第10話 新たな契約と王都からの呼び出し
嵐のような一夜が明け、ヴェルダン領主館には、重苦しい静寂と、それとは対照的な清々しい朝の光が満ちていた。
当主の寝室。
病床に伏せっている父、エドワード・フォン・ヴェルダンは、震える手で一枚の羊皮紙を見つめていた。
それはジェラールが署名した『権利委譲契約書』と、ロッシ商会からの『莫大な違約金請求書』の写しだ。
「……ジェラールは、本当にこれを?」
「はい、父上。兄上はご自身の意志でサインなさいました。その結果、個人の資産では到底償えない負債を背負い……契約に基づき、現在はロッシ商会の管理下にある『強制労働施設』へと移送されました」
私はベッドの脇に立ち、淡々と事実のみを告げた。
実際には、北の果てにある罪人用の鉱山だ。借金を返し終わるには、おそらく八〇年はかかるだろう。
父は天を仰ぎ、深く息を吐いた。
その顔には、かつての武人の覇気はなく、ただ老いた父親の哀愁だけが漂っていた。
彼は知っていたのだ。ジェラールの放蕩ぶりも、無能さも。それでも「長男だから」という理由だけで目を瞑り、私を軽んじてきた。
そのツケが、最悪の形で回ってきたことを悟ったのだろう。
「……アルス。お前が、仕組んだのか?」
「まさか。私はただ、兄上が望むものを差し出し、兄上が選んだ道を尊重しただけです」
父は私を見た。その目には、初めて恐怖の色が宿っていた。
魔力のない、大人しい次男坊。そう思っていた息子が、貴族社会の法と経済を武器に、長男を合法的に排除したのだから。
「……分かった。私の負けだ」
父は枕元の小箱から、重厚な銀の指輪を取り出した。
ヴェルダン辺境伯家の当主の証、印章指輪だ。
「これを持っていけ。……今日からお前が、正式な次期当主だ。文句を言う者は、もう誰もいない」
「謹んで、お受けいたします」
私は指輪を受け取り、自分の右手中指にはめた。
ずしりとした重み。
これで名実ともに、私はこの領地の支配者となった。
◇
それからの数週間、領内の復旧作業は驚異的なスピードで進んだ。
ジェラールによって破壊された『ヴェルダン一号』のエンジンは、私の手によって改良・再設計され、より耐久性の高い『一号改』として蘇った。
脱線したレールも、ボルグ率いる作業員たちの不眠不休の働きにより、わずか三日で復旧した。
「確認よし! 全線開通、運行再開だ!」
汽笛が再び鳴り響く。
港には再び活気が戻り、領民たちは安堵の表情で魔導列車を見送った。
彼らは理解したのだ。この豊かな生活を守ってくれるのは、古い血筋の長男ではなく、新しい技術を持った次男様なのだと。
執務室にて。
リリーナは、うっとりとした表情で新しい帳簿を撫でていた。
「……美しいです。不純物がなくなり、数字が整然と流れています。ジェラール様の浪費という『ノイズ』が消えただけで、これほど健全な財政になるとは」
「毒が抜けた証拠だな。……だがリリーナ、休んでいる暇はないぞ。増えた収益はすべて次の投資に回す」
「はい、分かっております。……製鉄所の拡張、および魔導技師の育成学校の設立ですね?」
彼女は私の思考を先読みし、すでに予算案を作成していた。
頼もしいパートナーだ。
ふと、彼女が眼鏡の位置を直し、少し言い淀むように私を見た。
「あの……アルス様。ありがとうございました」
「何がだ?」
「その……あの日、ジェラール様から私を庇ってくださったこと。……私、この領地に来てよかったです」
普段は冷静な彼女の頬が、微かに朱に染まっている。
私は苦笑して肩をすくめた。
「礼を言うのはこちらのほうだ。君がいなければ、私の計画は画餅に帰していただろう」
いい雰囲気になりかけたその時、窓の外からけたたましいラッパの音が響いた。
商人の馬車ではない。もっと格式高く、威圧的な音色だ。
「……来たか」
私は窓から外を見下ろした。
正門をくぐってきたのは、王家の紋章である「双頭の獅子」が描かれた豪奢な馬車と、王室近衛騎士団の鎧をまとった騎兵たちだった。
「お、王家の使者!? な、なぜこんな辺境に!?」
リリーナが慌てふためく。
スネークのような下級役人ではない。本物の、王の言葉を伝える勅使だ。
◇
応接間にて。
対面したのは、白髪の老紳士だった。胸には王家執事のバッジが輝いている。
「お初にお目にかかります、アルス・フォン・ヴェルダン殿。私は国王陛下の秘書官、グランビルと申します」
「遠路はるばるのご来訪、恐縮です」
グランビルは鋭い眼光で私を観察した後、一通の封書を差し出した。
蝋封には、国王の印が押されている。
「単刀直入に申し上げましょう。陛下は、貴殿が開発した『魔導列車』、および『高純度魔石』に大変な興味を持たれております」
やはりだ。
ロッシ商会を通じて王都に流れた魔石と、ジェラールの一件に関する噂。それらが王宮の中枢に届いたのだ。
「陛下よりの勅命です。『次回の建国記念祝賀会に参列し、その魔導技術について説明せよ』とのこと。……これは事実上の叙勲の呼び出しでもあります」
「叙勲、ですか?」
「ええ。本来なら没落寸前の辺境伯家を、わずか半年で経済的に立て直した手腕。そして、魔導による新たな産業の創出。……国益に多大な貢献をしたと判断されました」
グランビルは言葉を切ると、声を潜めた。
「……ですが、忠告しておきます。王都には、貴殿の急速な台頭を快く思わない者も多い。特に、既存の魔導ギルドや、利権を脅かされる大貴族たちは」
「承知しております。出る杭は打たれる、ですね」
「いえ。『出過ぎた杭は打たれない』とも言います。……貴殿がどちらになるか、陛下は楽しみにされているご様子です」
グランビルは意味深な笑みを残し、退出していった。
手元に残された、金色の招待状。
それは栄光への切符であると同時に、魔窟への招待状でもあった。
王都。
そこには、ジェラールとは比較にならないほどの古狸や、国家権力という怪物がひしめいている。
「……行かれるのですか、アルス様」
後ろに控えていたセバスチャンが問う。
「ああ。避けては通れない道だ。それに、私の最終目標は『大陸横断鉄道』だ。王都に駅を作らなければ、何も始まらない」
私は招待状を強く握りしめた。
辺境での地固めは終わった。
次は、国の心臓部に乗り込み、そこに私のレールを敷く番だ。
「準備をしろ。リリーナ、ボルグ、そしてエルヴィラにも連絡だ。……王都へ行くぞ」
私の宣言に、彼らは力強く頷いた。
ヴェルダン領の小さな革命が、王国全体を巻き込む大改革へと変わる瞬間だった。
窓の外では、夏の終わりの風が吹いていた。
季節が変わる。
そして、時代もまた、変わろうとしていた。




