻ってきた。
「出たよ、ユリネラお姉ちゃん」
「おう。おい、雅、絶対、覗くなよな! 覗いたらダメだからな」
「覗くわけないだろ」
僕に強く念押ししながらユリネラは風呂場に向かった。古い我が家では足音がよく響く。ミシミシと廊下を踏んでいく音と、脱衣所の扉が開閉される音が聞こえ、その後はしばらく静かになった。だが、ユリネラは再びミシミシと廊下を踏みながら、すぐにまた居間に戻ってきた。なぜか妹の玩具である水鉄砲を抱えて、困ったような顔をしている。
「どうしたの? 石鹸足りなかった?」
「……覗かねえの?」
「は?」
「だって、覗くなって言ったら、覗けってことだろ? テレビでやってたじゃん。だからあたし、これを持って待機してたんだけど」
芸人のフリのつもりだったのかよ!
どうやら、ユリネラは脱衣所で妹の水鉄砲を構えて、ずっと待機していたらしい。「覗くな」と言われて見に来た僕をそれで撃つ予定で、本人的にはコントみたいなノリだったようだ。
意図はわかっても、意味がわからない……。
僕は若干呆れながらユリネラにゆっくりと言った。
「女の子の入ってる風呂場なんか見ようとしたら、それただの犯罪だよ……」
「そ、そっか。そうだよな。そっかそっか」
ユリネラはわかっているのか、わかっていないのかよくわからない顔で頷きながら、再び風呂場に向かって歩き出す。
「当たり前だけど、雅、中を見るなよ、見るなよな!」
「わかってるよ、見ないよ……」
僕はうんざりしながら言った。さすがに、もうこれはフリでなく、本心からの忠告だと信じたい。フリだったとしても見になんていかないけど。
脱衣所の扉がバタンと閉まって、十秒後。
「なんで、見に来ないんだよ!」
再び、若干キレ気味に脱衣所から出てきたユリネラに、洗濯物の処理をまた中断させられた僕は大きな溜め息を洩らす。嫌いな作業をがんばってこなしている最中に邪魔されると、とてつもなくイラつくのだという真理を僕は改めて実感した。
「だからさ。行くわけないって言っただろ」
「で、でも……」
「あのね。僕は一般人だよ。芸人さんじゃないんだから、あの人達のルールに僕が従う道理なんてないんだって」
「うぐ」
「それに、コントにしても、ユリネラのは全然面白くないよ」
「むぐぐぐぐ!」
口を悔しそうに引き結んだユリネラは、僕を一睨みしてから踵を返し、再々度、風呂場に向かった。悔しかったのか、脱衣所から「見るなよ!」という大声が聞こえてくる。
やれやれと溜め息をつきながら、僕は再び洗濯物畳みに戻った。
が、その直後、風呂場の方からガタンゴトンと音がして、同時に聞こえてきたのはユリネラの絶叫だった。
「ぎゃああああ!」
あんまり大きな声だったから、僕は畳んでいたTシャツを取り落してしまう。僕は慌てて脱衣所に向かった。
「どうしたの?」
「ぎゃあああ、いやあああ、なんだこれええええ!」
脱衣所の扉の向こうのユリネラは、なんだかよくわからないことを叫び続けている。
「大丈夫? 入っていい?」
「だ、大丈夫じゃねえよ! でも、ダメだ! 入ってくるな!」
「何それ?」
僕は首を傾げるが、「ははーん」と閃きが脳内を駆け巡った。
「あ、わかった。ユリネラ、またそんなこと言って、本当は全然大丈夫なのに、変な『フリ』のつもりなんだろ? くだらないなあ」
「い、いや、マジで大変だけど、ダメだ! 入ってくんな! 入ってきたらダメだ!」
「なんだよ、それ。わかったよ、入るよ、入ればいいんでしょ?」
「違う! 入ってくんなー! わあああああ!」
あまりにわざとらしい『フリ』をするユリネラのため、僕はサービスのつもりで脱衣所のドアノブを回して中に入った。
そして、目が点になる僕。
そこには慌ててバスタオルを巻こうとする、素っ裸のユリネラがいた。いや、完全には見えていないけど、絶妙な感じで日に焼けた素肌の色々なところが見えちゃってるんですけども……。
