家族の微笑と、友の探る瞳
朝食の卓上には、白く輝く粒を盛った椀、卵を焼いたと思しき料理 、湯気を立てる汁物が並んでいた。
【……これは朝餉ですか?】
『そう!ごはんと卵焼きと味噌汁! これがうちの朝ごはんの定番だよ!』
【……なるほど。どれも聞いたことのない献立ですが、昨夜に続きとてもおいしそうですね。】
背筋を正して箸を手に取ると、母君がくすりと笑う。
「今日もお行儀いいわね」
何気ない一言に、思わず姿勢をさらに正してしまう。
玄関で靴を履き、ドアに手をかけたそのとき――。
『イリス! “いってきます”って言わないと!』
【……】
『なんで無言なのよ! “いってきます”ってちゃんと言ってよね!』
「……いってきます」
千尋の勢いに押され言葉が口からこぼれた瞬間、母君がふわりと微笑んだ。
「はい、いってらっしゃい」
胸の奥に温かいものが宿る。
家族と交わす短い言葉――それは、私の知るどんな形式ばった礼よりも柔らかく、そして力強かった。
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教室に入れば、ざわめきは昨日と同じ……のはずなのに。
昨夜から続く千尋の鼓動の余韻が、まだ胸のどこかに揺れていた。
出欠確認の呼びかけが始まる。
【……な、なんと答えればよろしいのですか?】
『ちゃんと名前を呼ばれたら元気に“はい”って答えればいいの!』
「あ~……次は……藤崎千尋~」
「……は、はいっ!」
『うん!それでよしっ!』
……ほんとにうまくできているだろうか?
隣の席の女子が小さく笑った。
つい目をやってしまったが、私は慌てて視線を逸らし背筋を伸ばす。
これまでの癖で私はどうしても姿勢を意識してしまうようだ。
周りを見てみると、どの生徒もだらしのない姿勢で返事をしている。
……なるほど、確かに私のように美しい姿勢――かつてマナーの教師から“過去最も優秀”と称された姿勢――で返事をするのは奇異に映るのかもしれない。
【……これでも十分に控えめにしているのですが】
『全然だめだよ! “卒業式の答え方”みたいになってるから!』
授業が始まり、先生が黒板に数式を書き始める。
私は机の上の白い石片――“消しゴム”を手に取り、思わず口を滑らせた。
「この石片、なかなか滑りがよく――」
『石片じゃなくて消しゴム!声に出ちゃってるよ~!』
「……け、消しゴム。便利ですわね」
これは昨日、千尋に文房具を確認している際、何度も指摘されていたことだ。
前の席の男子が振り返り、目が合う。
聞こえてしまったのかと私は慌てて軽く会釈したが、深々と頭を下げすぎてしまい椅子の背が小さく軋んだ。
【……頭を下げる深さの加減が難しいですね】
『もっと浅く!貴族じゃないだからね!私が変な子になっちゃったと思われちゃう……』
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昼休み。
昨日と同様に食堂へ向かう廊下は、生徒たちの笑い声と足音で満ちていた。
私は千尋の身体の“記憶”に導かれるように列に並び、膳を受け取り、自然といつもの席――彩の隣へと足を運んでいた。
【……身体が先に動くのは、やはり不思議です】
『そう?なんでなのかわかんないけど便利じゃない。あっ!今日は変なこと言わないようにしてね!』
「千尋ー、こっちこっち!」
彩が手を振る。
私は席につくと膳――この世界では“トレイ”と呼ぶらしい――を置き、無意識に箸を揃えて背筋を正していた。
椀に口をつける前にお祈りをしそうになり、慌てて誤魔化す。
【……これは我が国の“食作法”の一種で……】
『私そんな信心深いキャラじゃないよ…お願いだからやめてっ!!』
「昨日も今日もだけど……千尋、なんかあった?」
彩が向かいの席で首を傾げる。
私は最小限の笑みを作り、声を整えた。
「……問題は、ございません」
『ございませんって言わないの! 普通に“だいじょうぶ”でいいからっ!』
「……だ、だいじょうぶです!」
『……あちゃー』
千尋の呆れたような声が頭の中に響く。
私とて千尋をうまく演じたい……しかし、それを付け焼き刃でできるほど、私達の文化的な溝は浅くないのだ。
彩は一拍おいて、目を細めた。
思わず身構えるが追及はされず、彩の方から別の話題を振ってきた。
「そういえばさ、次の体育、二人組でペア決めるって。どうする?」
「二人組――訓練ですか」
「く、くんれん?……千尋、大丈夫??」
『訓練じゃない!ただのペア!友達同士で組むの!』
「……あ、ええと。彩、よろしければ……」
「もちろん! 千尋と組むに決まってるでしょ」
彩の笑顔に、胸の奥で千尋の鼓動が少し落ち着く。
私はこれ以上余計なボロを出さないよう静かに食事を続けた。
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「蓮もこっちで食べよー!」
彩が手を挙げる。
振り向くと、蓮が膳を持って近づいてきた。
柔らかな物腰、自然体の微笑。
その姿を見た瞬間、胸の内側で――
【……鼓動が上がりました】
『い、言わないで! 心の声で実況しない!』
「千尋、今日の数学プリントどうだった?あれ難しかったよな……一応俺は終わらせたけど、千尋数学苦手だろ?もしまだできてないならコッソリ見せてあげるけど」
「……っ」
言葉が出る前に、私は呼吸を整える。
"イリス"だと悟られないように。
“普通”を選ぶ。
“令嬢”を下げる。
「ありがと。あとで見せて」
蓮は笑顔でうなずき、箸を動かす。
彩はその様子を横目で見て、何かを測るように視線を往復させた。
【……彩の目が、獲物を観察する捕食者のそれなんですが】
『やめて、その言い方コワい!自然に、自然に!』
私達は食事を続け、私は"千尋"として必要な時だけ短く相槌を打った。
――喋りすぎても黙りすぎても違和感になる。
そんな均衡を取るのは、思いのほか難しい。
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午後の授業。
板書をする手は、千尋の習慣に導かれるようによく動く。
だが、消しゴムを使うたび「石片ではない」と自戒し、返答のたびに「はい」を練習する自分が、可笑しくて少しだけ心が緩んだ。
「……慣れるというのは、こういうことを言うのですね」
『そうそう!その調子!午後はいまのところ目立ってないわね!』
先生が「二人でペアになって問題を」と指示された。
私はすぐ彩の方を見た。
彩は微笑んでうなずき、机を寄せる。
距離が近づいた瞬間、彼女の視線が一瞬だけこちらを鋭く射抜いた――ような気がした。
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帰り道。
彩と並んで歩く夕暮れの道は、人々のざわめきに満ちていた。
ふとこちらに顔を向けた彼女が真剣なまなざしで静かに口を開く。
「ねえ千尋。……やっぱり今日、ちょっと変だよ?」
「……っ」
返答に詰まった私の横で、千尋の心の声が必死に響く。
『おねがい、バレないで……!』
「……まあ、いいけどさ」
彩はそう言って笑った。
けれどその瞳は、どこか探るように私を見ていた。
胸の奥で小さなざわめきが広がる。
――彩の目が、鋭く観察しているように思えてならなかった。
拙作をお読みいただきありがとうございます!
ついに彩に怪しまれ始めました……。
これからお話が動いていきますので今後の展開をお楽しみに!!