帰らざる間
【帰らざる間】ーーーーーーーーーーーーーーーーー
八月の終わり、山間の町に移り住んだ佐伯家は、格安で手に入れた古い木造の一軒家に暮らし始めていた。父・和志、母・美由紀、高校生の娘・結衣、幼い弟・颯太。家は広く、縁側からは鬱蒼とした杉林が迫り、裏手には小さな祠が苔むして建っていた。
「祠には近づかないように」
不動産屋が軽く言ったその忠告は、最初の夜から現実味を帯びる。
二階の畳の部屋で眠っていた結衣は、夜半に声で目を覚ます。
――かえして。
女とも子どもともつかない掠れ声が、耳元で囁いていた。振り返ると、暗がりの隅に誰かが立っている。顔はぼやけ、髪だけが濡れたように艶を放ち、着物の袖口から黒く濁った水がぽたぽたと畳を濡らしていた。
翌朝、結衣は夢だったと自分に言い聞かせる。だが、畳には確かに湿った跡が残り、母が雑巾で拭きながら首を傾げていた。
やがて家族全員が奇妙な体験をするようになる。
縁側を走る足音、天井裏で子どもが笑う声、暗い廊下に立つ女の影。最初に狂い始めたのは弟の颯太だった。
「ねえ、あの子が遊ぼうって言ってる」
誰もいない押し入れに向かって話しかける姿を見た母は蒼白になった。
父・和志は必死に理屈を探し、ネズミのせいだ、疲れているだけだと自分に言い聞かせる。しかし、祠を調べた結衣は、そこに無数の小さな位牌や紙人形が積み上げられているのを見つける。すべてが水で滲み、読めぬ名が黒い墨汁のように流れ落ちていた。
地元の古老が語る。
「あの家の裏の祠は、昔、村で亡くなった子どもたちを封じた場所なんだよ。疫病で死んだ子も、事故で死んだ子も、みんなあそこに縛られている。封を切れば……呼ばれてしまう」
結衣が怯えながら両親に伝えたその夜、颯太の姿が消える。布団は濡れ、窓辺には小さな泥の足跡が続いていた。
必死に探す家族の前に現れたのは、祠の前で笑う颯太――のような“何か”だった。白く濁った目を持ち、口いっぱいに泥と水草を噛みしめながら、掠れ声で呟く。
「かえして……かえして……」
父が駆け寄った瞬間、その小さな影は闇に吸い込まれた。
残されたのは、濡れた草履一足。
結衣は悟る。
この家は「住む」場所ではなく、「呼び戻す」ための器。
死んだ子どもたちの魂を、この世に“帰らせる”ための……。
祠の奥から無数の声が響く。
――かえして。かえして。かえして。
そして佐伯家の灯りは、二度と点ることはなかった。
#短編ホラー小説