エピローグ〈再会〉「また、恋をしよう」
夏が、終わった。
島での合宿を終えて帰ってきた私は、なんとなく、心にぽっかりと穴が空いたまま、毎日を過ごしていた。
海を見ても、潮の匂いをかいでも、胸の奥がうずくように疼くだけで。
あれから、律さんのことを夢で見ることもなかった。
──もう、会えないんだ。
そう思えば思うほど、身体の中に彼の残り香だけが濃くなっていって、私はますます抜け出せなくなっていた。
そんなある日。
大学の講義が終わって、帰り道にふと立ち寄った水族館で、私は彼を見つけた。
最初は、気のせいだと思った。
でも、すれ違った瞬間──あの目を見た瞬間、胸が跳ねた。
「……っ」
律さんだった。
あの深いグレーの瞳も、切れ長の目元も、立ち姿も──何もかも、あのときのままだった。
ただひとつ違ったのは、彼がこちらに気づいても、私の名前を呼ばなかったこと。
「……あの、失礼ですけど……律さん、ですよね?」
話しかけると、彼は一瞬、驚いたような顔をした。
「……え? あ、えっと……律、って名前は合ってますけど」
──記憶が、ない。
胸がきゅうっと締めつけられた。
でも、その瞳はやさしかった。
「初めて、ですよね……? どこかで会いましたっけ……?」
「……ううん、こっちの話」
笑ってごまかしたけど、涙がこぼれそうだった。
「よかったら……コーヒーでもどうですか? 館内にあるカフェ、わりと静かで」
私は、彼の言葉にうなずいた。
たぶん、断られていたら、本当に崩れてしまっていた。
カフェの席に着いて、並んで海を眺めながらコーヒーを飲んだ。
「……律さんは、この街に最近引っ越してきたんですか?」
「ええ。漁師の家に育って、こっちの水産関係の大学に編入してきて。まだ慣れてないけど、都会の海も悪くないなって思ってます」
「……編入?」
「うん。前の記憶が、ちょっと曖昧で。事故か何かだったのか、よくわからないんだけど……」
「……そっか」
律さんは笑った。
「でも、不思議なんです。今こうして話してると、なんか……懐かしい気がする」
「懐かしい……?」
「うん。どこで会ったかも思い出せないのに、こうやって澪さんといると、なぜか安心する。前にも、同じ風を感じたような……」
私は、もう涙を堪えられなかった。
「……ごめん、なんか……」
「泣いてる……? 大丈夫?」
「大丈夫。泣いてるのは、嬉しいから」
私が涙をぬぐいながら笑うと、律さんはおずおずとポケットからハンカチを出して、差し出してくれた。
その手に、かすかに“冷たさ”があった。
変わらない。やっぱりこの人は、律さんだ。
名前も、記憶もなくしても、私の手のひらがそれを覚えてる。
「律さん」
「はい」
「……また、恋をしようよ」
「……え?」
律さんが、目を見開いた。
私は、静かに言った。
「いちから、でもいい。あなたが覚えてなくても、私は全部覚えてる。だから、もう一度、恋をしよう」
彼はしばらく黙っていたけれど、やがて――ゆっくり、やさしく、微笑んだ。
「……わかりました。じゃあ、改めて──水野澪さん。よろしくお願いします」
差し出された手を、私は震える指で握った。
その手のひらは、もう泡じゃなかった。
温度があって、体温があって、命が宿っていた。
今度こそ、離さない。
この恋は、きっと、永遠に続いていく。
夏の終わり。
ひとつの季節が終わって、でも、もう一度──恋がはじまる。