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義姉様を傷つけた犯人を探すため、悪役令嬢と呼ばれても構いません

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/08/19

「エドガー様の婚約者が夜会の控室で男と二人きりだったそうよ」


 その噂が王都の社交界を一巡するまで一日もかからなかった。火事でももう少し遠慮して燃えるだろう。


 翌朝のヴァルムント公爵家では銀食器の触れ合う音すら聞こえなかった。父は新聞を開いたまま一文字も読まず、母は紅茶のカップを手に皿の焼き菓子を見つめている。兄エドガーも席には着いていたが食事に手をつけた様子はない。


 兄の婚約者であるセシリア・ラント伯爵令嬢の名が汚された。それだけで家の中からいくつもの音が消えていた。


「兄様。セシリア様には会えましたか」


 私が呼ぶと兄はようやく顔を上げた。昨夜から眠っていないのだろう。疲れの浮いた顔に加えいつもは正しい位置にある襟元の留め具まで少しずれていた。


「会えなかった。ラント伯爵に面会を断られたんだ。今は誰にも会わせられないそうだ」


「兄様にも?」


「ああ。僕は彼女を信じている。だが父上は婚約の一時凍結を考えていてラント家からも先に話を整理したいと言われた」


 兄がテーブルの上で拳を握ると下に敷かれた白いナプキンに深いしわが寄った。そこで父が新聞を閉じる。


「リディア。軽率な口を挟むな」


「まだ何も言っておりません。父上はいつから人の顔で未来を占えるようになったのです?」


「今は冗談を言う場ではない。お前が何か言う顔をしているから止めた」


「ええ。ですから口を挟む前に確認いたします」


 父の眉が寄り、母も視線だけで私を止めようとする。二人の制止には気づかないふりをして兄に向き直った。


「セシリア様はどのような状態で見つかったのですか」


「王宮西棟の楽器保管室で倒れていたらしい。衣装の袖が破れ近くには男物の飾りピンが落ちていた」


「同じ部屋に男は?」


「いなかった」


「では男と二人きりではありませんね」


 兄の拳から力が抜けた。短く息を吐いた父が「噂ではそうなっている」と答える。


「噂は歩きながら太ります。このまま放っておけば豚より大きくなりますよ」


「リディア」


「失礼しました。半分ほど言葉を選び損ねました」


「残りの半分はわざとか」


 答える代わりに椅子から立つと父は額を押さえた。


「兄様。昨夜の夜会に出席していた令嬢の名簿をください。席順と控室の鍵を持っていた者、それから警備の交代時間も分かれば助かります」


「何をするつもりだ」


「犯人を探します」


 皿の上で焼き菓子の表面が割れ小さな音が食堂に響いた。母の指先が知らぬ間に菓子を押していたらしい。


「リディア。あなたが動けばかえって噂になるわ」


「すでに噂になっています。お母様が心配しているのは私まで悪目立ちすることでしょう?」


 母は答えず代わりに父が「お前まで醜聞に巻き込まれる」と告げた。


「ヴァルムント家はとっくに巻き込まれています。兄様の婚約者が傷つけられたというのにこちらだけ上品に座っていろとおっしゃるのですか」


「貴族には手順がある」


「承知しています。ですから手順どおりに悪役令嬢を演じます」


 兄が「悪役令嬢?」と聞き返した。


「セシリア様を責めるふりをして噂の中心へ近づきます。犯人なら自分の作った噂がどこまで育ったか必ず様子を見に来ますから」


「そんな真似をすれば君まで嫌われる」


「私は元からそこまで好かれておりません。口が悪くて目つきが強い。兄様に甘いうえ扇で人を刺しそうとも言われています。だいたい合っていますね」


「最後は合っていない」


「まだ刺していないだけです」


 兄はひどい顔で笑いかけたものの途中でうまく笑えなくなった。手を握りしめそのやつれた顔を見返す。


「セシリア様は私に刺繍を教えてくださいました。去年、王妃殿下の茶会で私が袖を引っかけた時も、誰にも気づかれないよう上着を貸してくださったのです。それに私の好物まで兄様より先に覚えました」


