放課後の驚きと、胸裏の鼓動
やがて蓮は食事を終え、友人たちに呼ばれて席を立つ。
蓮が席を立ち去ると、食堂の喧騒が確かに耳に戻ってきた。
皿の音、笑い声、スープをすする音――。
けれどもそれらは、まるで厚い水の膜を隔てた向こう側の出来事のように、ぼやけて聞こえる。
胸の奥では、なおも千尋の鼓動が荒く打ち鳴らされていた。
その響きだけが鮮明で、私の感覚を支配している。
【……ここまで心を乱されるとは。あの蓮という男子、あなたにとって特別なのでしょう】
『う、うるさい! もう何も言わないで!』
千尋の声は震え、恥ずかしさと動揺がないまぜになっていた。
私はそれ以上追及せず、ただ静かに胸の高鳴りが落ち着くのを待った。
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――午後の授業は、どこか上の空で過ぎていった。
黒板に走る文字、教師の声、窓から差し込む光。
それらは確かにそこにあるのに、千尋の内面のざわめきが大きすぎて、遠く響く雑音のように感じられる。
『テスト勉強もしなきゃなのに……頭に入らないよ……』
【ふむ。恋と学びは両立しにくいものなのですね】
『ち、ちがっ……! 恋とかじゃないし!』
【では、なぜあれほど鼓動が高鳴るのです?】
『~~っ! もう黙ってて!』
返す声は必死だが、私にはすでに答えが透けて見えていた。
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鐘が鳴り響き、授業が終わったらしい。
生徒たちは教室を飛び出し、思い思いに廊下を歩いていく。
【……なぜ皆、帰らないのです?】
『これが“放課後”ってやつ。授業が終わったあとの自由時間だよ』
【ほうかご……。つまり、牢獄のような学び舎から解放される刻限なのですね】
『牢獄じゃないから! でもまあ、自由って意味では合ってるかも』
窓の外には広い空間――土の地面に若者たちが集まり、声を張り上げている。
【……あれは何をしているのです?】
『部活動! 運動したり音楽やったり、好きなことに打ち込むんだよ』
【学び舎において、さらに別の修練を課すと……この国の若者は休む暇もないのですか】
『いや、好きでやってるんだってば!』
気づけば、机の上に置かれた革の袋――彼らが「鞄」と呼ぶものに、私の手が伸びていた。
【……!? なぜ私はこれを持とうとしているのです】
『体が覚えてるんだよ。いつもそうしてるから自然に動くの』
そのまま紐を肩にかけると、ずしりとした重みが片側に偏った。
どうにも落ち着かず、姿勢が崩れる。
【……荷を担ぐなど侍女の役目でしょうに。これでは裾が乱れてしまいます】
『制服だから裾とかないってば! 鞄は自分で持つものなの!』
【……ところで、この帰路。誰が迎えに来るのです?】
『えっ、迎え? 誰も来ないよ。自分で歩いて帰るの』
【……公爵令嬢を一人で歩かせるなど、常軌を逸しています】
『だから! 普通の女子高生なんだから! 車も馬車も来ないってば!』
しぶしぶ鞄を抱え、校門へと歩き出す。
だが、イリスの中ではまだ「なぜ護衛も迎えもないのか」という疑念がくすぶっている。
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校門を出て、しばらく歩くと住宅街に入った。
どの家も背丈は低く、石造りでもなく、装飾もほとんどない。
だが不思議と、そこには人々の生活の温もりが満ちているように感じられた。
【……これが、千尋さんの家……】
『うん。普通の家だけどね』
【……公爵家の別邸にも劣る規模ですが……妙に温かみがあります】
玄関の前で立ち止まり、私は当然のように待った。
しかし扉は開かない。誰も現れない。
『ちょ、ちょっと!? 何待ってるの!?』
【……侍女が開けに来るのでは】
『いないから! 自分で鍵出して開けるの!』
慌てて鞄を探り、金属の鍵を取り出す。
錠に差し込み回すと、扉は軽々と開いた。
【……人任せにせず自ら開けるとは……まるで召使いの役目を奪うような……】
『違う! 自分の家なんだから、自分で開けるの!』
家に入ろうとしたその時、千尋の声が響いた。
『イリス! “ただいま”って言わなきゃ!』
