四月八日の話
闇。
およそこの世の物とは思えない、ドロドロの混沌とした闇が見える。
闇は形を持たず、多様に形を変化させていて一定の形を持たない。
久々に見る夢だ。
あまり見て気分のいい夢ではないので、早く終わることを切に願っている。
その夢の終わりを告げるものを今や遅しと待つ。
暫く待つと、その時は来た。
この夢の終わりは必ず決まっている。
そして、しばらくして夢の終わりを示唆する光の弾が闇に向かって飛翔した。
闇は光を受け、被弾した一点から瓦解を始める。
何度も見たこの夢は、始めて見た時のような恐怖も無く、瓦解するファクターですら面倒だった。
そして闇は完全に消え去り、意識は慌ただしい女の子の声によって覚醒することとなった。
「おにいちゃん!朝だぞ!」
ドタドタと階段を駆け上がる音が微かなが聞こえる。
本来は大きな音を立てているのだろうが、それが微かにしか聞こえない理由は、南宮聖奈人が眠けのせいで意識がしっかりしていないからであろう。
やがて声の主は聖奈人の部屋のドアをこじ開けたようで、バタンと大きな音を立てた後にズンズンと妹が立てていいような音ではない、重い足音を響かせながら近づいてきている。
「もう、おにいちゃん。朝だってば!今日は始業式でしょ?遅刻しちゃうぞ!」
「……今何時だ?永海」
おかしいな、俺が目覚まし時計で目覚めないはずがないのに。
疑問に思った聖奈人が妹である永海に時間を確認した。
「六時半」
「六時半……六時半!?まだ六時半かよ!こんな時間に起こしてんじゃねーよ!」
「え?だってほら。朝起きて、身だしなみ整えて、ご飯食べて、着替えて、おにいちゃんと私がいちゃいちゃする時間を合わせるとこうなるでしょ?」
「何言ってんだお前は。いちゃいちゃする必要はないし、そもそも兄妹でいちゃいちゃってどういうことだよ」
「わかんない?つまり、こういうことだよ!ぴょーん!」
永海が聖奈人のベッドへとダイブし、聖奈人に抱きつく。
ベッドはぎしり、と大きく、そして連続で軋みをあげ、効果音だけならそのような行為をしているかのように思える。
「やめろ永海!落ち着け!」
「おにいちゃん大好き!」
「ぎゃああああああ!てめぇは俺を殺す気か!」
ここで永海のプロフィールを発表しよう。永海の背は二メートル十五センチメートル、体重は九十二キログラム、顔にはなぜか妙な陰りが入っている巨体だ。劇画調というのだろうか。
そんな姿で自分に飛び込まれるとなると、なんというか絵面が悪い上に、重さで死ぬ。
「こら、いい加減にしろおおおお!こっちは朝から妹とプロレスなんてする気はない!」
「じゃあ帰ってきたら夜のプロレスしよっか」
「話が飛躍しすぎだ!」
昔は純粋で可愛い妹だったのに、どうしてこうなったと聖奈人は頭を悩ませ、ため息をついた。
「お前の見た目でじゃれつかれると本当に命の危機を感じんだよ!頼むからやめてくれ!あ、ほら!お前は腕を絡ませてるだけだろうけど、俺からしたら関節技を決められてる感じなんだよおおおお!」
こうしている間にも聖奈人の腕は通常は曲がらない方向へと曲がり、右肘が左方の肩へくっつきそうになっている。
「あ……、曲がらないよぉ……そことそこはこんにちはしないぉ……」
これで無自覚なのだからたまったものではない。
聖奈人は吹き飛びそうになる意識を必死に保ち、なんとか永海を押し戻し、ベッド上から追い出して、立たせる。
こういうものを火事場の馬鹿力と呼ぶのだろう。聖奈人は自分で感心していた。
「おにいちゃん……?」
「死ぬかと思ったぞ!」
「おにいちゃん、永海のこと嫌いになっちゃったの……?」
突き放されたぐらいで何を。面倒くせぇ。
だが、一応フォローはいれておく。
「い、いや。俺はお前のことが好きだぞ、永海。お前は目に入れても痛くないどころか目薬になるぐらいの世界一可愛い妹だ」
「ほんと……?」