「だから、入るなって言ったじゃんかよ!」
「ご、ごごごご、ごめんなさい……」
ユリネラは顔を真っ赤にして、青い目に涙を溜めながら僕を睨んでいる。僕は鼻血を抑えながら、慌ててドアを閉めようとした。
「ま、待って、雅! せっかく来たんだから……」
「え?」
バスタオルを巻いただけのユリネラは、何を思ったのか、ドアを閉めようとする僕の腕を掴んだ。赤く染まった頬にうるんだ瞳を輝かせながら、ユリネラは僕をじっと見つめる。
「雅ぃ……お願い……」
ユリネラは泣き声みたいな掠れた声を出した。
なんなんだ、この状況は。
ある種の異常事態に、僕の心臓が警報を発している。急に動悸が激しくなって、頭の中を血がぐるぐると必要以上に駆け巡っていた。ユリネラに触られている右腕が熱くなっている気がする。ユリネラの暖かくて柔らかい手の平の感覚が、いやにはっきりと感じられるのはどうしてだろう。
何がなんだかわからずに固まる僕を、ユリネラは弱々しいというか熱っぽいというか、そういう変な上目遣いで見つめ続けてていた。
それが一転。彼女は突如、目を剥いて絶叫した。
「お願いだからああああ! あの変な虫どうにかしてええええ!」
ユリネラは叫びながら室内のとある一点を指差した。
脱衣所の木の床の上、そこには、黒光りする小さな物体が蠢いていた。それは細長い二本の触角を忙しなく動かしながら、脱衣所内をガサゴソと我が物顔で横切っていく。
「ゴキブリ……?」
「やっぱアレがゴキブリってやつなのか? 実物見るとあんなにキモいのかよ。なんとかしてくれよ!」
ユリネラは短い銀髪をガシガシと掻き乱しながら不快感を表現する。
「あたし、ダメなんだ、ああいうの! たまに海から岩場に上がって休もうとするじゃん。そうすると、フナムシがいるんだよ! ちっちゃいけど、触角長くて、何本もある足をごそごそして、岩陰からウジャウジャたくさん湧いてきたりして、すげーキモい……。アレもダメだし、コレもダメだ! 受け付けねえ。なあ、雅、なんとかしてくれ!」
ユリネラに腕を揺すられ、はっとした僕は、近くにまとめてある新聞紙から一紙を取り出した。それを丸め、ゴキブリに照準を合わせて、冷静に素早く迷いなく振り下ろす。その一撃は見事ジャストミートしたのだが、ゴキブリは尚も手足を動かし、触覚を振り続けていた。僕は静かに二撃目・三撃目を加え、結果、対象は完全に沈黙した。幸い、中身はほとんど飛び散っていない。
ティッシュを何枚重ねにもしてゴキブリを掴み、新聞紙と共に丸めてゴミ箱に捨てた。念のため、雑巾を濡らしてゴシゴシと現場の拭き取りもしておく。
「うげー。そのキモい虫を潰せる雅が気持ちわりーよ」
ユリネラは吐くのを我慢するみたいな顔で僕を見た。せっかくユリネラのためにゴキブリを退治したのに、そんな態度をとられえると、さすがに癪に障る。
「あのさ、その言い方は失礼すぎると思うんだけど。それが助けてくれた人への態度?」
「う……」
「ユリネラが変な遊びばっかりしようとするから、バチが当たってゴキブリが出てきたんじゃないの?」
「うぐぐ……」
ユリネラは、初めは僕を睨んでいたが、やがてがっくりと項垂れてしまった。銀色の髪が俯いたユリネラの顔を隠す。
しかし。
バスタオル一枚の女の子が目の前で落ち込んでいる姿を見ると、なんだか僕の方がよくないことをしているような気になってくる。僕は虫の居所の悪さを引きずりつつ、ユリネラから視線を逸らした。
「ま、まあいいや。とりあえず、お風呂入れば?」
「うん……サンキュー」
硬い表情のユリネラを残し、僕は脱衣場の外に出てドアを閉めた。
