けっこー幸せミミちゃん
「アールマー!」
もう、石鹸がない。
手を洗おうと思ったのに洗面台の横の小皿には、小さくなって泡立たない硬い石鹸しかなかった。大声でアルマーを呼ぶと、私のことが大好きな夫が部屋を飛び出し階段を駆け下りる音が家に響いた。
「どうかした?!」
私の薬を調合していたらしき夫が姿をあらわした。伸びかけた黒髪が顔にかかって鬱陶しそう。
「石鹸がないの。昨日、もうなくなるって言ったわ」
「あ、そうだったね。ごめん。その下の棚にあるから」
「あるからなに? 出して。もう手が濡れてるの」
「僕は……」
そう言って差し出された彼の両手は白い粉にまみれていて、おまけに腕に切り傷まで作って血を滲ませている。
「また怪我をしたの?」
「つい、うっかり」
答えるアルマーの顔は血の気が失せたように白い。部屋が暗いからかしら。
「うっかりが多いわよ、もう」
私の薬を作るときいつもどこか傷つけてる。使う薬草が硬くて鋭いからって彼は言うけど、毎回こんなになるもの?
「仕方のないひとね。来て、洗ってあげる」
呼ぶと、アルマーは口元に嬉しそうな微笑みを湛え隣にやってきた。温かい彼の手を取り、水を溜めた小さな桶の中に沈めた。
「傷口に薬も塗ってあげる。上手になったのよ。前の村で子供たちにたくさん塗ってあげたから」
「そうだったね、懐かしいな」
前に住んでいた村――たくさんあるけれど子供が何度もやってきた村はひとつだけだったから、同じ村――を思い浮かべて笑い合った、といっても、大好きな彼の青い目は髪に隠れてしまっているから見えるのは笑んだ口元だけ。
「あなた髪……伸ばすつもり?」
「どうしようかな、どっちがいい?」
「絶対に短い方が素敵よ」
迷いなく即答すると、一瞬彼の唇から笑みが消えた。すぐにまた弓形にしなったけど。
「そう、そっちが……好き?」
「もちろん。あなたずっと短かったでしょうアルマー。髪の長いあなたなんて想像もできない」
と言ったのに、脳裏にすぐに長い髪をした彼の姿が浮かんだ。どこか都会の道に立つ長身の彼。シルクハットを被って、少し内気な顔をして。
「ミミ?」
「想像できちゃった。結構素敵よ、でもやっぱり短くしてよアルマー、あなたじゃないみたい」
「そう」
「はい、綺麗になった」
水から手を出して手を拭いてから彼に手拭きを手渡し、鏡の中の自分を見た。
「私も髪を切ろうかしら、肩くらいに」
「駄目だ」
ちょっと言ってみただけなのに、アルマーがすかさず反対してきて、気持ちが萎んだ。
「わかった」
「いい子だ。君は今の姿がいいんだ、完璧だ」
鏡の中の彼が顔を寄せ、頬をくっつけてきた。温かい。
「ふふ、でも髪なんて切ったって伸びるのよ」
「そう、だけど」
「……前に髪を整えたのはいつだったかしら」
視線を上向け考えたけれど、変ね。思い出せない。
「ねえアルマー、私……アルマー?」
アルマーがいない。と思ったら横でしゃがみ込んでいた。
「どうしたの?」
「ん? 石鹸。最後のひとつだ。雑貨屋に行かなけりゃ」
「私も行きたい!」
下の棚から最後の石鹸を取り出した彼は立ち上がると、封を破きはじめた。真新しい白い石鹸が姿をみせる。
「一緒に行こうか。昔を想うのはやめて」
「わかった。帽子を取ってくるわね、麦藁の」
「待ってるよ」
外に出るのは久しぶりだわ。今日は曇り空で日差しが弱いから誘ってくれたのかも。はやる気持ちでつい階段を駆け上る足も速くなる。
「ミミ、気をつけ――」