「ほ、ほんとほんと」
本当はもう少し小さくて、女の子らしい姿ならもっと可愛い、だなんて口が裂けても言えなかった。
しかし、聖奈人の邪な考えは永海に伝わることなく、どうやら満足したようだ。
頰に両手を押し当て、腰をくねくねと動かして、言葉そのまんまの意味で伝わっているようだ。
「んもう!おにいちゃんはいつまでも妹離れできなりシスコンさんなんだから!」
どちらかというと、頼りになる兄貴分と一緒にいるような気分だと言いたくなるが、そこをぐっと堪え、吸った空気と共に飲み込み、別の言葉を発する。
「目、覚めちゃったじゃねーかよ。ちくしょー、昨日はあんまり寝てないのに」
「徹夜で頑張ってたんだね!」
「お前の頑張ってるとは違う事を頑張ってたんだからな!勘違いしないでよね!」
なんで朝からここまで叫ばなきゃいけないのだろうか。
大きな欠伸を一つし、軽く伸びをしてから部屋のドアノブに手をかけ、部屋を出た。
あの夢……。
扉をくぐりながら聖奈人は頭を掻いた。
聖奈人があの夢を見る時は必ず何かが起こる。高熱を出したり、大きな怪我をしたり。
現時点で何もないのが少し不思議なものである。
もしかして、今起こったことが悪いことの暗示だったのだろうか?
……それはないな。
永海は聖奈人が何を考えているかも露知らず、無邪気ながらも汚物を消毒しそうな顔で部屋を出るのを伺って永海も聖奈人の後ろをちょこちょこと小動物……もとい象のように付いてくる。
言葉の響きだけならば可愛いものなのに。
そのまま階段を一段ずつ下り、家族の共用スペースである居間へと足を運ぶ。
家族共用スペースとはいっても、南宮家には今、聖奈人と永海しかいないので、実質二人だけのスペースとなってしまっている。
「はい、おにいちゃん」
聖奈人がテーブルの椅子に座ると、永海がタイミングを見計らって朝食を卓に出す。
こいつ、何時に起きてたんだ?
「ありがとさん」
軽く礼を言い、食事に入る。
「頂きます」
「いっただーきまーす!」
時刻は七時ぴったり。
いつもは始まって少し経ってから見ることになる朝のニュースをオープニングから見ることにちょっとした優越感を覚えながら次々と流れるニュースを食事を摂りながら見る。
番組はいくつかのピックアップを過ぎ、芸能ニュースに移行した。
よく見るアイドルが画面に映し出される。
「このアイドルってまだ消えてなかったのか」
「びっくりだよね。というか、さっさと消えればいいのにな」
「おいおい。それは言い過ぎだろ」
「だってー!この子”あれ”にかかってるのに、まだマシなんだもん!」
永海の言う”あれ”を説明する前に、数年前に起こった、全世界を巻き込んだ大戦争のことを説明せねばなるまい。
ちなみに、戦争と言っても、国同士の戦争ではない。
たった一人の魔女と、それ以外の人間との抗争である。
魔女は名前通り不思議な魔法を使う女で、この世界を衰退させた大戦犯だ。
”あれ”とは、魔女の魔法のことである。
人類は防戦一方ながらも、なんとか攻撃を防ぐことで、状況的にはほぼ五分五分で戦っていたのだが、その、魔女からすればまさに「無駄」「足掻き」とも言える細やかな抵抗をずっと続けられた事に痺れを切らし、魔女は”あれ”を行使した。
”あれ”にかかった人類は全員無事ではいられず、男は聖奈人を除いてほぼ全員消えてしまい、女は永海のような姿に変わってしまった。
男を失って戦う手段が無くなった人類は窮地に立たされたかと思いきや、魔女にかけられた魔法を自らが戦える状態に魔力を変換できる、通称魔法少女達が現れたのだ。
実を言う聖奈人もその魔法少女に助けられた一人である。
魔女にとって、それは予想外のことだったらしく、幾人かの魔法少女の手によって撤退を余儀せざるを得ない状況になり、結果人類は全滅せずに済んだ───というのが実際はどうか分からないが、一般的に言われている魔法少女が生まれた理由と、人類が今でも存在できている理由の説だ。
