第七話 フトモモの悩み
「校長!」
なぜか息を切らした教頭が、校長室へ飛び込む。
校長は平静だった。
「今日は風紀委員の方より、特に報告は受けておりませんよ。平穏な朝です。」
「ええ、そうです。怪盗ホチキスです。やられました。今朝の被害は……って、いえ、やられていません。そもそもやっていないようです!」
「全く、あなたは、常日頃どんな妄想をしているのでしょう。」
「それは、フト……ううん、なんでしょうね……わたしには、わたくしには、その真意は計り兼ねます。」
「やはりあなたの思考回路は理解できませんが、……あなたは誰ですか?ここはどこですか?」
校長は、教頭をテストした。すると、教頭は答える。
「はい。わたくしめは、ツーです。ここは、本部の隣の部屋です。いや、もとい、教頭室の隣にある校長室です。」
「……」
とても静かな、特に事件性もなく、少し肌寒さを感じる梅雨の朝だった。
またしても校門前。
そぼ降る雨の中、風紀委員らが登校する生徒を見守っている。
いらいら。最近、高城春樹がよそよそしい。そのことが西條令を苛つかせていた。
遅刻を咎めたことが彼を委縮させてしまったのかと、西條は自らを責めもした。しかし、西條が高城本人に問えば、それは単に寝坊で自分が悪かったのだから気にしないでくれ、と懇願されるのだ。しかも恥ずかしそうに顔を赤らめて言われるものだから、もう彼女はそれ以上問えなかった。恐れられている、という態度でもない。そのため、おのれの非ではないのだと推すよりほかなかった。その確証のない推察のみが、西條の心に微かな癒しを与えた。
高城にも、本音を言えない理由があった。実は遅刻の理由は寝坊ではなく、妄想が止まらないが故の事故であった。
その妄想の根は、「西條のフトモモが見たい」であった……
そんな二人を、影から眺めていたフトモモ教の教祖は思う。手遅れにならないうちに、彼女の心のたがを外さねばならない、このままでは狂って邪教の信者になってしまうかもしれないもの!
その邪教とは、相手の意も汲まず、強引にフトモモをさらさせ、且つ、それをむさぼるフトモモモ=モモモ=オレノモモ教。フトモモ教の教祖自身が、限りなくその信条に近い奇行を働いていることに気付いていないのは、唯一の救いか。……救いか?
風紀委員長でもある星影昴は、校門前で生徒らを見守りつつも、同じ委員である西條と高城へ、より多くの思考を割いていた。因みに今朝も高城は不在だ。青春妄想真っ盛り暴走中!
この二人がキーである――と、星影は考えていた。なんの?気にしてはいけない♪さりげなーくおもむろに西條へと近寄り、声を掛ける。
「西條さん。」
「はい。なんでしょうか、会長。」
西條は苛立ちから来る不快感を飲み込んで、星影に応える。
「先日の不審者の件、やはり、あなたのおかげで、被害を食い止められたのだと思いました。改めて感謝します。安全確保や増援の素早い連絡がなければ、被害は免れ得なかったかもしれません。」
西條は星影の物言いに当惑した。「会長」から二度も同じことを聞かされるなんて――事件直後、ほぼ同じ内容の謝辞を星影から贈られていたからだ。
事件以来、教職員や生徒らからの度重なる賛辞のほか、無遠慮な好奇心からの問いや言葉を浴びていたことに辟易していた。さすがにそういった声は当時よりは鳴りをひそめていたものの、いらいらを抑え込んでいる西條には二つの意味でこたえた。またか、という思い、それから、会長がどうしてそのような思慮のないことを、という思い。
「……いえ、私には、荷が重過ぎました。不審者は取り逃がしましたし、だから……」
西條は言葉が続かなかった。会長に同じことを再び説明する自分という様が、悲しくて仕方がなかったから。
下を向いてしまった西條に、星影はそっと寄り添い、抱き留めた。西條の手から傘が落ちる。涙を抑え切れなくなった西條に傘を掛けつつ、星影は謝る。
「ごめんなさい。いじめるつもりはなかったの。でも、どうしても、あなたには必要なことだったから、敢えて、また、言うことにしました。」
西條には分からなかった。星影の意図が。
「……会長……どうして……」
星影は自らの額を西條の額に当てると、目を瞑って語った。
「あなたは今、辛い筈です。そのわけは、決して、不審者を取り逃がしたことでも、被害を食い止めたことによる賞賛や興味本位の声をたびたび受けることでも、ありません。確かに、これらは、あなたを苛ませるのでしょう。けれども、普段のあなたなら、取るに足らないことの筈です。」
星影の言葉に、西條は胸が強く痛んだ。
「うっ……会長!会長!私は、どうして、こんな目にっ……」
嗚咽する西條。星影は優しく呼び掛ける。
「西條さん。あなたは今、試練を受けているのです。生きていくことは、生き続けることとは、試練を乗り越えていくことです。あなたが辛いのは、気付いていない弱さが傷付けられているからかもしれません。私も、あなたも、誰にも、どこかに弱さがあって、その弱さは、他人にはおろか、本人ですら、なかなか分からないけれど、その本人、あなただけが、あなた自身だけがこそ、そのものを分かることもできるのです。今ある弱さに気付き、それを見据え、意識してその存在を受け入れる、そういう試練です。大丈夫、あなたはもう気付きつつあるのだから、自分に自信を持ちなさい。」
話を聞くうちに西條は、不思議と落ち着いてきていた。会長は、こう言っているんだ。乗り越えられる、と。
抱き留めていた西條を放し、星影はポケットから取り出したハンカチーフで目元を拭ってやる。西條は気丈な表情に戻っていた。
「会長。」
「……」
星影は何も答えない。西條は宣言する。
「ありがとうございます。私は、風紀委員の西條令です。会長の補佐をする立場なのに、お手を煩わせて申し訳ありません。必ず、ご恩に報います。」
星影は少しだけ口元を緩めて返した。
「気負いは必要ないわ。その心意気だけを受け取っておきます。応援しています。」
西條の背後から、嬌声が聞こえる。星影は声の聞こえた方を見て、囁く。
「ほら、あなたを慕う生徒達が、待っていますよ。」
西條は照れつつも頷くと、傘を拾ってから、声を上げた女生徒らの方へ向かった。彼女は、女生徒特に下級生からの思慕が篤かった。強さと不屈の姿勢が、彼女らを引き付けるのだろう。
星影は西條と女生徒らを眺めながら、願うのだった。
あなたが彼女達との触れ合いを求めるのも、また、彼女達があなたを求めるのも、それは、ひとえにフトモモのためなのよ!早く、気付いちゃいなさい!
ほんとかよ。