「あ!」
アルマーから注意されるのと、つま先が段に引っかかるのは同時だった。あっという間。
「ミミ!」
声もなく私は階段の中程から下まで転がり落ちた。頭、腕、背中、脚、いろんな所を強く打ちつけ、硬い音が体の中で響くのも聞いた。
「ミミ!」
一階の床に倒れた私にアルマーが駆け寄ってくる。
「ぅ……だいじょうぶよ、どこも痛くないの」
でも起き上がろうと力を入れた肘に体重が乗らない。頭も嫌に重いし、右足には力もこもらない。私どうしちゃったの。私の体は。視線を巡らせようとした、そのとき。
「ミミ、動いては駄目だ、僕を見て」
傍らに片膝をついたアルマーに顔を覗きこまれ、彼の青い瞳から目が離せなくなった。
「痛くないのにおかしいわ」
「一時的な衝撃で痛みを感じにくくなってるんだ、心配ない、目を閉じて」
「目を? なぜ」
尋ねながらも素直に目を閉じると、アルマーの熱い手が肩の下に差し込まれた。
「今日は忘れよう。僕が呼ぶまで意識を手放すんだ」
◇◇◇
「ミミ」
アルマーに呼ばれ目を開けると、ソファに横になっていた。膝掛けが体にかけられている。私ここで寝ちゃったのね。
「気分はどうだい? 昼食の後眠くなったと言って寝てしまったんだよ」
「そうだったのね、まだ明るいのに」
窓の外にはどこまでも青い空が広がっている。こんな快晴の日には、日射しが私の体に障るからといって彼は外に出るのを許してくれない。
「外に行きたいわ、曇りの日はまだかしら」
ゆっくり身を起こすと体が重い。まるで何日も眠っていたみたい。
「ほら。薬だよ。飲まずに寝てしまったから」
アルマーが指で摘まんだ丸薬を口に入れてくれた。おいしい。
「この薬大好き」
彼を見上げ言うと、アルマーが幸福そうに微笑み隣に座った。
「そりゃ僕の愛でできてるからね」
座面が沈み込むのを感じながら彼の肩に頭を預けると、アルマーの腕が背中に回され体を引き寄せられた。
熱い彼の身体。胸に顔をくっつけると彼は笑って、震えが伝わってきた。
「くすぐったいよ」
その言葉にいたずら心が浮かんで、彼の脇腹をくすぐるとアルマーが身悶えした。彼はこういうのに弱いの。
「ミミ、やめてくれ」
「いやあよ」
ふふふ、と笑って間近で見上げた彼の顔に少しの違和感を抱いた。さっぱりと額の出た髪。
「髪を切ったの?」
「ああ、君の眠る間にね」
「自分で?」
彼はこれには答えず、眉尻を下げた気弱な笑みをみせた。たまにこんな顔をするの。そういうときの彼は決まって……。
「さ、この話は終わりだ。この村のひとたちに使う軟膏を練るのを手伝ってくれるかな」
「ええ! あれ大好き」
彼がすり潰した薬草を混ぜたねっとりした薬を棒で練るの。彼の魔力も加えて。
「魔女になったみたいな気分になれるもの。あなたはいいわね、魔術が使えて」
「ひとにはそれぞれ向き不向きがある」
「私にはなにもないわ」
ただあなたに守られているだけ。そう続けると、アルマーが私を抱く腕に力がこめられた。
「僕には君だけだ」
彼の声が抱える切実な響きに心の奥底に満足感が広がる。この声に嘘はない。
「ほんと?」
「ああ。世界と君なら、君を取る」
大袈裟な物言いに吹き出してしまう。
「名前も捨てるよ」
「まさか。本当にそんなことになったらわからないわ。話半分に聞いておくわね」
くすくす笑いながら言うと、アルマーが私の髪に唇を押しつけ、
「本当だよ」
低く熱のこもった声で言った。
―了―




