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揺らぐ意識と、断じる刃

「誰なの?」



 小さな部屋に、彩の言葉だけが響く。


 私は背筋を静かに正し、彩の視線を受け止めた。


 そこに笑みはない。温度もない。ただ真っ直ぐな硬さだけがあった。



「……あんたは、千尋じゃない……!!」


【……っ】


『彩……!!』



 彩の発する言葉こそ強いが、その姿はまるで捨てられることに怯えた猫のようだった。


 千尋という存在、それを取り戻そうとするがゆえに虚勢を張っているように見えた。



「言葉も、仕草も、間の取り方も。全部、千尋じゃない。千尋はそんな、そんなお嬢様みたいな座り方しない!……偽物!!」


「……っ、待ってください。 私は――」


「私の知ってる千尋は、そんな喋り方しない。本物はどこにいるの」



 彩は瞬き一つせず鞄へ手を入れた。目を見開いており、とても正気には見えない。


 銀の線が、白い灯りの下で冷たく跳ねる。


 細い刃――カッターという道具だ。まるでこの状況を想定して、準備していたかのように彼女の手つきに迷いはない。



「今日見ていて、あなたは千尋じゃないって確信した……しらばっくれるなら、切り裂いてでも吐かせる」


「わ、私は千尋さんを害するつもりは――」



 刃先が、距離を詰める。


 呼吸を浅くし、私自身の記憶に身を委ねた。


 身を捩り、一歩で切っ先から線を外す。


 公爵家で教わった護身の型――紙一重で刃を避ける。


 突っ込む目標を失った彩の体は、そのまま床に投げ出された。


 だが千尋の体では、私がイリスの頃に受けた訓練を完璧には再現できない。


 身を捩って躱したものの、足がもつれ体勢が傾ぐ。


 床が近づき、視界が跳ねた。


 右手で受け身を取り衝撃を散らすも、肘に痺れが走る。


 テーブルのリモコンが転がり落ち乾いた音を立てた。



「逃げるな……!」



 彩が立ち上がる。握られた刃は震えない。歩幅は一定、視線は私のみを見据えている。


「千尋は、私の一番大事な友達。……偽物に居場所はない」


「私は千尋さんを奪ったわけではありません。ただ――」


「嘘……ここに千尋はいない。」



 刃先が頬の温度を奪うほど近い。


 心臓の鼓動が耳の内側で増幅され、言葉の出口が細くなる。



「千尋を……返してよ……」



 抑えた声に熱が混じる。彩の瞳の奥で、渇いた光が揺れた。



「私の千尋を……返せって言ってるの!!」


「……いずれ必ず――」


「遅い!」



 短い断言が胸の内側を刺し、息が詰まる。


 真っ直ぐな敵意――私の世界では、ここまで露骨な害意を真正面から向けられたことはなかった。


 氷の仮面は、人を遠ざけはしたが、だからこそ刃を向けられることはなかった──あの瞬間までは。



『彩、やめて……!私は、私はここにいるんだよっ……!』


「千尋さんは私のなかに――」



 私が言い終わるのを待たず、彩が強く刃を握って叫んだ。



「返せぇっ! 今すぐ千尋を返せぇぇ!!」



 振り下ろされた一閃。


 私は再度身を捻って刃から逃れる。


 だが足が滑り、机の角に腰をぶつけ、そのまま膝から落ちた。


 衝撃で視界がぐらりと揺れる。


 床のカーペットの目が粗く、指先に引っかかる。


 立ち上がろうとした私へ、彩はさらに距離を詰めた。



「どこにやったの。答えろ。……千尋はどこだ」


「千尋さんはここに――」


「嘘つき!」



 静かな断罪。

 刃がもう一段伸びた気がした。実際に伸びたのか、私の感覚がそれを鋭敏に感じてしまったのか分からない。


 胸の奥で、きしむ音がする。


 本能的な、生物としての原初の感情、家族や身内を守るための激情が、私へ向けられている――その認識が痛い。



『彩……お願い、やめて……!なんで聞こえないの!なんで伝わらないの!』


【千尋さん……】


『イリス、ダメ……!逃げて……!』



 彩の顔が近い。

 涙で化粧が剥がれ落ちぐちゃぐちゃになった顔が、刃の冷たさより鋭く、そして美しく見えた。

 親友を失う恐怖と奪われる怒りの境界で揺れる瞳。

 いずれにせよ私を絶対に逃さないという強固な意思を感じる。


 私は立ち上がろうとして、しかし足に力が入らないことに気づく。

 思えば呼吸が浅い。境界が薄い。音が遠い。氷の音だけが、やけに近い。

 この異様な空気と興奮からだろうか?



「返して。……千尋を……返せ……」



 懇願にも似た震えが、音になって命令の形で吐き出された。

 私は、かすかに首を横に振った。



「……今は、できません」



 沈黙。

 それが合図になった。

 彩が踏み込み、刃先が白い線を描く――その瞬間、世界が二重に割れた。

 テーブルの木目が二本にぶれ、蛍光灯の光が滲み、鼓動だけが刻みをいや増していく。


 すんでのところで躱すも、私の体は思うように動けない。



【千尋さん……】

『イリス……!』



 重力が緩む。床が遠ざかる。


 最後に残ったのは、振り返ってこちらを凝視する彩の瞳――冷たく、真っ直ぐで、それでも奥に痛みを宿した瞳だった。


 視界は滲み、闇が押し寄せる。


 まるで自分の意識が沈み込んで行くような感覚、それと同時に"何か"が意識のそこから湧き上がってくる──だが、認識できたのはそこまでだった。


 "何か"と入れ違いに私の意識は深い闇に閉ざされた。


 その中で、彩の瞳だけが最後まで焼きついて離れなかった。

拙作をお読みいただきありがとうございます!


ついに彩が爆発してしまいました……。

重たい展開になりましたが、この先で一気に転換します。


8話をお楽しみに!

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