迫り来る魔女の恐怖から身を守るために、今は魔法少女達による魔力フィールドを街全体に張り、魔女の魔法や、直接侵入してくることを防いでいる。
「……なんでこんな世の中になっちまったんだか」
聖奈人は溜息をついた。頭の中で今の状況を整理したら、今自身が置かれている現状に悲しむことしか出来ない自分が可哀想で仕方がなかったのだ。
「おにいちゃん?どうしたの?」
「いや……女の子がムキムキでとってもアンハッピーだなって」
「ムキムキでアンハッピーって……私だって!」
永海がテーブルを思いっきり叩いた。少しテーブルが壊れた様な嫌な音が聞こえた気がするが、シリアスな空気なので構っていられない。
「私だって……苦しいんだよ?」
「……そうだよな、ごめん」
「男の人がこの世から消えて、街をじゃれつきながら歩いてる男の子二人を眺めることが出来なくなって……!」
「あれ!?そんな話してたっけ!?」
「お兄ちゃん……責任取ってね?」
「何の!?何の責任!?話が飛躍してないか⁉︎」
「お兄ちゃん……」
「やめろおおおおおおお!キス顔はやめろおおおおおおお!目が腐る!!」
聖奈人の顔が永海の逞しい腕にガッチリとホールドされ、口づけ秒読みというところまでいった。
その時、突然居間の扉が勢いよく開いた。
「ちょっと!朝から兄妹で何やってんのよ!」
「げ……琴葉。けど、グッジョブ」
突如として現れた少女、聖奈人と永海の幼馴染みである十二夜琴葉は聖奈人を勢いよくこき下ろした。
「げ、とは何よ!せっかく起こしに来てあげたのに、朝から二人でイチャイチャイチャイチャ!このシスコンが!」
「俺関係ないだろ!」
「知らないわよ!そ、そんな兄妹でなんて……!」
「話聞いてます⁉︎」
聖奈人の話など一切聞かず、琴葉が自分の世界に突入する。
そんな琴葉を見た永海はニンマリと笑い、琴葉を軽く挑発した。
「あれれ?琴葉さんは私とお兄ちゃんが仲良いと問題あるの?これくらい兄妹じゃ当然だよ?何か困るのー?」
当然では無いし、問題は山積みだ。
「べ、別に困らないけど……」
おいそこ、折れるな。
「ならいいよね!おにいちゃん大好き!」
「おっ、おい!」
逞しい胸筋が当たってる!
「あっ、駄目だってば!」
琴葉も負けじと聖奈人の腕に胸を押し付ける。
しかし、悲しいことに鍛え抜かれたかのような胸筋を押し付けられたところで、聖奈人はちっともドキドキもドギマギもしない。
それより聖奈人の頭の中は、いつ腕を引っ張っての奪い合いになるかどうかということでいっぱいだった。
「むぅ……。おにいちゃんは渡さないんだから!」
「わ、私はあんた達の将来を心配してるだけなんだからね!」
ついに聖奈人が恐れていた、両腕を引っ張られる拷問が始まった。
身長二メートルの巨体に引っ張られるのだ。中肉中背の平均的な大きさである聖奈人からすればたまったものではない。
「うぎぎぎぎぎ!!落ち着け二人とも!ほ、ほら、ニュース!ニュース見ようぜ!」
ニュースへと二人の意識を向けさせる。
永海と琴葉の意識はうまい具合にニュースへと傾き、聖奈人の両腕を離した。
『……速報です。先程、フィールド内に悪性の何物かが侵入してきたとのことです。魔法適正のある方は魔法適正のない方を守りながら行動してください。以上です』
速報が終わり、誰も普通の服を着れなくなったために用意された、人型の3DCGが軽やかに動く、ファッショントレンドのピックアップへと移る。
妙に静かな空気が流れ、一拍置いた後に聖奈人が話し出す。
「……だとさ」
「ふーん。ま、どうせすぐに魔法少女様が撲滅するでしょ。あたしにはかんけーないかんけーない」
「おいおい、いざとなったらお前に戦ってもらわないと俺たちは困るんだからな」
「魔法適正があるからって魔法少女みたいな力が出せるわけじゃないんだからね。あたしなんかじゃ時間稼ぎが精一杯。魔法少女たちは特別なのよ」