居間に帰った僕は洗濯物へのアイロンかけを始めた。アイロンは、シュウシュウと蒸気を吐き出しながら、ハンカチやシャツ、妹のブラウスの皺をどんどん伸ばしていく。アイロンをかけては畳み、収納先ごとに分けた服の山に重ねていく。
こんな風に家事をしていると、逆立っていた感情もだんだんと薄れてくる。妹がわがままを言って僕が怒ったようなときも、こんな感じのことは時々あるんだ。
以前、遊園地に行こうと約束していた日に台風が直撃してしまったことがあった。妹はぐずり出し、「遊園地に行く」と言ってきかなかった。僕が何度も、「外を出歩くのは危険だ」「電車が止まっている」「そもそも遊園地もほとんどのアトラクションが閉鎖しているはず」ということを説明しても耳に入らないようだった。妹は「嘘吐き、遊園地に行くって言ってたのに!」を繰り返すばかり。そのうち、僕の方も感情的になってしまい、喧嘩みたいな雰囲気になっていった。妹の部屋で話していたんだけど、「お兄ちゃん、嫌い。約束破り! 部屋から出てって!」と言われて、僕は言われたとおりに出ていった。お互い冷静になった方がいいだろうと判断したのもあったけど、僕自身にカリカリした感情があったのも事実だ。
その後、僕はイライラをぶつけるように掃除を始め、そうするとなぜだか細かい汚れが気になりだし、気が付くと普段は磨かない戸棚の隅まで拭き掃除をしていた。そうしているうちに、ムカムカしていた感情も薄れて、いつの間にやら妹と一緒に床磨きをしていたなんてこともあったのだ。
家事は意外とストレス発散になるのかもなあなんてつらつらと考えながら、僕は最後のハンカチを畳み終える。うっすらと滲んだ額の汗を手の甲で拭いながら顔を上げると、いつの間にか、寝間着姿のユリネラが目の前に立っていた。ゆったりしたガーゼ地のシャツとショートパンツから、少し赤みの差した手足が覗いている。タオルを頭にかぶった顔は神妙な顔付きをしていた。
「どうしたの、ユリネラ?」
「いや、その……雅、怒ってんのかなーと思って」
「え? 怒る? なんで?」
僕がキョトンとすると、ユリネラはカッと目を見開いた。
「だ、だって、さっき、あたしのこと怒って……」
「ああ。あんなのもういいよ。それよりさ……」
僕がそう言って笑った途端、何かが顔に飛んできた。それは僕の顔に張り付いて視界を塞ぐ。ビックリして剥ぎ取ってみるとそれは湿ったタオルで、目の前のユリネラは何かを投げ飛ばしたフォームのまま固まって僕を睨み付けていた。
「バカ!」
そう言ってユリネラはくるりと踵を返す。ドスドスと乱暴に足を踏みながら部屋を出ていくものだから、古い我が家はミシミシと軋みをあげた。
案外、ユリネラは怒られると引きずるタイプなのかもしれない。妹もたまにこんな態度をとることあるなあと、僕はのん気に笑う。
「ユリネラ、布団はあの仏壇の部屋に敷いといたから。悪いけど、あの部屋しか空いてないんだ」
ユリネラは僕の言葉には返事せず、あっかんべーをして部屋を出ていった。バタンと乱暴に襖が閉まる。やれやれと思いながら、妹の分の洗濯物は妹に運ばせるからそのままにし、残りのものを片付けようと腰を上げた。
その時、また襖が開いた。
ユリネラの顔が半分だけ隙間から見える。一個だけ見える青い瞳が、自信なさげにキョロキョロと、僕の方を見たり、逸らしたりしていた。
「どうしたの?」
「なんか気持ちわりーから言うけど……」
ユリネラは小さな声でそう言うと、深呼吸をしてから、再び口を開く。
「さっきは洗濯物の邪魔したり、気持ちわりーとか言ったりゴメン! じゃあ、言ったからな、言ったんだからな! もう言わねーからな!」
ユリネラは叫ぶように言うと、僕を一睨みしてバタンと大きな音をたてて襖を閉めた。ダダダダと廊下を走る音がして、ユリネラの部屋の襖が乱暴に開け閉めされる音が聞こえた。
「なんか……やけに律儀なんだね」
僕は少し笑ってしまった。




