食堂の作法と、隠せぬ想い
教室に鳴り響く鐘の音。
すると生徒たちが一斉に立ち上がり、外へと向かって歩き出した。
【……何事ですか。逃げ出しているようにも見えますが】
『ちがうちがう! お昼ごはんの時間だよ! みんな食堂に行くの!』
【……しょくどう……食堂が学校にあるのですか?】
家族で食卓を囲む場としての”食堂”しか知らない私にとって、学び舎に”食堂”があるということはどうにも理解できない。
千尋は当たり前のように答えていたが……私は要領を得ないまま、千尋に促されて教室を出た。
『ほら、早く行かないと売り切れちゃう!』
【……売り切れる……?】
『あとで説明するから! とにかく急いで!』
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急かす千尋に従って私は階段を降りた。
やがて辿り着いた広い空間――。そこが「食堂」だという。
扉をくぐると、すでに長い列ができていた。
生徒たちは皆、列に従い、静かに順番を待っている。
前方には膳を渡す者と、受け取る者の姿。
大鍋からすくわれる汁物、白く輝く粒の山、香ばしい揚げ物らしき一皿……。
【……これが、食堂……】
まるで祝宴の場を切り取って並べたかのような光景に、思わず息を呑む。
だがそれは晩餐会の大広間ではなく――生徒たちが日々の糧を得るための場。
私の感覚では「食堂」というより、むしろ宴を催す“バンケットルーム”とでも呼ぶべきものだった。
貴族の晩餐とは違う。けれどもそこには、不思議な温かさと秩序があった。
『ほら、イリス! ぼーっとしてると順番来ちゃうよ!』
【じゅ、じゅんばん……? どういう意味でしょうか】
『並んで、お金を払って、ご飯を受け取るんだよ! 順番守らないと食べられないの!』
【なぜ配膳されないのですか!? 本来は侍女が運ぶものでは……】
『いいから! お腹と背中がくっついちゃうー!!』
……背中と腹がくっつく? 一体どんな呪いだ。
そう思いながらも、千尋の尋常ではない勢いに押され、私は不本意ながらも列に加わった。
やがて膳を受け取り、空いた席を探す。
ようやく腰を下ろし、湯気の立つ椀を覗き込めば――具材の多さに目を見張った。
【……これは……芋、肉、葉菜……。まるで祝宴の鍋を小分けにしたようです】
『え、普通の豚汁だよ?』
【……とんじる?】
『そう。味噌っていう調味料で味をつけて、豚肉と色んなお野菜を煮込んだスープ』
【……なるほど。初めて拝見しましたがとても深みのある香りです】
私は膳を受け取る際に添えられていたスプーンを手に取った。
そのまま椀に差し入れ、汁を口へと運ぶ。
【……っ!? これは……! 身体の芯に染み渡る……!】
『え、ちょっ……!? イリス!? スプーンで豚汁飲んでる人なんて初めて見たよ!』
【……なぜですか? スプーンはスープを飲むものでは?】
『いやいや、それはそうなんだけどっ! でも豚汁はそうやって飲むんじゃなくて、お椀を持って、そのまま飲むんだよ!』
【……なるほど。だから周囲が私を見ていたのですね】
視線を巡らせれば、生徒たちがちらちらとこちらを窺っている。
それにしても――お椀を手に持ち、口をつけて直接飲むなど……。
もし父上に見られたら、厳しく叱責されるに違いない。
私は咳払いをひとつして姿勢を正した。
令嬢としての作法を守ったつもりが、この世界では奇異に映ったのだ。
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【……この世界の作法は、やはり私の常識とは異なるようです】
『そうだね。イリスの世界とはいろいろ違うと思う。……って、ほら、その二本の棒にもきっと驚くんじゃない?』
千尋の声に促され、膳に並んでいた二本の細い棒へ視線を落とす。
私は眉をひそめた。
【ところで……この二本の棒は何でしょう?】
『ああ、それ“お箸”だよ。日本では食事の時はだいたいそれを使うの』
【……棒で、食べ物を摘む……? そんな馬鹿な】
試しに手に取ってみる。
指の動き自体は不思議と自然にできるのに、どうにも思うように扱えない。
芋を摘もうとすれば、つるりと滑り落ち、肉を挟もうとすればぽとりと椀に沈む。
