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届く声、繋ぐ文字

 目を開けた時には、すでに私が表にいた。


 鏡の中にはいつもどおり千尋の顔。

 けれどそこに宿る意志は、私――イリス・フォン・グレイスであることを、私自身が一番よく知っている。


 頬の力の抜き方、視線の置き所、呼吸の深さ──どれも千尋の「平均」に寄せるよう努力はしているが、完全な一致させるのはやはり難しい。



【本日は私が……】


『……うん。お願いね』



 その返事には、昨夜より少しだけ落胆の色が混じっていた。

 無理もないことだ。ようやく自分の体を取り戻したと思ったら、また入れ替わってしまったのだから。


 玄関を出る前に、母君が顔を覗かせる。



「いってらっしゃい」


「……はい、いってきます」



 できるだけ抑揚を千尋に合わせる。

 母君は「行ってらっしゃい」と言い残し、もう一度だけ笑って台所へ戻った。


 家を出る。

 吐息が白く広がり、朝の光が制服の肩で砕けた。


 学校。廊下のざわめきと教室に流れ込む靴音、机の木目に溜まる光の粉。

 私は千尋を、"普段"をなぞるつもりで席に着いた。


 その瞬間、斜め前――彩と目が合う。


 彼女は、最初は喜色、一瞬ののちにあからさまな落胆を目に宿した。

 昨夜、“千尋”が確かに表に出た。それを知っているからこそ向けて来た眼差し。

 そして今、目の前にいる私を測り、「違う」と結論づけた者の目。


 私が微笑で応えると、彼女は目を細め、視線を逸らさず、ただ黙った。



【……落胆、でしょうね】


『うん……だよね』



 出欠の返事は短く。姿勢は少しだけ崩す。

 ノートは丁寧すぎない字形で。

 必要なところだけを拾い、余計な気配は残さない。


 私の王立学院での訓練に似ている。

 違うのは、存在を、気配を埋没させること自体が目的であるという点だ。


 黒板に白い線が走る。教師は教室全体に問いかけ、指されたものは適当な答えを述べる。

 私も指されたが千尋からの指南もあり、極めて自然な対応ができたと自負している。


 しかしそれでも、視界の端では彩からの視線が定期的にこちらを撫でていく。

 鋭利ではない。けれど、確かに確かめるように、等間隔で。



『……やっぱり、気づかれてるよね』


【“気づく”というより、“確かめ続けている”といった様子です。昨夜のままなのか……それとも"私"に戻っているのか】


『どうしよう……彩が昨日みたいにならなきゃいいけど……。よしっ!あやーーー、聞いてーーー!!』



 脳内で叫ぶのは勘弁して欲しい。

 耳を通していないのに、耳の奥がキーンとしている気がする。



【っ?!……千尋さん、声は届きませんので……。ですが――】



 私はペンの重さを指で測り、その後紙の上に滑らせるふりをしてから千尋に告げた。



【――手段はあります。文字です。千尋さんの言葉を、私が書き取る。そうすれば会話はできるのではないですか?】


『なるほど……筆談ね』


【ええ。彼女が納得するかは分かりませんが、少なくとも千尋さんと私が同居していることを彩さんは知っているので……】


『うん……信じてもらえるかわかんないけど、やってみたい!私が消えてないってことを彩にちゃんと伝えなきゃ!』



 鐘が鳴る。授業の終わりを告げる音が教室に響いた。


 彩と話そうと立ち上がった時、彼女の方から先にこちらへ歩み寄ってきた。

 足音は静か。視線は私を見据えてブレない。



「……話、できる?」


「ええ、もちろん。私もお伝えしたいことが──」


