プロローグ
今でも夢に見ることがある。あの事故の夢。灰色の空と、転覆したフェリーと、荒れた海の記憶。
「おにーちゃ……たすけ……」
まだ小学校に上がる前だった妹は、波に揉まれながら、水面から浮かんだり沈んだりしていた。僕は必死で泳いで妹を抱き寄せ、できる限り水面から妹の顔が出るようにその体を押し上げた。妹を上に抱き上げようとすればするほど僕の体は海に沈んだが、そんなことはどうでもよかった。苦しいのは我慢すればいい。自分のことには構っていられなかった。
お父さんとお母さんは? それに、おじいちゃん、おばあちゃんはどこにいる?
黒々と渦巻く波に遮られて、ひっくり返りそうなほど傾いたフェリーが視界の隅に僅かに見えるだけだった。その時の僕には、妹以外の家族や他の乗客がどうなったのか、確認する術はなかったのだ。
僕は冷たい海の中で妹を掲げ続けた。疲労に悲鳴を上げる腕を懸命に振り上げ、感覚がなくなりつつある足をばたつかせた。でも、限界が近い。冬の冷たい海が体温をどんどん奪っていく。力が抜ける。妹の顔が水面に近づいていく。意識が遠退く。
――もうダメだ!
そう思った瞬間に、誰かに腰を支えられる感覚があった。一気に体が楽になり、僕は仰向けになって水面に浮かび上がることができた。僕が腕に抱えた妹ももちろん、水面上に顔を出せている。
水中で僕を支えてくれた人は、ものすごい速さで泳ぎ始めた。その人は海の中に入ったまま、息継ぎをする様子もなく、僕らをどこかに運んでいく。しかも、襲い来る大波を絶妙な切り返しで避けていってくれるから、僕達に致命的な量の水が被ることもなかった。でも、寒さと疲労で消耗した僕はそんな状態を不思議に思う余裕すらもなく、妹を抱えたまま一時的に意識を失った。
気がつくと僕と妹はどこかの浜辺に横たわっていた。傍らには僕達を覗き込んでいる人がいて、その人は冷えきった僕らの体を必死に摩ってくれているみたいだった。
その人は何かの言葉を僕達にかけてくれているようだったけれど、僕にはうまく聞き取ることができなかった。目の焦点が合わないせいで、その人の顔もよくわからない。
でも、とても長い髪をしているのはわかった。艶々と耀く真っ黒な髪が、夜空のように僕の視界を覆っていて、なぜだか、その光景は危機的状況に高ぶっていた僕の神経を安らかにしてくれた。もしかして、海の中で僕達を助けてくれた人だろうか。
「髪が、黒い髪がとても綺麗ですね……」
お礼を言おうと思ったのに、なぜか、その時の僕はそんなことを口走っていた気がする。そして、またすぐに意識が飛んだ。
結果、僕達兄妹は事故現場から数キロ離れたその島で保護されて、無事に生還することができた。あのフェリーの乗客の中には、巡視艇やヘリの救助によって助かった人もいたけれど、妹以外の僕の家族は――両親と祖父母は遺体で発見された。
警察だとか事故調査委員会だとかの大人達は、僕達兄妹が波に流され、ものすごい幸運に恵まれた結果、あの島に流れ着いたのだと判断した。島に流れ着いたときに僕の傍にいてくれた人については、島民の方々には心当たりがないということだった。僕を診てくれた医者には、海で助けてくれた人も含めて、極限状態のストレスが感じさせた幻だろうと言われた。
本当のところはどうなんだろう。確かにあの時の僕は意識がぼんやりしていたし、正しく五感が働いていなかったかもしれない。でも、あの人はいた気がするんだ。優しい手の感触を感じた気がするんだ。綺麗な黒い髪を見たような気がするんだ。
あれは、本当に幻だったのだろうか。