「最後の話は少し傷つくな」


「兄様は三年かかりましたから」


「面目ない」


 母がカップを置くとそれまで兄の顔に戻りかけていたわずかな緩みが消えた。私も本題に戻る。


「私はあの方を未来の義姉様だと思っています。まだ婚姻前ですから勝手にそう思っているだけですが義姉様を傷つけた犯人を探すためなら悪役令嬢と呼ばれても構いません」


 父はしばらく黙った後、新聞をきちんと折りたたんだ。


「名簿は執務室にある。警備記録は王宮を通さなければならん。正式な手続きだけなら三日はかかるぞ」


「一日で欲しいです。公爵家でしょう?」


「便利屋ではない」


「不便な公爵家ですね」


「リディア」


「はい」


 父は一度目を閉じてから兄を見る。


「エドガー。お前はラント伯爵に手紙を書け。婚約の凍結には同意せずセシリア嬢が望むまで待つと伝えるんだ。ただし会いに押しかけるな。彼女の家の扉を叩く男が増えれば噂がまた太る」


「父上……」


 兄は唇を噛みながら深くうなずいた。父は次に私を見て「扇で人を刺すな」と念を押す。


「善処します」


「善処ではなく刺すな」


「はい」


 父が置いた書斎の鍵は白い卓布の上で冷たく光った。


「やるなら勝て」


 その日の午後、私は王都でもっとも噂の集まる場所へ向かった。ベルローズ伯爵夫人の茶会である。


 夫人は上品な顔で毒を混ぜるのがうまい。もちろん紅茶ではなく会話にだ。王都の令嬢たちは彼女の茶会を嫌っているくせに招待状が届けば必ず出席する。自分のいない場所で何を言われるか分からないからである。


 会場には甘い焼き菓子と香水の匂いが漂い磨かれた床に靴音が落ちていた。わざと遅れて入ると扉が開いた途端に会話が止まる。遅刻は嫌われるが注目を集めるには都合がいい。


「まあリディア様。本日いらっしゃるとは思いませんでしたわ」


 真っ先に声をかけてきたのはエヴェリーナ・モード侯爵令嬢だった。金の巻き髪に薄桃色のドレスを合わせ笑う時だけ唇の片側を上げる。綺麗に作られた棘のような令嬢だ。


「私も来たくはありませんでした。ですが我が家の未来に泥を塗られたのですから何があったか確かめませんと」


 近くの令嬢が小さく咳き込んだ。エヴェリーナは目を細めながら「未来とは?」と問い返す。


「兄の婚約者のことです」


 茶会の空気が張り詰め誰も身じろぎしなくなった。


「ラント伯爵令嬢の件ですか。お気の毒に。衣装の袖まで破れていたとかお兄様もさぞお困りでしょう」


「ええ。ですからあの方が本当に我が家にふさわしいのか見極めることにしました」


 自分の言葉で舌の裏が苦くなった。セシリア様を疑うなど本心ではない。今はエヴェリーナの目に浮かんだ喜びを見落とさない方が大切だった。


 それに彼女は知りすぎている。袖が破れていたことは王宮と両家のごく一部しか知らないはずだ。気づかないふりをしたまま扇を開いた。


「噂が事実ならヴァルムント家には迎えられませんもの」


 誰かが息を呑みその音に紛れて奥の席にいた令嬢が身じろぎした。


 ミレイユ・ラント。セシリア様の従妹でラント家の分家に生まれた令嬢だ。薄い灰色の髪を首の後ろで結び控えめな装いをしているのに目元だけは落ち着きなく動いていた。


 セシリア様の父に後見されて育ち今も伯爵家の屋敷に出入りしている。昨夜の出席者名簿にも彼女の名があった。


 ミレイユは目を伏せたまま膝に置いた扇の骨を指先で数えている。一、二、三。そうして気持ちを鎮めようとしているように見えた。


「リディア様はセシリア様を信じていらっしゃらないの?」


 エヴェリーナが甘い声で尋ねる。


「信じるかどうかは事実を確かめてからです」


「冷たいのね。でも噂では――」


「楽器保管室で男と一緒だったそうですね。その男の名前をご存じ?」


 エヴェリーナの唇が止まり周囲の令嬢たちは互いの顔を見た。誰も答えない。


「では実際に見た方は?皆様ずいぶん楽しそうに話していたのに男の名も目撃者も出てこないのですね」


 ベルローズ夫人が紅茶を飲む手を止めた。私はわずかに声を落とす。


「噂を最初に流した方だけはいるはずです。いったいどなたかしら」


「それを調べにいらしたの?」


 エヴェリーナの声から甘さが消えた。私はおそらく相手が嫌がる笑みを浮かべていた。


「いいえ。セシリア様を切り捨てる材料を探しに参りました」


 ミレイユの指が扇の骨の上で止まる。その反応を見た時点で今日ここへ来た目的はほぼ果たせていた。


 茶会で得たものは四つある。噂の出どころは「西棟の廊下で見た侍女」とされているのにその名を知る者がいない。現場の飾りピンは王立騎士団の準礼装用で一般の夜会客には手に入らない。エヴェリーナは公になっていない袖の破れを知っていた。そしてミレイユは、私がセシリア様を切り捨てると言った時にだけ安堵した。