「わかった……じゃあ、あとで。学校じゃ話せないでしょ」



 彼女はそれだけ言って自分の席に戻った。

 感情の波は表情から取り除かれている。

 けれど、言葉の角は丸め切れていない。刺々しさを隠そうともしていない。

 昨夜の余熱が、まだ指先に残っているのだろうか。

 それとも今朝、私を見てぶり返したのだろうか──。


 次の授業が始まり、教科書の紙が一斉に擦れた。

 私は授業を聞き流しページをめくるフリをしながら内へ声を落とす。



【放課後。人目の少ない場所で話しましょう。どこがいいでしょうか?】


『公園、かな。昨日の帰り道の、あのベンチのとこ』


【承知しました】



 次の授業との間、数人が私の机に集まり他愛ない話題を投げては去っていく。

 彼らの軽口は音符のように上下し、意味よりもリズムで空気を温めていく。

 私はその速度で相づちを打ち、時に二拍子、時に三拍子で返す。


 誰も首を傾げない。誰にもバレていない、ともう一度だけ心で繰り返す。


 ふと、彩さんがこちらを向く。

 その冷え切った視線に、私は慌てて目線を反らしてしまった。



 昼休み。


 ざわめきが教室から溢れて廊下に広がる。

 私は弁当も購買も選ばず、机に頬杖をついて窓の外を一度だけ眺めた。

 冬光の眩しさが運動場を照らし、枯れ草の色が薄く揺れる。


 机上にノートを開く。

 見開きの左ページの端に、私は小さな文字で書き出して千尋に確認する。



【書きますか】


『……うん。お願い』



 ペン先を一息分だけ休ませ、呼吸を合わせ、書く。


――彩、私だよ。千尋だよ。今もここにいる。安心して。


 それを教室に残っている彩に見せるため立ち上がった。

 彼女はこちらを見据えたまま、微動だにせず私を待ち構えている。


 失望、怒り、不信、憎しみ、嫌悪……そして、不安。

 視線から感じ取れる感情は様々で、受け止めきれるものではないと判断した私は、極力目を合わさずノートを差し出した。


 彼女の目の表面が、ほんの一瞬だけ波打ったような気がした。


 先程の感情に、明確に加わったものがある。

 それは──期待。



「……放課後。寄り道していい?」


「ええ。もちろんです」


「少しじゃ、足りないかも」


「では、足りるまでお付き合いいたします」



 私が言うと、彩はようやく微かに口角を上げた。当然、嬉しさからではないだろう。


 学校ではこれ以上進められる話ではないため、そのやり取りで私達は分かれた。


 兎にも角にも、放課後に備えて何かを腹に入れておく必要がある。


 彩は食堂へ向かったため、私は購買へと足を向けた。



 その道すがら──


『彩は少しは信じてくれたかな……?』


【それは分かりません。でも、話を聞くつもりはあるようですよ】


『昨日みたいにならないといいんだけど……あっ、パンはメロンパンがおすすめだよ』


【めろんぱん……ですか。随分と奇特なものがあるのですね……】



 パンと果物を一緒に食べる文化というのは私には理解しがたいものだった。



『う、う~ん、多分だけど……イリスが考えているものとは違うと思うよ……』



 益体もないやり取りで私達は放課後への不安を誤魔化した。


 メロンパンは想像していたものと全く違い、美味であったことは付け加えておく。


──────────────────────


 鐘が鳴り、午後へ進む。

 私は机に出したままだったノートを鞄に収めた。誰に見られても困るものではないし、理解できると思わないが、あえて人に見せるものではないだろう。

 

