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刃の余韻と、不穏な朝

 深く暗いところを"私"は揺蕩っていた。


 綿の中に押し込められているような、やわらかいのに息苦しい場所。

 

 耳は聞こえているのに、音が届かない。目は開いているのに、光が掴めない。


 ほんのわずかな隙間があいて、その向こう側に灯りがある、と直感した。


 直感を頼りに、綿の隙間を力いっぱい押し広げる。


 視界が開けたと思った瞬間──数日前までは当たり前だった空気が、音が、光が、洪水みたいに"私"へ流れ込んできた。



「彩、やめて!」



 狭い部屋だ。彩を止める"私"の声は壁に当たり、弾かれて返ってくる。


 視界の中心に、彩の腕。止まった刃先がライトの白を震わせている。


 どうやら、すんでのところで間に合ったようだ。



「……これ……私、戻ってる……?」


【……千尋さん、落ち着いて。まず呼吸を】


『……うん』



 胸の奥で、頭の中で、冷静なイリスが私を宥める声がする。


 外には届かない、私だけの内側の声。


 私は肺の底まで息を入れ、少しずつ吐き出す。

 久しぶりの感覚に頭が少しずつクリアになり、肩の力が抜けていくのを感じた。


 視線を上げると、彩の瞳が私を射抜いていた。


 いまだ見開いたままのその奥に、疑いと恐怖と怒りが、細かい波紋のように折り重なっている。



「……千尋……なの?」



 彩の唇が、かすかに空気を震わせた。


 刃は胸元の高さで止まっている。

 カッターを握った指が白く強張り、指の隙間から汗がにじんでいる。



「……私だよ、彩。千尋だよ。お願い、カッターを下ろして」



 言葉を出した瞬間、恐怖が込み上げてきた。


 怖い、と認めたら私の中の"何か"が崩れる気がして──ずっと表に出せなかった感情が、胸の奥底から顔を覗かせてきたようだ。



「……嘘。声だけ似せても、千尋じゃない」



 彩の首筋に通った筋がぴんと張った。


 私を測るような、遠慮のない視線。


 幼稚園のとき、小学生のとき、いつも一緒にいた彩がときおり見せたのと同じ目――隠し事はさせない、という決意の目。



「昨日も今日も、仕草も、間も、座り方も……全部違う。今になって急に"千尋"だって言ったって、"千尋"の真似事したって……そんなの、そんなの信じられるわけない!」


 彩はそうだった。

 普段は明るく振る舞い、人付き合いもうまくこなせる子だった。


 だが、何か引っかかるものがあると、偏執的な執着を見せ、自分が納得できるまでひたすらにこだわり続けるのだ。


 特に私に関することはその傾向が強い。


 

「千尋は……千尋はそんな風に笑わない!」



 たしかに、昨日も今日も、私は「笑い方」を探していた。


 彩の前で「千尋として」笑う手順を、心の中でイリスと何度も反芻していた。

 そのぎこちなさは、彩にだけは絶対に伝わる。



【千尋さん。言い訳より、いまは事実と気持ちを】


『うん。』


「……彩。ずっと一緒にいたでしょ。子供の頃から。私、彩の横にいたんだよ。昨日も、今日も」



 彩の眉が、ほんのわずかに下がった。声音にも穏やかさが宿った。

 けれど刃は下がらない。

 あの子は、簡単には信じない。

 だから、意地でも刃を下ろさないだろう──信じられると認識できるまでは 。



「でも、隣にいたのは“知らない千尋”だった。癖も、話し方も、目を合わせるタイミングも……全部、違ったの。これから毎日少しずつ、そんなのが積もっていくのかと想像すると……怖かった」



 怖かった、という言葉の直後に、彩の喉がひゅっと鳴った。


 私の胸にも同じ音が鳴った気がした。背中に冷たい汗が浮かび、指先がじんじんする。



「……私も、怖かった。気づかれたらどうしようって。嫌われたらどうしようって。だから、言えなかった。今は私が……千尋が表に出られてるけど、そもそもどう言えばいいのかずっと分からなかった。」


