朝起きた小泉八雲は「自分の名前はギリシャ語ではパトリキオス・レフカズィオス・ヘルンだ!」と言いたかったが、周りの人に止められたので「どこかのタイミングで言ってやる」と小さな野望を持つようになっていた
コロンさまからいただいたタイトルで書きました
彼の名前は「小泉八雲」──
有名な怪談『耳なし芳一』や『雪女』、『轆轤首』等を書いた、明治時代の日本の文豪である。ちなみに作者はこの三作品しか読んだことがない。
彼はギリシャ生まれの英国人だ。小泉八雲というのは日本での名前なのである。
英国名では「パトリック・ラフカディオ・ハーン」である。
しかし──
前述した通り、彼の出生地はギリシャだ。
現代ギリシャ語では「パトリキオス・レフカズィオス・ヘルン」という、日本人にはとても覚えられない名前なのである。
確かに島根県松江市にある小泉八雲の住んでいた家は「へるん旧居」の名前で一般公開されている。入るのに400円も取られる。
勤めていた学校などでは『ヘルンさん』と呼んでくれる者もいたのだが、その呼び名は世間一般には広まっていなかった。
彼は『ヘルン』と呼ばれると、何か心地よかった。
できることなら誰もからそう呼ばれたかった。
「ハーンさん」
妻の小泉セツにそう呼ばれたのは、彼がそう教えたからである。
しまったなと思っていた。
教えた時にはこだわっていなかった。英国人としてのアイデンティティをもっていた。
しかし、ある朝目覚めたら、強く意識するようになっていたのだ。
遠い異国の日本という地で、彼のアイデンティティが目覚めたのだ。
「ワタシの名前ハ、『パトリキオス・レフカズィオス・ヘルン』デあるッ!」
「……はい?」
セツが首を傾げた。
「誰だね、それは?」
黒壇の廊下を踏みしめ、立派な和服に身を包み、ヘルンは拳を握りしめて妻に言った。
「ソレがワタシの本当ノ名前ナノですッ!」
セツは聞いた。
「なんて? もう一度、言ってごさん?」
「パトリキオス・レフカズィオス・ヘルン!」
「ぱ……」
一文字でセツは諦めた。
「覚えられんわ、そげな名前」
「ワタシは小説家とシテ、この国デ有名になっタ。『小泉八雲』の名でも、『ラフカディオ・ハーン』の名でも知られている……」
ヘルンは駄々をこねるように、黒壇の廊下を蹴った。
「デモっ! ワタシの出生名を誰モ知らぬノハ……我慢デキナーイ!」
「私が覚えてあげますわ」
セツは優しく言った。
「もう一度、もう一度教えてごしなはい」
「パトリキオス・レフカズィオス・ヘルン!」
「ぱとりきおす……れふかじ……二番目のとこが無理」
セツは再び挫折した。
「舌噛みそう」
なぜ、ギリシャ生まれのアイデンティティがある朝、突然に目覚めたのだろうか。死期が近いのだろうか。わからなかったが、ヘルンはその名前を日本中に知らしめたくて、たまらない気持ちになっていた。
「コレからワタシの著作物のスベテを、パトリキオス・レフカズィオス・ヘルンの名前で発表シマース!」
「やめてごしなはい!」
セツが火打石を打ちながら止めた。
「そげなことしたら、誰も発音できませんわ! 人気作家の座をずり落ちてしまう!」
使用人たちもバタバタ出てきて、必死に止めた。
ちょうど玄関にやって来ていた魚屋の勲ちゃんも、担いでいた天秤棒を置いて、「だめだ、ハーンの旦那! そいつぁだめだ!」と言って止めた。
奥の部屋から芳一、轆轤首の親父と三人の娘も出てきて、慌てたように首を振った。季節はまだ秋なので雪女は伯耆富士大山の頂上で涼んでいた。
しかし八雲は、拳を握り、無言で、強く思っていた。
「必ず! どこかのタイミングで言ってやる!」
それは小さな野望だとも言えた。
そしてタイトルが完成した。