 午後最初の授業が始まる。

 窓の外の光が少し傾き、差し込む日差しが微睡みを誘い、まるでメロンパンのようだなどと思い浮かべながら眠気に抗う。


 なるほど。

 人間は昼食後にほどよい日差しを受けると、睡魔に襲われるものなのだ。



『イリスさんや……私のためにもきちんと授業を聞いてね』


【っ?!お、おまかせください!】


『まあ、眠くなっちゃう気持ちもわかるけどさ……』



 千尋の指摘を受けるまでもなく居眠りをするなど公爵家の矜持が許さない。



『放課後に彩とのこともあるんだし、頭をきちんと働かせるために少しは寝てもいいかもしれないけど……』



 ──そんな風に私を誘惑しないでほしいのだが……。



【グレイス公爵家の名に賭けて、私は居眠りなどいたしません!】


『そ、そう?ならがんばってね』


──────────────────────


 放課後。

 鐘の余韻がまだ天井裏に残っているうちに、彩が鞄を肩に回してこちらへ来る。

 私たちは言葉少なに廊下を歩き、校門を抜けた。

 人の気配が薄くなる角を二つ曲がる。信号を渡る。自販機の並ぶ小さな通りを抜け、公園へ向かう。


 ベンチが二脚。片方だけ、冬の陽に温められている。

 彩は自販機でホットのミルクティーを2つ購入し、そちらに腰を下ろした。

 私は一拍遅れて隣に座った。



「……教えて。昨日、なにがあったのか。どうして“千尋”が出て、どうして今はまた“あなた”なのか」



 彼女は真っ直ぐに問う。逃げ道を作らない問い。私は鞄からノートを出し、静かに開いた。



【ここからが、本番です】


『うん。ちゃんと、話そう』



 千尋の声が、背中を押してくれる

 私はペンを握り、最初の一文字に小さく息を合わせる。

 白い紙が、静かにこちらを待っていた。


──────────────────────


 ホットミルクティーを受け取ると、掌から腕にかけてじんわりと熱が広がった。

 冬の空気に触れた頬に、少しだけ血色が戻った気がする。



「それで──学校でのことと昨日のことを聞かせて」



 彩は視線を逸らさない。

 飾りもなにもなく、ただ真っ直ぐに突き刺し問い詰める声音だった。



「……承知しました」



 私はノートを広げ、ペンを走らせる。

――彩、私だよ。千尋だよ。今もここにいる。イリスに書いてもらってるの。


 差し出すと、彩の手がわずかに震えた。

 けれどすぐにノートを受け取り、視線を落とす。

 数秒。

 その瞳の奥に、複雑な色がゆっくりと混ざり合っていく。



「……学校でも見せてもらったけど……ほんとに、これは千尋なの……?」



 消え入りそうな声が、冬の空気に滲じんだ。

 私はノートを返してもらい、すぐにペンを走らせる。


――うん、私だよ。今は表に出られないけど、イリスに頼んで書いてもらってる。


「……信じたい。でも……昨日は千尋だったのに……なんでまたこうなっちゃうの……」



 彩の声音は揺れている。

 昨日の刃のような鋭さは影を潜め、代わりに不安が濃く滲んでいた。



「彩さん」



 私は意を決して、けれども柔らかく声をかけた。

 彩は驚いたように私を見た。



「私は確かに千尋さんではありません。でも、彼女と共に在ります。彼女の声を聞き、言葉を伝え、日々を共有しています」



 そして再びペンを走らせる。

――彩、またこんなことになってごめんね。私もなんでかわからないし、話せることは何もないの。

――また私じゃなくなったから不安だよね……ごめん。



 文字を見つめる彩の表情が揺れる。

 視線が上下し、震えを隠せていない。



「……ほんとに千尋が、書いてる……んだよね」


「はい。彼女の言葉を、私が代わりに書きました」



 短い沈黙。

 風がベンチの背を叩き、落ち葉をさらう。

 やがて彩は息を吸い込み、押し出すように言葉を落とした。



「……千尋、何回謝ってるのよ……」



 そこで言葉を切り、目をうるませながら私の手の中のノートを見つめる。



「……でも、千尋が引っ込んでも、こうして千尋の声が届くのなら……私だって、いつまでもイリスを疑ってばかりじゃダメだよね 。千尋が消えていないこともこのノートについても信じる……あなた"達"を信じてみるよ!」



 その言葉に、千尋の内声が弾けるように広がった。



『彩……ありがとう……!』



 私はそれをそのまま、ノートに書き記す。

――ありがとう。



 ただ、それだけ。

 けれど彩は口元を押さえ、頬を熱で濡らした。



「……ばか。これ以上泣かせないでよ……」



 掠れた声。

 しかしその頬には、昨日とはまるで違う色が宿っていた。


 私はそっと缶のミルクティーに口をつける。

 砂糖の甘さが舌に広がるのを感じながら、心の中で千尋に語りかけた。



【……一歩、前進ですね】


『うん……!彩が信じてくれてる……!』



 背中の緊張が、ようやく少しだけほどけていった。


──────────────────────


 缶を握る指先が、じんわりと冷え始めていた。


 だが、もう湯気は立っていないのに、掌にはまだ温もりが残っている。



「……ねえ」



 彩がぽつりと漏らした。


 涙の跡を袖で拭って、ほんの少しだけ顔を上げる。



「千尋……ほんとに、消えちゃったりしないんだよね?」



 その問いは、確認というより祈りに近かった。


 私はノートを開き、すぐにペンを走らせる。

――うん、私はちゃんとここにいるよ。絶対に彩を置いて消えたりしないから。


 文字を読み、彩はふっと息を漏らした。

 それは安堵の吐息に見えて、それでも不安が霧散したわけでもないようだった。



「……でもやっぱり、悔しいな」


「悔しい……?」


「だって……千尋の体を使ってるのはイリスなんでしょ。声も、仕草も、表情も……いま目の前にあるのは“千尋の姿をしたイリス”でしょ。なのに、千尋の声はノート越し……悔しくなっちゃうよ」