 屋敷へ戻ると兄が玄関で待っていた。大柄な身体で進路を塞いでいるため避けて通ることもできない。


「リディア。今日の茶会でセシリアを疑っていると言ったそうだな」


「もう届きましたか。噂というものは本当によく太りますね」


「なぜそんなことを言った」


「犯人に聞かせるためです」


「彼女の耳にも入るんだぞ」


「入るでしょうね」


「リディア!」


 兄が声を荒らげると玄関ホールに控えていた使用人たちは一斉に目を伏せた。私に怒鳴ることなど滅多にない兄の肩が乱れた息に合わせて上下している。私は手袋を外し扇の跡が残った指先を握った。


「兄様。セシリア様は今、私が口にした言葉よりひどい噂の中にいます。私だけが良い子の顔で味方ですと言っても、その声はあの方の部屋まで届きません。届くのは責める声ばかりです」


「だから君も責めるのか。責めているふりだとしても彼女が知らなければ同じことだ」


 すぐには言い返せなかった。兄の言葉は正しくそれだけに真っ直ぐ刺さった。


「手紙を書きます。私はしばらく悪役令嬢になります、と」


「それだけで伝わると思うのか。たぶんで彼女を傷つけるな」


 握った手袋が指の中でしわになった。廊下の花瓶を見ると今朝まで澄んでいたはずの水が少し濁っている。


「分かりました。なら兄様からも私の意図を伝えてください」


「会えないと言っただろう」


「ラント伯爵家の料理長とうちの料理長は従兄弟同士です。食材籠なら屋敷に運び込めます。兄様の字では見つかれば燃やされるかもしれませんが私の字なら嫌味な招待状だと思って開けるでしょう」


「君は普段から何を調べているんだ」


「必要になりそうなことを。今さら怖がらないでください」


 兄はしばらく黙って私を見た後、力を失ったように壁に背を預けた。


「リディア。彼女を傷つける作戦なら途中で止める。僕は君の兄だがその前に彼女の婚約者だ。それを忘れるな」


「分かっています」


 兄の前を通り過ぎて階段に足をかけると背後から低い声が追ってきた。


「ありがとうとはまだ言わない」


「言われても困ります。まだ何も終わっていませんから」


 自室へ戻った私は机に向かい便箋の最初にこう記した。


『親愛なる義姉様へ。』


 まだ義姉ではないため一度は手が止まったが書き直さずそのまま先を続ける。


『私はしばらくあなたを疑うふりをいたします。

 ひどい言葉も耳に入るかもしれません。

 扇を折りたくなったら折ってください。

 ただし、私の首は折らないでください。兄様が泣きます。』


 最後の一文だけは、書き終えるまでに時間がかかった。


『私はあなたを信じています。』


 証拠がそろう前に信じると言い切るのは怖かった。だがセシリア様が誰かを騙して密会する姿より目の前の噂の方がよほど信じがたい。犯人を誘う芝居とは別にこれだけは私自身の言葉として残した。


 父が急がせた警備記録と茶会で拾った話を突き合わせると事件の筋が少しずつ見えてきた。分かったのは犯人が長く隠し通すつもりなど最初からなかったことだ。事実が追いつく前に噂さえ広まればいい。手口の粗さにはそんな考えが透けていた。


 セシリア様は夜会の途中、ラント伯爵家から急ぎの使いが来たと侍女に呼び出された。指定された王宮西棟の小部屋へ向かいそこで焚かれていた眠り香によって意識を失う。


 その後は体調を崩した令嬢に肩を貸すふりをしてミレイユ様の侍女が楽器保管室まで運んだらしい。衣装の袖がその途中で裂けたのか故意に裂かれたのかは分からない。飾りピンだけは後から現場に置かれていた。


 持ち主は王立騎士団の若い騎士ハロルド・ケイン。あの夜会では警備補佐として西棟に配置されていたが事件の時間には正門側で馬車を誘導していた。警備記録だけでなく十人以上の目撃もありセシリア様と同じ部屋にいたはずがない。