「そんなの……!!」


「だけど、信じて!私は千尋!あなたの親友の……千尋だよ!」



 彩の視線が、ほんの少しだけ揺れた。


 刃先の位置はそれほど変わらないのに、感覚的に遠のいた。


 カッターを握りしめていた力が抜け、彩の手の甲に、血が行き渡っていくような気がした。



「じゃあ、さっきまでその体にいたのは誰?……千尋は中にいる、って言ったそいつは誰なの?!」



 彩の問いは、怒りというより確認だった。

 答えを拒む余地はない。

 私は意を決し、正面から彩へ言葉を紡ぐ。



「イリス。……別の世界から来た人。今は私の中にいて、私にだけ声が聞こえる。さっきまでは逆だったんだよ。」



 刃を持つ手が、びくりと動いた。


 信じられない、という怒りがすぐに上塗りされるのが分かる。

 それでも私はすぐに続けた。



「でも、乗っ取られてなんかいない。……いまは、私が彩に話してる。」



 証明はできない。

 証拠を出すこともできない。

 だから私ができること。

 真実を精一杯、彩に伝えること。



「イリスは、悪い人じゃない。怖い人でもない。……私の、大事な人。だから、お願い。傷つけないで」



 言いながら、自分で驚いた。

 胸の奥のどこかが、言葉を先に知っていたみたいに、すっと出てきた。「大事」の響きが喉の奥に残って、少し熱くなる。


 彩の睫毛に、ひと粒だけ涙がのった。

 刃先が、机の上のコースターのほうへ、ほんのわずかに傾く。



「……大事、って。友達、ってこと?」


「友達。……それ以上かもしれない。うまく言えないけど。とにかく、私にとって大切な女の子。」



 カチリ、と小さな音がした。

 

 刃が、ほんの一段、鞘へ引き込まれた。


 彩は息を吐き、目を閉じる。

 開いたとき、その目にはまだ警戒の光が残っていたけれど、切っ先にあった“断罪”の鋭さは、文字通り一段引っ込んでいた。



「……信じきれない。けど、あなたがほんとに千尋なら……千尋が言うなら、信じてみる。」



 私は、安堵の息がこぼれるのをこらえきれなかった。



「ありがとう、彩」



 その瞬間、私は手が震えていることに気づいた。

 彩はその様子を見て、ピッチャーからコップへ水を注ぎ私へ差し出してくる。


 私はそれを受け取り──この騒動でよくこぼれなかったな、と益体もないことを考えてしまった。


 指先がコップの縁に触れたとき、水滴が手を濡らし、その冷たさにどれだけ興奮していたのかを自覚した。



「飲んで。」


「……ありがと」



 冷たい水が喉を通る音が、やけに大きい。

 飲み込むたび、胸の張りをすこしずつその冷たさがほぐしていく。



【なんと言いますか……ひとまずよく対処できましたね。無事で何よりです。】


『うん。……イリス、ありがと』


【いえ、とんでもない。私のせいでもありますし。】


───────────────────────


 テーブルの上に置かれたカッターが、蛍光灯の白を反射して鈍く光っていた。


 彩の手はまだ近くにあったが、もうその手はカッターを握るつもりはないように見える。


 狭い部屋に、沈黙が落ちた。


 スピーカーから流れるカラオケの待機メロディだけが場違いに軽やかで、部屋の空気を混沌とさせていた。



「……ごめん。取り乱した」



 彩がぽつりと漏らした。


 その声音は震えていたけれど、さっきまでの殺気じみた鋭さは消えている。



「私の方こそ、ごめん……彩に心配かけちゃって」



 言葉を返すと、彩は短く笑った。

 笑顔と言うにはほど遠い、強張ったものだったけれど──。



「ほんとに……心配したんだよ……怖かったんだよ……。私の知ってる千尋が、消えてしまうんじゃないかって……!!」



 その一言に、胸がきゅっと締め付けられた。

 彩は視線を落とし、テーブルの上で手を組んだまま、指先だけが小刻みに震えていた 。


 彼女がどれほど不安だったのか、その震えだけで察することができた。



【千尋さん。彼女は……本気であなたを案じていたのでしょうね】


『……うん。分かってる』



 イリスの落ち着いた声が、内側から私を支えてくれる。



「ねえ、彩」



 私はゆっくりと口を開いた。



「これからは……これからも、隠し事、しないよ。ちゃんと話す。信じてもらえるように、ちゃんと全部」



 彩の瞳が揺れた。


 返事の代わりに、大きな息を吐き出す。



「……簡単には信じられないよ。でも……千尋がそう言うなら、少しずつでいいから聞かせて」


「うん」



 ようやく胸の奥がふっと緩んだ 。


 指先に残っていた震えも、少しずつ治まっていった。


 思えば私とイリスは、お互いに激変した環境を飲み込む必要に迫られ、2人ですり合わせながら1人ではやり場のない感情を分かち合うことができた。


 だが、彩は違う。


 ここまで癇癪を起こした彩を見たのは初めてで、そんな醜態を私に見せてしまうほどに彩は悩み、苦しんだのだろう。


 私はコップに残った水を飲み干しつつ、彩の心情を慮った。


 

