宝石の知と、小石の言い訳
『そういえば……これ、私……だよね? 私の身体……だよね……?』
細く華奢で、肌の色も違う。
袖口を見やれば、そこにあるのは薔薇色のドレスではなく、黒と白を基調とした簡素な布服。
【……あなたの身体……】
言葉にした瞬間、胸の奥を冷たいものが撫でていった。
私は浅く息を整える。動揺を悟られるのは好ましくない。
【あなた……ずっと“あなた”では呼びかけるのに困りますので、差し支えなければお名前を教えていただけますか】
『えっと……藤崎千尋。……千尋、って呼んでくれたほうが嬉しいかも』
【千尋さん、ですね】
『あ、さん付けはやめて!』
【……千尋さん】
『いや、だからさんはいらないってば!』
【千尋さん】
『もうっ! わかった! 千尋さんでいいよ!』
私は小さく吐息を洩らし、改めて問いかける。
【では千尋さん、お尋ねします――この場はどこなのです】
『……ここは学校。授業の合間の休み時間だよ』
「……がっこう?」
思わず口に出してしまった。
耳慣れぬ響きを舌で転がすたび、異質さが胸に沈む。
私は周囲を観察した。
規則正しく並ぶ机と椅子。
同じ年頃に見える若い男女が思い思いに談笑し、歩き回り、薄く小振りな板のようなものを眺めては笑い合っている。
全員が揃いの服を着ていて、そこに個性は感じられない。
【……これは何の集会なのです】
『集会じゃないって。先生が来て、勉強する場所。だから“学校”』
【勉学の場、ということですか】
――つまり、これが“学校”。
私が知るものとは、似ても似つかない。
【……これほど雑然とした有様が“学校”と呼ばれているのですか。まるで牢に入っていない囚人の群れのようです】
『ちょ、囚人って! やめてよイリス、物騒な例え方! ここはちゃんとした学校だから!』
【……私が存じている“学校”とは、貴族の子女、それも選ばれた少数に学者が知を授け、互いに論を交わし、思考を鍛える場でした。……このような喧騒の中で、いかなる学びが成り立つというのです】
『う、うーん……たしかに騒がしいけどさ。授業が始まれば静かになるし。みんなで一緒に学ぶのが“普通”なんだよ』
【……皆で一緒に、ですか】
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そのとき、どこからともなく奇妙な音が鳴り響き、周囲の若者たちが一斉に動きを止めた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、皆が一斉に席へと戻っていく。
『うわっ、チャイム鳴った! やば、もう時間! 先生来ちゃう!』
私は周囲の光景に目を見張った。
雑然としていた群れが、一瞬で整然とした姿へと変貌する――。
扉が開き、一人の男が入ってきた。
周囲の若者たちと違い、彼だけが簡素だが整った服をまとっている。
その腕には、分厚い本を数冊抱えていた。
『あの人が先生だよ』
なるほど――だからこそ皆が一斉に席へ戻ったのだ。
先生は教壇に本を置き、手にした白く短い棒を黒い板に走らせた。
キイ、と乾いた音がして、白い線がすべっていく。数字と記号が次々と刻まれていく。
【……あれは何をしているのです。魔法陣に見えなくもありませんが】
『あれはチョークっていうもので、黒板に文字や式を書くの。授業では基本の道具なんだよ』
【……チョーク、ですか。黒板とは……あの黒い板のことですね】
黒板と呼ばれた板には、数字と記号が次々と連なっていく。
ひとつひとつの記号は読める。言葉としても理解できる。
だが、それらが組み合わさった途端、意味は霧のように霞んでいった。
【……これは……数の理でしょうか。しかし……私の知るどの学問よりも複雑で、未知の呪文のようです】
『……難しいよね。私もこういうの、ほんとわかんなくて。嫌いなんだよ』
【……なっ!? これほどのものを“わからないから嫌い”で切り捨てるだなんて……! あなたは贅沢すぎて耳が腐ってしまったのですか!? それとも、知を宝石ではなく小石とでも思っているのですか!?】
『ええっ!? 耳は腐ってないし! 小石だなんて思ってないから! ただほんとにわかんないだけなの!』
【……知らぬことを嫌うのではなく、学ぶものでは? あなたの心は鎧より厚い鋼で覆われているのですね】
『ちょっと待って!? それ全然褒めてないよね!?』
【……ご判断はお任せします】
『だ、だいじょうぶ。点さえ取れれば――進級、できるから!』
【……進級? それは何ですか】
『学年がひとつ上がること。テストで点が取れないと落第して、同じ学年をやり直しになるの』
【……ですが、もしその“テスト”に落ちたらどうなるのです】
『えっ? えーと……もう一度同じ学年を、かな』
【……つまり、あなたもまた一生をこの牢……“学校”で過ごす危険があると】
『いやいやいや! そんなホラーな話じゃないから! ちゃんと卒業できるから!』
拙作をお読みくださりありがとうございました。
次回もイリスと千尋の掛け合いを楽しんでいただければ幸いです。
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