 現場のピンはハロルドがそこにいた証拠ではなく誰かが彼から盗んだ証拠だった。


「準礼装の飾りピンは休憩の際に控室で外すことがあります。騎士の皆様は飲食の時に手袋やピンをまとめて置かれますから盗もうと思えば盗めます。ただし王宮でそのような真似をする者は普通おりません」


 そう教えてくれた侍女頭は手にしていた糸切り鋏を布の上に置いた。


「普通でない方がいたのでしょうね」


「それはこれからお嬢様が確かめることでしょう。それより悪役令嬢ごっこは結構ですがそろそろ眠ってください。目の下が悪役というより病人です」


「ごっこではありません」


「ならなおさらです。病人の悪役では迫力が落ちます」


 正論を返せなかった私は一時間だけ眠った。


 翌日にはエヴェリーナの取り巻きが集まる刺繍会に顔を出した。針仕事は苦手で私が縫った花は獣に見えると以前から評判である。


「リディア様。その図案は何ですの?」


 隣の令嬢がおそるおそる聞いてきた。


「薔薇です。牙がありそうでしょう?」


「花に牙はございません。ずいぶん力強い薔薇ですこと」


「どこかに牙のある花も咲いているかもしれませんよ」


 令嬢が返事に困っている間に布を置き部屋中に届く声で話題を変えた。


「ところで王立騎士団の飾りピンを手に入れるのは難しいのかしら」


 いくつもの手が止まった。エヴェリーナだけは笑顔を崩さず「どうしてそんなことを?」と尋ねてくる。


「セシリア様のそばに落ちていたそうですから。婚約を白紙にするなら、相手の男の名くらい知りたいでしょう」


 白紙。その言葉に反応して部屋の奥から顔を上げたのはエヴェリーナではなくミレイユだった。すぐに視線を落としたものの今さら遅い。


「ミレイユ様。あなたはセシリア様と同じ屋敷にお住まいでしたわね」


「ええ。伯父様のご厚意で置いていただいています」


「それならセシリア様の侍女にもお詳しいでしょう。先日の夜会であの方を王宮西棟に呼び出した侍女をご存じ?」


 ミレイユの針が布を外れ指先に赤い血が浮いた。慌てて傷口を押さえる彼女にハンカチを差し出す。


「大丈夫ですか。小さな傷でも放っておけば跡が残りますからお気をつけください」


「ええ……ありがとうございます」


 ミレイユの顔がこわばり代わりにエヴェリーナが「少し不躾ではありません?」と割って入った。


「そうですわね。悪役令嬢ですので」


 微笑んでみせるとそれ以上は誰も口を挟まなかった。


 この日を境に私の評判は予想どおり悪くなった。人々は私をセシリア様を見捨てる冷たい妹だの、兄の婚約を壊そうとする公爵令嬢だの、傷ついた令嬢をさらに追い詰める悪女だのと呼んだ。よくも次から次へと考えつくものだが半分ほどは自分で撒いた種なので文句も言えない。


 何よりつらかったのは兄が私を見る目まで日ごとに険しくなったことだ。手紙を届けてはくれているもののセシリア様から返事はなく読まれたかどうかさえ分からない。


 やがてラント伯爵家の料理長を通して折れた扇が一本戻ってきた。私の部屋でそれを見た兄は立ったまま固まる。


「これはセシリアからなのか。なぜ折れている?」


「私の手紙に扇を折りたくなったら折ってくださいと書きました。首を折られるよりはましでしょう?」


「君はいったい何を書いているんだ」


 兄は片手で顔を覆った。折れた扇を机に置くと骨の間に細く畳まれた紙が挟まっている。そこには見慣れた細い字でたった一言だけ書かれていた。


 ――首はまだ残しておきます。


 紙を渡すと兄はしばらく動かなかった。その後ゆっくり椅子に座り目元を片手で押さえる。泣いてはいない。たぶん。


「彼女らしい。君たちはいつの間にそんな仲になったんだ」


「兄様が三年かけて私の好物を覚えている間です」


「それはもう許してくれ」


「考えておきます」


 その夜、王宮の下働きの少女が屋敷の裏門を訪ねてきた。名はナナ。十五歳で王宮西棟の廊下掃除を任されている。セシリア様がラント家の令嬢だと知って先に同家を訪ね、事情を聞いた料理長から私のもとへ行くよう勧められたらしい。寒さのためではない震えを両肩に見せながら古い布袋を胸元へ抱えていた。


