第五話 対峙
「校長!」
しぶとくも息を切らした教頭が、校長室へ飛び込む。
ところが校長は既に一報を受けていた。
「風紀委員の西條令さんから、報告を直接受けました。すんでのところで被害は免れたようですね。」
「ええ、そうです。怪盗ホチキスです。やられました。今朝の被害は……って、いえ、やられていません。やれなかったようです!」
「全く、あなたは、どなたの肩を持っているのでしょう。」
「それは、フト……ううん、なんでしょうね……わたしには、わたくしには、その真意は計り兼ねます。」
「やはり意味が分かりませんが、それは本心なのですか?」
「いえ、単純にフト……ううん、布団が好きなだけです。」
「あなたは教育者としての心根が、その芯からゆがんでいるようです。そのような自己認識はございますか?」
「芯」という言葉に反応した教頭は、襟を正して即答した。
「はい!万が一の不足がないよう、毎月の小遣いを節制して調達に勤しんでおります。ただ、調達の倍増はなかなかに苦しいのですが、日々の食事すら抜くほどの信心で乗り越えてございます。」
校長は、教頭の錯乱状態を見越して、その言わんとすることを理知的に汲み取ろうとした。
布団が好き、睡眠時間が欲しいという暗喩。自己認識の不足がないよう調達に勤しむ、それはもしや書物の購読による自己啓発を意味するのだろうか。睡眠と食の欲を省いてまでの献身、確かにそれは教育者としていささか度が過ぎてはいるものの、尊敬に値する姿勢――校長は鋭かった視線を緩め、低頭した。
「あなたには敬服しました。そして、大変失礼なことを申し上げたこと、お詫び致します。ただ、あなたはよい教育者ですが、もう少し、おのが身を労わりながら、教育の道を進められても、よいのではないでしょうか。」
その言葉を聞いた教頭は、立ち居ままにして涙した。
ああ、わたくしめの信心は、信者ではない校長にも伝わるほど、純粋なものだったのか――ナンバー2であることに感慨の度を益々深めていく、勘違い自称ナンバー2であった。
ここに校長は、一つだけまだ解決していない疑念があった。なぜ教頭は、怪盗ホチキスの肩を持つような発言をしたのだろう、と。
しかし教頭の涙を見て思い直す。いや、それは捉え違いだ、西條令からの報告を伝え遅れたことを、「やれなかった」と言ったのだ、そうに違いない。全く、この人は誰かに支えられる必要があるからこそ、教頭として、ナンバー2としての立場が相応しいのだ、それはうだつの上がらないことを意味するわけではなく、天職としてその地位となることを授けられているのかもしれない――度量の限りなく広い校長は、教頭の心根を曲解してしまった……
かたや校門前。校長や教頭へ一報が届けられる前に、くだんの出来事は、この近辺で起きていた。
風紀委員一同が校門前で登校してくる生徒らを監視している中、女生徒の悲鳴が上がった。ところが、いつもは真っ先に現場へ向かう役どころである委員の高城春樹は、久し振りの惰眠をむさぼっていた。要するに、遅刻して校門前監視に参加していなかった。もちろん、委員長の星影昴は、ご不浄へおいとましていることになっている。
こういうときは、委員内で最速の女子ランナーとうたわれる西條令が、現場急行を買って出ざるを得なかった。
「何で大事な時に高城は遅刻するんだかっ!あとで新開発のひじ打ち三回転ひねりをお見舞いしてやるんだからっ!」
西條は走り出しながらにポケットから機器を取り出し、一報を教頭へ伝える。
「こちら校門前。事件が発生しました!現場に急行します。また次報しますっ!」
要件を手短に伝えて機器をしまい込むと、前傾を深め加速した。
西條の視界前方に、倒れた女生徒と、今まさにそのスカートへ手を伸ばさんとする不審者の姿が捉えられる。仮面舞踏会ばりのマスク姿だった。
「そこの不審者!ってあなた、不審者の自覚がなかったら分からないかもね!ほらっ、怪しいマスクして手にホチキス持っているあんたのことよ!」
西條が大声で容姿を叫ぶと、さしもの不審者もおのれをゆびで指して首を傾げた。ワタシ?とでも言っているかのように。
「きーー!!そうだよ、あんたのことだよ!!ほかにそんなフシンな奴がいるわけあるかい!!さっさとその女生徒から身を引きなさい!さもないと、ひじ打ちで思考回路を破壊するわよ!」
高城以外に伝わるかどうかも分からない、微妙な表現で威嚇する西條。
不審者は特に慌てるふうもなく、おもむろに立ち上がる。不審者を間合いに収めた西條は、歩を緩めて対峙した。
両者の睨み合いを、遠巻きに複数の生徒が見守る。面倒を避けるために、西條は再びポケットから機器を取り出し、視線を不審者から外さずに通話する。
「ちっ、教頭先生は繋がらないかっ!」
西條は緊急手段に出る。掛け直す。
「校長先生、じかに大変失礼します。風紀の西條です。不審者と対面しています!校門から東に一区画ほどの路地です。周囲の生徒の安全確保と、増援をお願いします!」
校長への連絡を西條が言い終えるや否や、不審者は飛び込んできた。西條は叫ぶ。
「卑怯者がっ!」
しかし、不審者はそのまま西條の脇をすり抜け、その際にこう囁いた。
「どちらが卑怯者でしょう?」
背後を取られたと思った西條は、身をかわしつつ頭を旋回させる。だが、そこに不審者の姿はなかった。
「どこ!?」
周囲の気配を探るも、やはり、不審者はもう既にその場から姿を消していたようだった。
あれが怪盗ホチキス――西條は、残された言葉を反芻しながら、警戒を続けていた。卑怯者?私が?一体、何のこと?
そして、取り逃がしたこと、隙を見せてしまったこと、それらは西條を苛ませ、二度と繰り返さないことを決意させた。
因みに高城は、余裕綽々の大遅刻登校後、西條に新技を繰り出されて思考回路を乱すことになる。致命傷を食らってから漏らされた言葉は、「フト……」だったという。とにかく、言い終える前に意識を失わせてしまったため、西條は技の威力調整にも精進する決意を固めるのだった。