「それでも頼りになるのは、私たちの中じゃ、琴葉さんしかいないんだから、もしもの時はお願いします」
「……わかってるわよそんなこと」
少し照れ臭そうにそっぽを向く。
そして、何かを思い出したかのように聖奈人の方へ向き直る。
「って、あんただって戦えるでしょうが!」
「俺がぁ?馬鹿言え。前までは一応魔法適正あったけどよ、それでも何か出来るわけじゃなかったし、俺を助けてくれた魔法少女が行方不明になってからそれっきり魔法適正すらなくなったし」
あの時聖奈人を助けた少女は、現在行方不明になっている。行方不明だということをはっきりと知っているのは聖奈人を含めた数人のみである。
聖奈人が学校へ行く準備を始める。
それで話を打ち切るつもりらしく、無言で部屋へと制服に着替えに行く。
それを見た永海もとたとたと階段を駆け上がり、部屋に戻る。
「まったく。心配そうな顔して」
琴葉が一人になった居間で腕を組んでぼそっと漏らす。
部屋に戻った聖奈人は窓から空を見上げると、一年の始まりに相応しい青空が広がっていた。
机の上に置かれている黒いネックレスが爛々と光っている。
「魔法少女……か」
過去に一度会ったっきりの魔法少女を思い浮かべ、身を案じる。
だが、今は気にしても仕方がない。切り替えようとしたその時だった。
……聖奈人は何故先ほどあんな夢を見たか思い出した。
今日は新学期だったからだ。
クラス替えの不安が募る。
「行ってきます」
「行ってきまーす!」
「行ってきます」
三人同時に家から離れ、学校へと向かう。
永海はまだ中学生なので、途中で別れることになるが、それまでは一緒に登校する。今までずっとやってきたルーチンワークだ。
「でね、でね!そのとき隣の席のけいちゃんが……」
「まずけいちゃんって誰だよ」
「けいちゃんはね、私の友達!すごいんだよ?」
「すごいってどういう方向にだ」
「百メートルを十秒で走るんだよ!」
「……ちなみに、昔はどれぐらいだったんだ?」
「二十秒」
「伸びすぎでしょそれ!」
他愛のない会話を三人で歩きながら続け、別れる場所まで、しばらく話せない時間を埋めるかのように喋る。
けいちゃんの話を聞き続けていると、やがて分かれ道へと到達した。
分かれ道には近寄りがたいオーラを発している強靭な肉体を持った誰かが待っている。
「あっ、けいちゃん!」
永海がその人物の元へと駆けていく。どうやら、彼女?がけいちゃんのようである。
「おはよ、けいちゃん!」
「永海ちゃんおはよう。朝から元気だね」
見た目の割には落ち着いた性格のようだ。
聖奈人は何故か少し安心した。
「そっちの人は?」
けいちゃんは聖奈人の方に目線だけを向け、永海に質問をする。
「私のおにいちゃんだよ!」
永海が元気よく答える。
「お兄さんでしたか。初めまして。私は百恵けいと申します。永海ちゃんからよくお話は聞いていますよ」
丁寧な態度に丁寧な言葉使い。
育ちが良いのは聖奈人の目から見ても明らかだった。
「聖奈人だ。それで、俺の話って……」
「お兄さんと永海ちゃんがラブラブな話です」
「事実無根だ!」
聖奈人が永海へと向ける愛情は本人は至って普通のつもりだが、聖奈人から見て、永海の聖奈人へと向ける愛情は家族の域を少し逸脱している気がする。
もっとも、聖奈人も一般の目線からみると、いわゆるシスコンになるのだが。
「じゃ、行ってくるねおにいちゃん!」
「行ってきますお兄さん」
「行ってらっしゃい、二人とも」
「気をつけろよ」
「はーい!」
二人してぱたぱたと可愛く通学路を走る……わけもなく、目を奪われるほどの美しいフォームで、そして恐ろしくなるようなスピードで全力疾走。
あっという間にいなくなってしまった。
「流石十秒……速いわね」
多分お前ならもっと速く走れるぞ、と心の中で毒づくが、それをあえて口にすることはない。