「リディア様なら話を聞いてくださるとラント家の料理長に教えていただきました。裏門から行けば人目につかないとも」


 すぐに屋敷へ入れて暖炉の前に座らせると、侍女頭が温かいミルクを用意した。ナナはカップを両手で包んでようやく息をつき、抱えていた布袋をテーブルに置く。中には底に黒い粉が焦げついた小さな香炉が入っていた。


「これを西棟の小部屋に置くように言われました。お客様が気分を悪くした時に使う香だと聞いていたんです」


「誰から渡されたのです?」


「ミレイユ様の侍女です。本当にそれだけだと思って……」


 香炉がなぜナナの手元に残っているのか尋ねる前に彼女は震える声で先を続けた。


「騒ぎの後で捨てるように言われました。でも怖くなってずっと隠していたんです」


「分かりました」


 短く答えただけでナナの肩が跳ねる。


「怒らないんですか」


「怒っています。あなたにも少しは。ただ、もっと怒るべき相手がいます」


 カップを包むナナの指は赤くまだ小刻みに震えていた。


「セシリア様が倒れたと聞いて怖くなりました。あの香は変な匂いがしたんです。でもいただいたお金はもう弟の薬に使ってしまって……。誰かに話せば騎士様の飾りピンを盗んだ罪まで私に着せると言われました」


「ピンもあなたが盗んだのですか」


「違います。でも誰も信じてくれないと思っていました」


 私は布袋の口を閉じナナの顔を正面から見た。


「私は信じます。あなたと弟の安全も公爵家で守ります。その代わり明日、王妃殿下の前でもう一度同じ話をしてください」


「む、無理です」


「私が隣に立ちます。言葉に詰まったら相手を睨みますので安心してください」


「それは安心しても大丈夫なのでしょうか」


「相手によります」


 背後に立つ侍女頭がわざとらしく咳をしたが聞こえなかったことにした。


 翌日の王宮茶会は表向きには王妃殿下が主催する慈善事業の打ち合わせだった。実際にはセシリア様の一件に決着をつける場である。


 王妃殿下は無駄な噂を嫌う。派手に笑い、派手に褒め、切る時もまた派手な方だ。父が持ち込んだ証拠を一通り確かめると扇を閉じて「呼びなさい」とだけ命じたらしい。


 その一言で主だった関係者が小広間に集められた。王妃殿下を中心に父、ラント伯爵、兄、騎士ハロルドが並ぶ。ベルローズ夫人、エヴェリーナ、ミレイユ、そして私もいる。ナナは隣室で侍女頭と待っていた。


 セシリア様だけは呼ばれていない。それでいい。傷つけられた本人までこの場の見世物にする必要はなかった。


「ではリディア嬢。悪役令嬢としてずいぶん動いたそうですからあなたが始めなさい」


 王妃殿下の言葉を受けて膝を折る。


「お耳汚しを失礼いたします」


「もう十分に汚れているわ。今さら遠慮はいりません」


「ではお言葉に甘えます」


 王妃殿下は楽しそうに笑い、父は早くも頭が痛そうな顔をしていた。


 私はセシリア様を呼び出した偽の伝言、西棟の小部屋に残された眠り香の香炉、ハロルドが飾りピンを最後に確認した時刻と紛失に気づいた時刻を順に示した。証拠が増えるたびミレイユの指が扇の骨を探すように動いた。


 隣室から呼ばれたナナも王妃殿下の前で香炉を受け取った経緯を証言した。声は震えていたが何度聞かれても話の内容は変わらなかった。


 さらに楽器保管室へ続く廊下でミレイユの侍女が目撃されていたことと噂が流れた順番を示した。


「噂はセシリア様が見つかるより前に一部の方々に届いていました。噂を聞いた時刻は馬車の待機記録と従者たちの証言で確認しています」


 エヴェリーナの顔から余裕が消えた。


「どういう意味ですの?」


「ベルローズ夫人の茶会であなたは衣装の袖まで破れていたとおっしゃいましたね」


「人づてに聞いただけですわ」


「あの時点で広まっていたのはセシリア様が男と二人きりだったという話だけです。袖の破れは王宮と両家の一部しか知りませんでした。誰から聞いたのです?」


 エヴェリーナは唇を結び私から視線を逸らした。


「あなたが実行犯だとは思っていません。ですが単なる早耳でもない。確かめもせず待っていたように噂を広めたのでしょう」


「侮辱ですわ」


「事実なら侮辱ではありません」


「リディア。少し控えろ」


 父が低い声で止めたがここで引くつもりはなかった。


「無理です」


 王妃殿下は扇の陰に笑みを隠した。今度はミレイユに向き直る。


「犯人はセシリア様が婚約を失えば利益を得られる方です。兄との婚約が壊れれば、ラント伯爵家はヴァルムント家との縁を失う。その縁をつなぎ止めるには代わりの婚約者が必要になります」