【……ただいま?】
『帰ったときは絶対言うの! ほら、早く!』
仕方なく口を開いた。
「……ただいま」
そう言って足を踏み入れると、外の空気とは違う家庭の温もりが広がった。
「おかえり」
台所から姿を現したのは、穏やかな笑みを浮かべる女性だった。
【……この者が千尋の家のメイドですか】
『お母さん! 召使いじゃないってば!』
柔らかな表情に宿る気品と、どこか活発な雰囲気。……なるほど、千尋とよく似ている。確かに母君なのだろう。
「……た、ただいま帰りました」
「どうしたの? 今日は少しよそよそしいわね」
母君は怪訝そうに見つめたが、すぐに「まあ、いいわ」と笑って台所へ戻っていった。
【……危うく露見するところでした】
『だから言ったのに! 気をつけてよね!』
私は咳払いをひとつして、靴を脱ぎ、部屋へ向かった。
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部屋に入ると、壁に貼られた薄い板のようなものや、彩り豊かな紙が目に入った。
【……これは?】
『ポスター! 絵とか写真を大きく印刷したやつ!』
【……“写真”……?】
『そうそう! カメラで撮ったやつ! あとで説明するね』
さらに視線を移せば、背の低い棚に小ぶりな書物がぎっしりと並んでいる。
【……この書物、やけに小ぶりで簡素ですね】
『文庫本っていって、安くて手軽に読める本のこと。物語とか小説が多いかな』
【……ふむ。簡素でありながら、知識や物語を収めるとは……しかもこれほどの数を一人で所有しているとは】
机の上には色とりどりの小物が散らばっている。
透き通るガラスの器の中には、小さな石が光を反射し、宝玉のようにきらめいていた。
その横には、布で作られた人形がちょこんと腰掛けている。
幼子の玩具に見えるそれが、飾りとして机の上にあるのが妙に不思議だった。
【……このガラス、なんと澄んだ輝き……! そして布の人形までもが、飾りとして置かれるとは】
『だから飾りだってば! 趣味のものなんだから!』
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食卓に並んでいたのは、白い米、焼かれた魚、青菜のおひたし、味噌汁。
父君はまだ帰っておらず、今夜は母君と二人だけで食べるらしい。
【……っ! この調和……まるで王宮の献立……!】
『普通だから! 毎日こんな感じだから!』
魚をほぐす音にすら品格を感じ、私は思わず姿勢を正した。
母君が不思議そうにこちらを見る。
「千尋? どうしたの? 今日は随分大げさね」
「……い、いつも……美味しくいただいてます」
必死に誤魔化すと、母君は小さく笑い「そりゃどうも」と返した。
【……危なかった】
『ほんとにね!』
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夕食を終え、風呂場に入ったとき、私は思わず息を呑んだ。
【……浴槽にこれほどの湯を!? 一人で使うのですか!?】
『そうだよ。日本じゃ普通なの! 毎日入るんだから』
【……なんという贅沢……】
恐る恐る湯に身を沈める。
「……っ!? これは……極楽……!」
『言い方がおじさん!』
千尋の突っ込みに、私は肩まで湯に浸かりながら苦笑を漏らした。
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布団に横たわる。
今日という一日がようやく終わろうとしていた。
【……学ぶことばかりの一日でした】
『……ほんとだね。私も疲れたよ』
静寂の中で千尋の鼓動が寄り添うように響く。
それを聞きながら、私は静かに目を閉じた。
――これが、私と千尋の不思議な十四日間。
その、最初の一日目の終わりであった。
拙作をお読みいただきありがとうございます。
今回はイリスが初めて「ただいま」と「おかえり」を交わす場面が描かれました。
彼女にとっては何気ないやり取りも、異世界の価値観からすると大きな出来事。
その戸惑いと小さな成長を感じていただければ幸いです。
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