静かになった通学路を二人してテクテクと歩く。
聖奈人と琴葉は同じ高校に一年前に入学し、今日から高校ニ年生になることになる。
去年も同じクラスでほっとしたのが聖奈人の記憶に新しい。
と新しいといっても、もう一年前になるのだが。
聖奈人がそんな感傷に浸っていると、琴葉が聖奈人の少し前に踊りだし、やがて口を開く。
「ねえ、あんたは……その、永海ちゃんのことどう思ってんの?」
「は?いや、普通に可愛い妹だけど」
質問の意図が読み取れず、首を傾げながら答える。
「その可愛いと思ってる感情が問題なのよ!あんたら兄妹がいつか一線を越えそうで怖いの!」
「なに言ってんだお前。あんな妹に手なんて出すはずないだろ。というか、今存在してる女と一線超えるくらいなら死んだほうがマシだ」
馬鹿らしくなって一人で歩き出す。
琴葉は「ちょっと」とまだ何か言いたそうにしていたが、諦めたようで、何も言わずに後をついてきた。
それからしばらくの間は会話がなくなるが、やがて琴葉の方から声をかけてくる。
「クラス分け気になるわね」
聖奈人は、先ほどのような、自分の嫌がるような話題ではないことを確認すると、琴葉の質問に答えた。
「お前と一緒になれるかどうかでこれから一年の生活が決まるんだ。気になるどころか死活問題だよ」
男が極端に減ってしまったこの世界で、同性の友人を作るのは聖奈人にとって、無理に等しい。
かといって、異性の友人を積極的に作るというのもとても難しい。
なので、幼馴染みである琴葉がいるかいないかで大きく聖奈人の生活が変わるのだ。
「ふふん。やっぱ、あたしがいないと何も出来ないのね」
「うるせーな。俺だってどうにかしたいと思ってるよ」
どうにかしたいと思っているのは本当だが、どうにもならないのだ。
「つーか、女子って苦手なんだよな。なんというか……あのピンク色のオーラが?」
うまく伝えられないので、ジェスチャーで身振り手振り、なんとか伝えようとする。
ちなみに、聖奈人が女子に話しかけるのが苦手な理由は、ピンク色のオーラに加えて、世紀末の香りがプンプンするからである。
本来女の子同士がいちゃいちゃしているのを見たり、自ら女子に話しかけるのが大好きな聖奈人ではあるが、筋骨隆々の異物を見て喜ぶ性癖はなかったのであった。
小学生の時のあだ名は『エロマシーン』だった聖奈人は、魔法のお陰ですっかり真人間へと変貌してしまっていた。
「あんたが思ってるほど女子ってピンク色してないわよ」
呆れるようにため息をつきながら聖奈人を諭す。
聖奈人も、そこまでピンク色を盲信しているわけではなかったが、やはり男として信じたい何かはあるのだ。
「あたしは男の方が羨ましい」
「男だっていいもんじゃねえよ。まぁ、男は女に憧れて、女は男に憧れるってもんだ。お互いの理想と妄想をごっちゃにしてれば、どっちがいいとかどっちが悪いとかなく理想がなんたらかんたら」
後ろ歩きで琴葉の方を向き、仰々しく両手を広げて適当なことを言う。
途中で何を言っているかわからなくなったが、無理やりそれっぽいことを言って押し通した。
「何言ってるか全然わかんないわよ」
「そりゃそうだ。だって適当だからな」
前に向き直り、ちゃんと歩こうとした。
しかし、遅すぎた。聖奈人は後ろ歩きをしていたことを後悔した。
十字路の向こうから走っていたムキムキ少女の姿が見えた頃には、もう既に聖奈人の体はぶつかった衝撃で空高く舞っていた。
「聖奈人!」
琴葉の驚きの声。
聖奈人の体は大きくバウンドしたと同時に地面へと醜く着地、しばらく地面に伏せていた。
「申し訳ない」
静かに、軽く詫びをし、颯爽と去っていく。
嵐が通り過ぎたようだった。
「く、車に跳ねられたかと思った……」
「大丈夫?聖奈人」
「いや、大丈夫っちゃ大丈夫だけど……なんだ今の……娘?」
「さぁ……。ものすごい勢いで消えちゃったけど」