「代わりの婚約者だと?」


 ラント伯爵が顔を上げた。


「ミレイユ様。あなたにはセシリア様が嫁いだ後、ラント伯爵家の養女として迎えられる話があったそうですね。本来なら婚姻後に進むはずの話です。けれど婚約が破談になれば同じ血を引くあなたを先に養女に迎え兄の新たな婚約者として差し出すかもしれない。そう期待したのではありませんか」


 ミレイユは灰色の髪が頬にかかったまま黙っていた。やがて細い声が漏れる。


「私は……セシリア姉様を傷つけるつもりなんて」


 ラント伯爵が椅子から立ちかけた瞬間、王妃殿下の扇が机を打った。小広間に乾いた音が響く。


「座りなさい」


 伯爵は歯を食いしばって腰を下ろした。私はミレイユから目を逸らさない。


「では何をするつもりでした?」


「少し困らせるだけよ。あの香だって気分を悪くさせ部屋で休ませるだけだと聞いていたの」


「衣装の袖を破るよう命じたのは?」


「命じていないわ。飾りピンのことも知らない」


「では噂は?」


 ミレイユの指が扇を握り、一、二、三とまた骨を数えた。


「噂はエヴェリーナ様が……」


「わたくしが何ですの?」


 エヴェリーナの声が裏返る。ミレイユは顔を上げ赤くなった目で彼女を睨んだ。


「あなたが言ったのよ。セシリア様が少し評判を落とせば伯父様も私のことを考えるかもしれないって。そう笑ったじゃない」


「わたくしはそのような――」


「言ったわ。言ったじゃない!」


 一度上げたミレイユの声は収まらず、次第に荒くなっていった。


「私はずっとあの家でお情けを受けて暮らしてきたの。セシリア姉様も伯父様も優しいけれど私の先のことなんて本当には考えていない。姉様が公爵家に嫁いだ後、私はどうなるの?どこかの老人の後妻?持参金の調整役?便利な分家の娘?」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


「一度だけでよかったの。姉様が完璧ではなくなれば伯父様も私を見てくれると思った。エドガー様だって姉様を疑えば私のことを――」


「兄様は疑いません。疑わなかったから私がここにいます」


 ミレイユの目が私に向いた。


「あなたはセシリア姉様を責めたでしょう。悪役ぶってひどいことを言った。姉様は……」


「扇を折りました。私宛てに折った扇を送り首はまだ残しておくとも書いてくださいました」


 兄が小さく咳き込み王妃殿下は笑みを隠すため扇を口元へ運んだ。ミレイユだけが話の意味をつかめず呆然としている。


「何、それ」


「義姉様は私の意図をご存じです。まだ婚姻前ですから勝手にそう呼んでいるだけですが」


 一歩近づくとミレイユの唇が震えた。


「お情けで暮らすのがつらかったのでしょう。ですが自分の居場所が欲しいからとセシリア様を追い出してよいはずがありません」


 エヴェリーナは目を伏せベルローズ夫人は紅茶のカップに触れただけで飲もうとしない。沈黙を破ったのは王妃殿下だった。


「ミレイユ・ラント。あなたの身柄はいったん王宮で預かります。侍女への指示、下働きの少女への脅し、眠り香の入手先。どれもこの場だけで終わらせられる話ではありません」


