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安堵の昼と、閉ざされた部屋

 玄関の扉が開き、母君の「おかえりなさい」が家に響いた。



『あ、お父さん帰ってきたんだ。この時間に帰ってくるなんてめずらし……』


【千尋さんの……父君。】



 現れたのは背広姿の父――藤崎大輔。普段は遅い時間に帰ることが多い彼が、まだ夕食の湯気が立つ時刻に卓につくのは珍しいとのこと。


 卓に並ぶのは味噌汁に焼き魚、白いごはん。父は黙って部屋着に着替え、手を洗い、箸を取る。



「今日は久しぶりに定時で上がれたよ」



 短い言葉。


 それだけで食卓の空気がわずかに和らいだ。



「千尋も最近、ちょっと大人っぽくなったんじゃない?」



 母の言葉に、私は姿勢を正す。



「ほう……いいじゃないか。何かあったのか?」


「……と、特にございません」



 言葉が出た瞬間、千尋が慌てて割り込む。



『“ございません”はダメ! “ないよ”でいいの!』


「……なにも、ないよ」



 不自然に訂正した私を、父は一瞥した。


 その視線に私を揶揄するような色はなく、ただ「そうか……まあ無理だけはすんなよ」と添えて味噌汁をすする。


 その声音にはただただ、千尋を気遣う温かさがあり――身内から受ける親愛、その端緒に触れた気がした。


 "父上"……とは違う"父君"。


 同じ"父親"ながら、貴族として当主として教育を受け、そのとおりに振る舞う父上との違いは、私の胸に小さな余韻を残した。


──────────────────────


 三日目の学校。


 教室に差し込む朝の光の中、出欠確認で名を呼ばれる。



「はい」



 昨日のような笑いは起こらなかった。


 机に座る周囲の誰も特に気にしていないように見える。


 そのことに、私は胸の奥で小さな安堵を覚えた。



【……昨日より自然にできました】


『うん! 慣れてきたね!』



 ――だが。


 どこかからこちらの様子を伺うような視線を感じる。


 その違和感の答えはこのときまだ私は持っていなかった。


──────────────────────


 授業中も、私は極力千尋の仕草を真似て振る舞った。


 言葉を選び、余計なことは言わない。


 先生も生徒たちも違和感を覚えず、教室は静かに過ぎていく。


 昨日よりも自然に馴染めている――そう思った。



【……今日はうまくいっていますね】


『ね、ね! これならバレないって!』



 安堵しかけたそのとき、再び視線を感じる。


 それは斜め後ろの席にいる彩からだった。


 彼女は何気なくノートを取っているふりをしながら、時折こちらを盗み見る。


 小さな仕草や声の間合いを確かめるように。


──────────────────────


 昼休み。


 食堂のざわめきの中、彩がトレイを持っていつも通り私の正面に腰を下ろした。



「購買のパン、今日めっちゃ並んでたんだよ〜。千尋の好きなやつ、買えた?」


「……あ、いや、私は定食だけで大丈夫だから……」


「そうなの?めずらしいね。ふ~ん……千尋ひょっとして……」


『そんな…』



 まさかバレた……?!



「ダイエットでもしてんの?」


「……へ?」



 彩は笑い、軽口を飛ばす。


 それはいつも通りの、友達同士の会話。


 周囲の生徒も同じように談笑しており、特別な視線は向けられていない。


 ――昨日より自然に過ごせている。


 胸に安堵が広がり、私は小さく息をついた。



【……私も千尋のフリがうまくなってきたようです。】


『うん!とっても自然に見えてるよ!……はっ!そうするとこのまま本当にイリスに乗っ取られちゃうんじゃ…!!』


【……なぜこのようなことになったのか分かりませんが、私もこのまま千尋として生きていくことはやぶさかではありません。】


『ちょ、ちょっとやめてよ~!私の体なんだから、ちゃんと返してよね!』


【冗談ですよ】


『もうっ!またそうやって私をからかって!』


 などと脳内で益体のない話に興じつつも顔を上げた。


 その瞬間、彩と視線が合う。


 彼女は何でもないように笑っていた。


 けれど、その瞳の奥でわずかに揺れる光を、私は見逃さなかった。


──────────────────────


 放課後。


 校舎から流れ出る生徒たちのざわめきの中で、彩がこちらに歩み寄る。



「ねえ千尋、今日も一緒に帰らない?」


「……うん」



 二人で並んで歩き出す。


 昨日とは違う道。商店の並ぶ通りへと入っていく。



【……道を誤っているのでは?】


『ちがう……彩、わざとだと思う』


「……。」



 彩は微笑みながら横を歩く。


 歩幅は一定で、置いていくことも、抜かせることもない。


 私を導くように、ただ並んで歩いていた。


 やがて足を止めた先は「カラオケ ラッキーキャット」と書かれた建物。



「ちょっと寄ってかない?」



 促されるまま足を踏み入れる。


 受付を済ませ、個室へと案内された。


──────────────────────


 扉が閉まった瞬間、外の喧騒が消えた。


 狭い部屋に二人きり。


 壁は厚いのか、防音となっており外の音は低い振動だけになっている。


 飲み物が運ばれ、氷が澄んだ音を立てた。


 その一瞬だけ時が刻まれ、すぐに沈黙に呑まれる。


 彩はストローを弄ぶふりをしながら、視線を逸らさない。


 笑みを浮かべてはいるが、瞳だけは鋭く、逃げ場を与えなかった。


 無言の時間に耐えかねた私が口を開こうとしたそのとき──



「千尋」



 低く落ちる声。


 普段の軽さを欠いたその響きに、背筋がひやりとする。



「……いや……あんた、千尋じゃないでしょ?」



 胸の奥が跳ね、呼吸が止まる。


 心臓の鼓動だけがやけに大きく響いた。



『……っ!?』


【……!】



 言葉が出ない。喉が凍りついたようだ。


 彩はなおも目を逸らさず、さらに私に問いかけてくる。



「誰なの?」



 その問いは静かで鋭かった。


 余計な修飾のない、ひたすら真っ直ぐな問いかけ。


 けれど、狭い部屋に貼り付く空気はどんな叫びよりも重かった。


 ――逃げ場は、どこにもなかった。

拙作をお読みいただきありがとうございます!


少しずつ自然に振る舞えるようになったイリスですが、彩の視線は見逃していませんでした。

そしてついに二人きりで核心に迫られることに……。


次回、真実がどう語られるのかお楽しみに!!

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