誰もいなくなった道を二人して見つめる。
「けど、どっかで見たことあるような気がする」
「そう?あ、そういえばあの娘と制服、うちの学校のじゃない。だから見たことあるんじゃないの?」
今の一瞬で、よくわかったものだ。
聖奈人は少し感心していた。
「流石、賢流の免許皆伝」
「やめてよ。大きな声で言わないで。あんまり知られちゃいけないらしいんだから」
琴葉は賢流という古くから伝わる流派の門下生で、齢十三にして免許皆伝を得た達人である。
今は学業を優先しているために道場にはいっていないのだが、その威力は、十三歳の拳でコンクリートを粉砕することができるレベルだ。
昔から少し技を受けていた聖奈人は、コンクリートが砕けるのを見て背筋が凍りつく思いだった。
しかし、最近また技を見せてもらったのはいいが、コンクリートをどうにかすることは変わらなかったものの、粉砕どころか粉末にしてしまった。
どう考えても魔法による筋肉のせいだ。
それっきり、聖奈人は琴葉に頭が下がりっぱなしなのである。
「あ、もうすぐ学校よ」
数週間ぶりに登校する学校はなかなか新鮮味のあるもので、校内に咲いてある桜も相まって心が躍る。
校門を通り、事前に連絡されていた、下足場に貼られたクラス名簿へと向かう。
今まではそうではなかったが、下足場へ一歩一歩と近づくたびに緊張が高まる。
頼む、琴葉と一緒になっていてくれ───。
縋る思いで名簿へと目を向ける。一組には二人の名前はない。
二組は……ない。
三組……あった。
南宮聖奈人の名前を見つける。
その上の方には、十二夜琴葉の名前。
「あった!」
「助かった!」
二人で見合い、喜びを言葉にする。
緊張は無くなり、これからの生活に希望を感じていたそのとき、名簿にある一つの名前を発見した。
「ん?こ、これは!」
聖奈人が発見したのは、菜種佳凪太の名前。
「こうしちゃいられない!」
琴葉を一人残し、二年三組の教室へと全力疾走する。
そのあたりにいる女子たちをうまく避け、階段を駆け上がり、教室のドアへと手をかけた。
思い切りドアを開き、教室を確認すると驚き顔のゴリラが数名、その中に黒髪ロングでストレートヘア、身長は低めで細身の、驚いてはいるものの、他のゴリラとは一線を画す、明らかに違う可憐な者が立っていた。
「かなーっ!」
「あっ、みなくん!」
聖奈人は佳奈太を思いっきり抱きしめる。
「ああ、俺の唯一の癒しよ……!会いたかったぞ!」
「ちょ……、だめ、みなくん……。みんな見てる……。へんな風に見られちゃうよぉ」
現に、腐ったゴリラ達がクソ生意気に文明の利器であるスマートフォンを取り出し、カシャカシャと音を鳴らしてカメラでシャッターを切っているが、聖奈人はお構いなしだった。
「かな、かな、かなぁ!」
「だめだって……ま、まだ早いよぉ……ちゃ、ちゃんと段階を踏んで……」
「かなアァァァァァ!」
「いい加減黙れええ!」
愛を叫ぶ聖奈人の背中に、重い一撃。
この痛みは琴葉の拳だと聖奈人は一瞬で察した。
聖奈人は腰が砕けるほどの衝撃を受けているにも関わらず、聖奈人が抱きついている佳凪太にその衝撃はゼロである辺りは流石としか言いようがない。
「て、てめぇ……!何してくれやがんだ!」
琴葉を怒鳴りつける。もちろん、黙っている琴葉ではない。
「それはこっちのセリフよ!なーに突然走り出したかと思ったら、いきなりかなを抱きしめてんのよ!」
「かなは抱きしめるもんだろ!」
「わたしは愛玩動物じゃないよぉ」
佳凪太が口を挟む。
しかし、佳凪太の顔は満更でもない風である。
「ちくしょオオオオオオ!かなァァァァァ!」
「うるさい!」
琴葉が佳凪太の頭を踏みつける。
それっきり、聖奈人はおとなしくなってしまった。
暴力の前には愛など無力なのだ。
「おはよ、かな」
「う、うん。おはよう、琴葉ちゃん」
今更という気がしないでもないが、朝の挨拶を交わす。