 続いて向けられた視線にエヴェリーナは背筋を強張らせた。


「エヴェリーナ・モード。あなたは噂を広めミレイユの不満を煽った責任を取りなさい。三か月、王宮茶会への出入りを禁じます。計画にどこまで関わったかは別に調べます」


 エヴェリーナの顔から血の気が引いた。社交界で三か月は決して短くないがセシリア様が失いかけたものに比べれば軽かった。


「ベルローズ夫人。あなたの茶会もしばらく退屈になりそうね」


「はい、王妃殿下」


 夫人の顔が硬直する。彼女にとっては出入り禁止より重い言葉だったかもしれない。


 王妃殿下は最後に兄を見た。


「エドガー・ヴァルムント。セシリア嬢との婚約を続ける意思は変わりませんか」


「変わりません。彼女が望む限り私は待ちます」


 兄は迷わず答えた。王妃殿下は満足そうにうなずき手にしていた扇を閉じる。


「ではこの醜聞はここで終わりです。まだ終わらせたくない口があれば私が閉じましょう」


 反論する者はいなかった。王妃殿下に口を閉じられるのはおそらくかなり痛い。


 セシリア様に会えたのはそれから三日後だった。


 通されたラント伯爵家の小さな客間には淡い青の花が飾られ暖炉にも火が入っていた。それなのに部屋の空気はどこか冷えている。長椅子に座るセシリア様は顔色が悪く髪も普段より簡単に結ばれていたが背筋だけはいつもと変わらず伸びていた。


「リディア様」


「セシリア様」


 礼を終えた直後、セシリア様は隣に置いていた扇を手に取った。今度は折れていない。思わず自分の首を押さえる。


「狙うのは首ですか」


「候補ではありました」


「怖いです」


「私も怖かったです」


 その言葉に顔を上げるとセシリア様は扇の骨を指先でなぞっていた。爪からも色が抜けている。


「何が起きたのかほとんど覚えていません。気づけば自分の部屋にいて父が泣き、母がずっと手を握っていました。その間にも外では知らない私の話が勝手に増えていたのです」


「……はい」


「リディア様が私を疑っていると聞いた時は扇一本では足りないほど腹が立ちました」


「二本送ってくださればよかったのに」


「二本目は自分で使うために残しました」


「賢明です」


 セシリア様が扇を閉じるとぱちんと乾いた音がした。


「けれど手紙は読みました。字がいつもより荒れていましたね」


「そこは見逃してください」


「悪役令嬢になるなら字まで綺麗に保つべきです。義姉になる予定の者としてその程度は注意いたします」


「ずいぶん厳しい義姉様ですね」


 私が言葉を返せずにいるとセシリア様は初めてかすかに笑った。目元にはまだ疲れが残っていたが話す声は以前と変わらなかった。


「勝手に義姉と呼んでいるそうですね」


「兄様から聞きましたか?」


「いいえ。王妃殿下から」


「なぜそこまで広がっているのです」


「悪役令嬢の噂はよく広がるのでしょう?」


 返す言葉が見つからない。立ち上がろうとしたセシリア様に慌てて手を差し出すと彼女はしばらく見つめてから私の手を取った。指は冷たいが握り返す力は残っている。


「私はまだ外に出るのが怖いです。エドガー様に会うのも怖い。信じてくださっていると聞いても顔を見た途端に泣いてしまうかもしれません。泣けばまた誰かに弱いと言われるのではないかと思ってしまうのです」


「そのようなことを言った人間の靴底に針を刺します」


「やめてください」


「では椅子に」


「もっとやめてください」


 呆れた顔は私がよく知るセシリア様に少しだけ近かった。


「ですからもう少し待ってもらえますか。エドガー様だけでなくリディア様にも」


「私も待つのですか?」


「私が外に出られるようになるまで悪役令嬢のままでいてください。その方が皆、あなたの顔色をうかがうでしょう。私に何か言えばリディア様に睨まれる。そう思わせておけば便利です」