【む……難しい……なぜか指は動くのに、意のままになりません】
『あ、惜しい! もうちょっと力を抜いて!』
千尋の声が焦れったそうに響く。
だが、もう一度試すと、今度は葉菜をしっかりと摘み上げることができた。
【……おお。できました!】
『すごい! 初めてにしては上手いよ! 私の身体だから、持ち方が染みついてるんだと思う』
【……なるほど。身体が覚えている……とは、こういうことなのですね】
私はしばし箸を見つめた。
棒で食を摘むなど滑稽だと思ったが……実際にできてしまうと、妙に誇らしい。
……とはいえ、父上に見られたら間違いなく卒倒なさるだろう。
だが、この国ではこれこそが礼儀であり、日々の食卓を支える“常識”なのだ。
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悪戦苦闘しながら膳の上の料理を味わっていると、背後から明るい声が飛んできた。
「千尋ー、一緒に食べよ!」
顔を上げると、元気そうな女子生徒が膳を持ってこちらに歩いてくる。
迷いなく向かいの席に腰を下ろし、楽しげに話しはじめた。
【……誰ですか、この者は】
『ああ、彩。クラスの友達だよ。いつも一緒にお昼食べてるの』
【……なるほど。彩さん、ですか】
「ねえ聞いた? 次の体育、持久走らしいよ。最悪だよねー」
【……食事の最中に談笑とは……!】
『いやいや、普通だから! 日本ではお昼はこうやっておしゃべりしながら食べるの!』
【……なんと無作法な……食をいただく時は黙し、味わうのが礼儀でしょうに】
『イリス、それはこっちの常識じゃないの!』
内心で声を荒げ合う私と千尋。
だが、その間にも彩は一方的に話を続けていた。
「それでさー、この前のドラマがさ――」
彼女は私の反応を待たずに楽しげに喋り続ける。
だが、さすがに返事が少なすぎると感じたのか、こちらを覗き込んで首を傾げた。
「千尋? なんか変な顔してない? 大丈夫?」
【っ……! な、なにを言えば……】
『落ち着いて! 大丈夫って言えばいいから!』
「だ……だいじょうぶ、です」
口に出した瞬間、彩がじっとこちらを見た。
気まずい沈黙が流れる。
『あー……やっぱ不自然すぎ! “です”とか言わないで!』
必死にツッコミを入れる千尋の声に、私は心の中で小さく肩を落とした。
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彩とぎこちないやり取りを続けていると、不意に後ろから声がかかった。
「千尋。ここ、いい?」
その声に、千尋の心が大きく揺れた。
胸の奥が跳ね上がるような動悸が、私にまで伝わってくる。
【……この反応。さては……】
『い、言わなくていいから!』
振り返れば、一人の男子生徒が立っていた。
整った顔立ちに柔らかな物腰。
女子生徒たちの視線を自然に集めるその姿。
「やっほー蓮! 一緒に食べよ!」
彩が気安く声をかける。
どうやら彼の名は――蓮。
【……ああ。なるほど。千尋さんの想い人、というわけですね】
『ちょっ、違う! 違うから!!』
【見えませんし、冗談です】
『は……?! え……?!』
千尋の必死の否定は、動揺そのものだ。
私には、もはや隠しようがないように思えた。
蓮はにこやかに席へ腰を下ろし、自然な笑みで言った。
「千尋、今日のお弁当は?」
「お弁当……? それは何ですか」
『ちょ、今それ聞く!?』
慌てる千尋の声をよそに、私は思わず問い返してしまった。
「……へ?」
彩と蓮の視線が、怪訝そうにこちらに向けられる。
『イリス、黙ってて! 絶対に喋んないで!』
「……! し、失礼しました」
私は慌てて視線を落とし、箸を持ち直した。
胸の奥では千尋の心臓が暴れるように脈打っている。
「……ふむ。どうやら、こちらもまた“試練”のようですね」
『だから余計なこと言わないでってばー!!』
お読みくださりありがとうございます!
食堂が“バンケットルーム”、豚汁が“祝宴料理”。
イリスの言葉に「いやいや!」と突っ込みながら笑っていただけたら嬉しいです。
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