「しっかし、相変わらずね。女の子みたい。羨ましいわ」
「そ、そんなことないよぉ」
佳奈太が筋骨隆々のクソゴリラにならないでいられるのは、単純な理由だ。
佳奈太はシンプルに男だからだ。
しかし可憐な見た目故に魔女が勘違いし、女用の魔法をかけたために効果を発揮しなかった。
さらにそれが原因で魔法への耐性が出来たために男用の魔法にもかからず、こうして生き延びているのである。
「まあ、一年よろしく」
「うん。こっちこそよろしく」
身長が百四十数センチしかない佳凪太に合わせて琴葉がしゃがみ、握手を交わす。
ちなみに、聖奈人の頭には琴葉の両足が乗っていて、百キログラム以上の体重がノーマルサイズでしかない頭にのしかかっている。
「し、死ぬ……!」
「あ、ごめんごめん」
対して悪いと思っていないが一応、という風に琴葉が謝る。
頭から降りる時、踏ん張り、ジャンプしながら降りた為に百キログラムと琴葉の脚力を合わせた力が聖奈人の頭に襲いかかった。
教室の床は少し陥没している。
大袈裟ではない痛みに悶えるものの、すぐに立ち上がり、聖奈人はがなった。
「琴葉ぁ!重いだろうが!」
「あんたが悪いんでしょ!」
目線で火花を散らす二人。
それをみてオロオロする佳凪太。
クラスにはもう殆どの人が集まっており、その一瞬即発な険悪ムードに興味津々だった。
もうすぐで爆発しかけていたそのとき、不意に大きな音を立ててドアが開いた。
「はい、みなさん座ってくださーい!」
甲高い子供のような声が生徒たちに座るよう命じる。
「あ、みっちゃん先生!」
クラスメイトの一人が先生を呼んだことを皮切りに、全員が先生を囲んだ。
「みっちゃん先生でよかったー」
「これからの一年楽しみです!」
賛美の声に少し照れながらも、先ほどと同じように席に座るよう言う。
「はいはーい、質問なら後で受けるから早く座ってくださーい」
その言葉を受けて、続々と座り始める生徒たち。
聖奈人達も大人しくなり、黙って席に座った。
「はい、改めておはようございます。私がこの一年、みなさんの担任になる緒方美月です。先生としてまだまた未熟ですが、みなさん仲良くしてくださいね!」
おおよそ先生とは思えない挨拶ではあるが、そこが良いのだという様子で暖かい拍手を送る。
「早速で悪いですけど、今から入学式を行うので体育館に移動してくださーい!」
身長二メートル超の巨体が体育館の方を可愛く指す。
ただし可愛いのは仕草だけで、見た目は凶悪なテイストに仕上がっている。
それから体育館にクラスメイト全員で移動し、校長のクッソ長い話を半分聞き流してまた教室に戻る。
一番面倒な事のはずの始業式が一番短く感じたのは、先ほどの戦闘の記憶が濃いせいだろう。
というか何より、そんなどうでもいいシーン誰得なのか。
そして、先生の指示で自己紹介が始まる。
学校が始まって一日目なので、これが妥当なところだろう。
授業なんてしようものなら暴動が起きる。
出席番号一番から自己紹介をつらつらと語っていく。
そして出席番号十四番、十二夜琴葉に出番が回ってきた。
琴葉はさして緊張感している様子もなく、淡々と自己紹介をする。
「十二夜琴葉、趣味はスポーツ全般です。よろしくお願いします」
スポーツ全般じゃなくて暴力に変えろ、と突っ込みたくなるが、ここで何かを言えば顔面に拳を突っ込まれるのは聖奈人の方なので、ここは我慢する。
そして数人自己紹介が終わり、聖奈人は次の人間に目線を移した。
そこで聖奈人は目を見開いた。
そこには、登校中に聖奈人を吹き飛ばした筋肉ダルマがいたのだ。
「あの娘……」
そこで何か問い詰めることはなかったが、聖奈人はその不思議な雰囲気に飲み込まれた。
「……刀匁刃乃」
それだけのことを呟くように言うと、すぐに黙り切って座ってしまった。
誰もがそれだけで終わるとは思っておらず、ぽかんとしている。