 あまりに淡々と言われ思わず瞬きをした。


「セシリア様は意外と図太いのですね」


「傷ついた令嬢に向かって言うことですか」


「申し訳ありません」


「構いません。今の私には褒め言葉に聞こえますから」


 セシリア様は私の手を離し扇を膝に戻した。


「リディア様。ありがとうございました」


 すぐに返事はできなかった。茶会で私の言葉を聞きセシリア様と同じように傷ついた者もいるだろう。犯人を誘うためだったと説明しても一度口にした言葉までは消せない。


「謝罪はまた別の日にさせてください」


「ではその時はお菓子を持ってきてください」


「兄様の分も必要ですか?」


「エドガー様には私から頼みます。待たせる罰としてしばらく私の好きなお菓子を覚えていただきます」


「兄様には難題ですね。私の好物を覚えるだけで三年かかりましたから」


「私も三年待つことになるかしら」


「その覚悟は必要かもしれません」


 セシリア様が今度は声を立てて笑った。すると客間の外から誰かが鼻をすする音が聞こえる。


 兄だ。階下で待つように言ったのにいつの間にか扉の向こうまで来ていたらしい。


「兄様。盗み聞きは品がありません」


 声をかけると廊下で何かが倒れる音がした。セシリア様が驚いた顔を扉に向けた後、扇で口元を隠す。


「……いらしたの?」


「階下にはいると思っていました。扉の前にいるとは思いませんでしたが」


「入っていただいても?」


「私の首を折らないと約束してくださるなら」


「リディア様」


「黙ります」


 扉が開きひどく緊張した顔の兄が立っていた。セシリア様を見た途端に何も言えなくなりセシリア様もまた兄を見つめたまま動かない。


 二人の間に言葉はなかったが、私が挟まる余地もなかった。窓際で少し傾いていた花瓶を直しそのまま静かに客間を出る。こういう時に妹が邪魔なのは悪役令嬢でも変わらない。


 廊下には目を赤くしたラント家の侍女が控えていた。


「お茶を替えてください。それから扉はきちんと閉めて。ここでは中の話が全部聞こえます」


「聞いてはいけませんか?」


「いけません」


「リディア様も聞いておられたのでは」


「私は家族です」


「まだ家族ではございません」


「痛いところを突きますね」


 侍女はそこで初めて笑った。廊下の窓から庭を見ると薄い冬の日差しが色の抜けた芝生に落ち噴水の縁にはまだ氷が残っていた。


 それからしばらく私は本物の悪役令嬢として扱われた。


 茶会へ行けば令嬢たちは背筋を伸ばし廊下で噂話をしていた者は私の靴音を聞いただけで口を閉じる。エヴェリーナは王宮茶会に出られずベルローズ夫人の茶会では誰も深い話をしなくなった。話が退屈になると菓子の味がよく分かる。


 その後の調べでもエヴェリーナが計画に直接加わった証拠は出なかった。けれどミレイユの不安を面白がって煽り受け取った噂を確かめもせず広げたことは事実だった。


 王宮での取り調べを終えたミレイユは遠方の修道院に送られた。彼女付きの侍女も王宮の裁きを受けたが袖を裂いて飾りピンを置くよう指示したかどうかについては二人の証言が最後まで食い違った。


 ミレイユは裁きの場でも泣いて謝ろうとはしなかった。何かを言いかけては口を閉ざしそのたびに目に怒りと恥が浮かぶ。あの顔だけはしばらく忘れられそうになかった。


 ひと月後、セシリア様は社交界に戻った。隣には兄が付き添い私は一歩後ろを歩く。誰かがセシリア様に視線を向けるたびに扇を開いて見返すと相手はたいてい先に目を逸らした。


 悪役令嬢という立場はこういう時には便利である。


「リディア様。少し睨みすぎです」


「これでも控えめですよ。まだ誰も刺していません」


「基準にしているものがおかしいです」


 横を歩く兄が咳をした。笑ったのをごまかしたらしい。


 その日の帰り道、馬車の中でセシリア様が扇を閉じた。


「悪役令嬢もそろそろおしまいでよろしいのでは?」


「そうですね。嫌われ続けるのも案外疲れますし少し飽きてきました」


「飽きるものなのですか。では次は何になります?」


 兄とセシリア様が揃ってこちらを見た。二人ともなぜそのように期待する顔をするのだろう。


「義妹、でしょうか」


 セシリア様は目を丸くし兄は声もなく固まった。しばらく馬車の車輪が石畳を踏む音だけが続く。やがてセシリア様は扇で口元を隠したまま答えた。


「それは少し気が早いのでは?」


「先に義姉様と呼んだのは私ですから」


「では私も練習が必要ですね。義妹様」


 妙な呼ばれ方だったが悪い気はしなかった。兄だけは両手で顔を覆っている。


「二人とも僕を置いて先へ進まないでくれ」


「兄様が遅いのです」


「エドガー様。私の好きなお菓子は覚えましたか?」


「……蜂蜜漬けの杏」


「正解です」


 セシリア様は今度こそ扇で隠さずに笑った。窓の外では王都の夕暮れが屋根を銅色に染め馬車の中には彼女が持ってきた菓子の甘い匂いが漂っている。


 悪役令嬢と呼ばれるのもやぶさかではなかった。ただ長く続けていると肩が凝る。扇を膝に置き手袋の指先をゆっくり伸ばした。


 次の茶会では普通の令嬢の顔をしてみよう。三分もすれば飽きるだろうけれど。

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エドガーもリディアもカッコイイ! セシリアは貴族令嬢として致命的な噂を流されてしまって、すごく傷ついていると思う。ミレイユは伯爵家にお世話になって、優しくしてもらったと自分で言う扱いをされていたのに、…
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