 彼女の呟きには露骨な嫉妬が混じっていた。

 私はペンを止め、しばし言葉を選ぶ──やがて千尋が、内側から小さく笑った。



『……ごめん、彩。でもイリスがいるから、私はこうして話せてるんだよ』



 私はそれをノートに書き記す。

――イリスがいるから、私はこうして声を届けられるんだよ。



 彩は文字を追い、唇を噛み締めた。



「……イリスが、いるから……」

――うん。イリスは大事な人だよ。私にとって。



 言葉を書いた瞬間、彩の目がわずかに揺れた。

 その揺らぎの中に、私が感じ取ったのは――痛み。



「……そっか」



 それ以上言葉を続けず、彼女は飲みかけの缶を口に運んだ。

 けれど、一口も飲まずに下ろした。


 冬の風が、公園の枝を揺らす。

 冷えた葉が擦れ合い、乾いた音を立てた。



【……やはり、彼女はあなたへの想いを……】


『ん?どういう……』


【……いえ、なんでもありません。さて、体も冷えてきましたね】


『……?』



 私は千尋の疑問を受け止めず、そのままノートを閉じた。

 彩と私の間に残った沈黙は、カラオケでのやり取りと比べると決して居心地の悪いものではなかった。

 けれど、互いの胸の奥に冷たく小さな棘が刺さったまま……そんな静けさだった。


 日が沈みかけて、空に淡い群青が広がり始める。

 街灯が点り、白い光が二人の影を長く伸ばした。



「……帰ろっか」



 彩の言葉に私は頷いた。

 その声には、最初よりほんの少しだけ柔らかさが宿っていた。


──────────────────────


 その夜、私は部屋の灯りを落とし、布団に体を沈めた。


 えあこん?とやらの温度を確認し、かしつき?を稼働させる。

 この世界では乾燥させないための方策がふんだんにあるようで、元の世界に戻れるならば特にこの『加湿器』は持って帰りたいところだ。


 外からは風の音だけが細く響いてくる。今日一日の疲労が、体の隅々に鉛のように溜まっていた。



【……千尋さん】


『なに?』


【あなたは、彩さんに私を“大事な人”と……そう言っていましたね】


『……うん。言ったね』


【それに……最初に入れ替わった日、覚えていますか?千尋さんは私に向かって“大好き”だと……】


『あ……べ、別に恋人になりたいとかって意味じゃないからねっ!』



 千尋の声が頭の中で反響して気が遠くなりそうになる。


 ひょっとしていま千尋の顔が見えれば、真っ赤になっているかもしれない。

 年齢の割に自分のこういった話題が恥ずかしいのだろう。



【なぜ、そのように仰ったのか……教えていただけますか】



 私はその雰囲気に合わせることなく、努めて冷静に尋ねる。



『……イリスはね、私にとって特別なんだよ。最初にゲームで見たときから、ずっとそう。格好良くて、真っ直ぐで、でも不器用で……どんなサイトで調べても、SNSで検索しても、みんなイリスのことを悪く書いてた。でも、私はそんなイリスが大好きで。憧れてて。私にはないものを、イリスは持ってるような気がしてて──だから……“大事な人”っていうのは本当の気持ち。』


【……格好良く、真っ直ぐで、不器用……】


『そう。そういう全部が、私には眩しかったの。……イリスのこと、ずっと応援してきたし、見守ってきた』


【応援……ですか】


『うん。こっちの言葉で言うなら――』



 千尋が息を飲んだ……ような気がした。



『それを“推し”って言うんだよ』


【推し……ですか?】


『そう。私はずっとイリスを“推して”きたんだよ』



 短い沈黙のあと、私はふっと小さく息を漏らした。

 それは驚きとも照れともつかない、不思議な感情を帯びていた。



【私は悪役令嬢、つまり物語の悪役だったはず……なのに千尋には“推されて”いたんですね】


『ふふ……悪役令嬢なのにね』



 二人の声で笑みを重ねた。

 それだけで胸の奥がほんのりと温まっていく。


 千尋の"推し"だった私は、彼女期待に応えられているだろうか?

 これからも私を"推し"続けてくれるのだろうか?


 物語の登場人物の私と、この世界の千尋。


 私達二人はこれからどうなっていくのだろう?


 そんなことを考えながら、私は深い眠りに落ちていった──。



 ──イリスは眠ったようだ。

 普段なら一緒に意識は閉じてしまうのに、なぜか今日は私だけ起きてしまっている。

 放課後の彩の顔が浮かぶ。

 不安に揺れた瞳。泣きそうになりながら、それでも信じると決めてくれた彼女。

 布団の中で小さく丸くなりながら、私は心の中でぽつりと呟いた。


 彩には大丈夫!だなんて言ったけど、ほんとは不安でいっぱいだった。



『……もしこのままずっと戻れなかったら……どうしよう。そんなの、ないよね……?』



 イリスからの返事はなかった。

 "私"の発する静かな呼吸音だけが、暗闇の中に溶けていった。


拙作をお読みいただきありがとうございます。


ようやくきちんと和解した、イリス+千尋、彩。

でも彩はなんだかただの友達って感情に見えないかも……。


彼女たちにハッピーエンドが訪れるのでしょうか?


また、蓮君と千尋(イリス)の恋の行方は……??


これから話がどんどん展開していきますのでお楽しみに!


今後とも『悪役令嬢なのに推されてしまった件 〜悪役令嬢とJKが絆を育む14日間の軌跡〜』をよろしくお願いいたします(`・ω・´)ゞ


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