【ところで……千尋さん】


『イリス。どうしたの?』


【カラオケってなんなのでしょうか?】


「……は?」



思わず声に出してしまい、彩がこちらを見る。



「……なに?」


「い、いや……その、カラオケって説明しろって言われて……」


「誰に?」


「えっと……心の中のもう一人に……」



 彩の眉がぴくりと動く。だが、すぐに肩を落として小さく笑った。



「そっか……まあいいや。私が説明しちゃうね。カラオケって歌う場所だよ。ストレス発散とか……盛り上がるときに使うやつ」



「そ、そうそう。ストレス発散……ね」



 言いながら、心の中のイリスに返す。



『……そういう場所なんだって』



【……なるほど。歌を詠むことで心を癒す場なのですね】



『……まあ、だいたいそんな感じ』



 気まずさが少しだけ和らぎ、私たちは残りの時間をぽつぽつと歌って過ごした。


 彩が選んだ曲は明るいアイドルソングで、彼女はわざとオーバーに踊る真似までしてみせる。


 私は苦笑しながら、それに合わせてタンバリンをかき鳴らした。


 今回の一連の騒動をなかったことにするかのように…。


 次は私の番。


 調子外れで、声も震えていたけれど、それでも彩はニコニコとしながら拍手を送ってくれた。

 ──ほんの少し前まで刃を突きつけていたなんて信じられないくらいに。


───────────────────────


 カラオケ店のドアを押して外に出ると、夜の空気がひんやりと肌にまとわりついた。


 店内の喧騒とタバコの匂いが背後に遠ざかっていき、街灯に照らされた商店街は昼間より静かで落ち着いている。



「……ふぅ」



 彩が小さく息を吐いた。


 まだぎこちないけれど、さっきまでの張り詰めた気配は少し和らいでいる。



「彩……ごめんね」


「何度目?謝るのは私の方だよ……」



 彼女は足を止めず、横に並んだまま前を向いて歩く。


 その横顔は、笑っているようにも、泣き出しそうにも見えた。



「いまの"千尋"が千尋……だなんて信じきれてるわけじゃないんだよ。でも……私が一番怖いのは、千尋がほんとにいなくなることだから。だから、今日こうして声を聞けて、話せて……すごく、すごく安心したんだよ……?」



 その声は、風に溶けて消えてしまいそうなくらい弱かった。


 私は返事の代わりに、そっと肩を寄せた。


 彩は驚いたように目を丸くしたが、すぐに視線を逸らし「バカ」と小さく呟いた。



【……やはり、彼女は千尋さんをとても大切に思っているのですね。友人以上の感情を感じます】


『うん……痛いくらい伝わってくる』


【……いえ、承知いたしました。】


『……?』



 イリスの感想は不可解だったが、それを差し引いても私の胸にじんわりと熱が広がっていった。


───────────────────────


 家に着き、夕食を済ませて部屋に戻ると、さすがに全身の力が抜けてベッドに倒れ込んだ。


 視界に映る天井の模様が、やけにぼやけて見える。



『……イリス』


【はい】


『どうして私、あのとき戻れたんだろう。イリスが表に出てたのに、私が突然……』



 問いかけると、イリスは少しだけ間を置いて答えた。



【推測ですが……千尋さんと私が同時に強烈な負荷を受けたことで、均衡が崩れたのかもしれません。あなたは友を失う恐怖を、私は初めて他者から向けられた害意を。……その衝撃が交錯して、意識の主導権が入れ替わったのではないかと】


『……ストレス、か』


【あくまで推定ですが】



 私は天井を見つめながら、今日一日の出来事を反芻した。


 彩の涙、刃の冷たさ、声を張り上げて自分の存在を訴えた感覚。


 すべてが重くて、けれど現実だった。



「……なんで、こんなことに」



 小さく声に出すと、胸の奥に溜まっていた疲労が一気に押し寄せてきた。



【千尋さん、もう休んだ方がいいでしょう】


『……うん。おやすみ、イリス』


【ええ。おやすみなさい】



 瞼を閉じると、すぐに意識が暗闇へ沈んでいった。

──そして翌朝。


 目を開けた瞬間、私ではなくイリスが表にいた。


 鏡の中の自分が、わずかに他人のような表情をしているのを、私は“内側”から見つめていた。



「……また、私が表に出ていますね」



 イリスの冷静な声が、響いた。


 その声は奇妙に澄んでいて、どこかで新しい物語の始まりを告げているように思

えた。



拙作をお読みいただきありがとうございます!


なんとか彩との衝突は一段落……ですが、最後にまた不穏な展開に。

ようやく話せたと思ったのに、まだまだ波乱は続きそうです。


次回から新しい動きが始まりますので、どうぞお楽しみに!

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