しかし、終わったことを認識するとまばらに拍手が始まり、やがてそれは他の人へと向けられた拍手と同じくらいの大きさになった。
その後拍手は止み、またしばらく特に興味のないゴリラたちの自己紹介を経て、やがて佳奈太へとバトンが渡る。
「えっと……菜種佳凪太です。一年よろしくお願いします」
聖奈人の目から見て、多分世界で一番キュートな自己紹介を終わらせた佳凪太は、緊張していたのか、座った後も落ち着かない様子でいた。
最高だな。
そして、先ほど聖奈人と佳奈太を撮影していた腐ゴリラ他数名の自己紹介を聞き流し、ついに聖奈人へと番が回ってきた。
ゆっくりと立ち上がり、周りの目線を感じながら自己紹介を始める。
「み、南宮聖奈人。よろしく頼みます」
いい詰まりながら自己紹介。刀匁さんのことを笑えないな、と思いながら席に座る。
しかし、よろしくと言ったことが功を制したようで、内容が短くともなんとか拍手は得られた。
それからは聖奈人が特に気になる人物もいなかった。
強いて言えば、聖奈人の少し前に自己紹介した、一人だけやたら気丈な態度で話す人がいたような気がしないでもないが、そこまで気になるかと聞かれればそうでもないレベルのものなのであった。
その後、美月による次の日以降の予定や、諸連絡を済ませて解散になった。
これからどんな生活が待ち受けているか非常に不安だった。
そのまま特にやることもなく、配布物を受け取っただけで学校は終了した。
時刻を見ると十二時前。
昼食をとるには丁度いい時間だ。
「なぁ、どっかで飯食ってかないか?」
琴葉を食事に誘う。
「いいわよ。どこにいく?」
「ファミレスとかでいいか?後、永海と佳凪も誘いたいんだけど」
琴葉は一瞬少しがっかりとした様子に表情を落としたが、すぐに元に戻って返事を返す。
「まぁ、そうよね。全然いいわよ。ファミレスも、永海ちゃんも佳凪も」
「ありがとな」
一言礼を言うと、聖奈人はスマートフォンを取り出し、永海へと電話をかける。
永海の中学校も昼には終わっているはずなので、これくらいの時間にかけても大丈夫だろう。
しばらくコールが続いたのち、永海が電話に応答する。
『おにいちゃんどうしたの?』
「いや、飯食いにいかないかって誘おうと思ってたんだけど」
『あー、ごめんね、けいちゃんと遊びに行く約束してるんだー』
「そうか、なら仕方ないな。今度二人でいこうぜ」
『うん。またデートしようね!』
「そこまで言ってねえよ。切るぞ」
半ば強引に通話を切断する。
琴葉も少し会話を聞いていたが、聖奈人の言い方も悪いように思えた。
「あいつは無理だってさ。じゃあ、佳奈だけでいいか」
佳奈太はまだ帰宅していない様子だったので、校門で待つことにした。
そして、十分程度時間が経ち、佳凪太がその姿を現した。
「あれ、みなくんと琴葉ちゃん。まだ帰ってなかったんだ」
佳凪太は少し驚いたという表情で二人を代わる代わる見る。
「まあな。それより、飯食ったか?」
「え?まだだけど」
「なら良かった。今から飯食いにいかないか?」
それを聞くと、佳凪太の表情はみるみる明るくなった。
「その為に待っててくれたの?」
「まあ、そうだな」
「えへへ、わたし嬉しい」
何故か頬を赤く染める佳凪太に若干の不安を覚えながらも聖奈人は更に続ける。
「家は大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫だよ」
佳凪太の家庭は少々一般から離れているものがあるので、こういう時には少し気を使う必要があるのだ。
「それじゃ、行くか」
「そうね」
ファミレスへと向けて三人が足を運ぶ。
ちょっと歩けば表通りに出るので大した時間はかからない。
聖奈人は、最初はあれだったものの、それなりに一年の始まりの滑り出しが好調で、幾分か気分が良かった。
後ろを誰かが尾行していることに気づかないぐらいには。




