第四章「海の底で、あなたを」
──泡神祭。それは、この島に古くから伝わる、海の神様を鎮めるための神事。
旧暦の七月七日、島の若い娘がひとり、真夜中の海に身を浸し、泡を供える。
それは“溺れて泡となった神の魂”へ、静かに語りかける儀式。
「泡神は、愛を知ったとき泡となって海に還る。
それを、人が思い、手を差し出すことが……
せめてもの、祈りになる」
巫女の言葉を聞いたとき、私は決めていた。
──もう一度、あの人に触れる。
泡になってしまったとしても、私は彼の手を離さない。
夜、浜辺には篝火がいくつも灯され、島の人々が集まっていた。
祭囃子はない。喧騒もない。静かな、息をひそめるような神事。
私が白装束に身を包むと、周囲から「巫女か?」というざわめきが起きた。
本当の巫女は別にいた。私は“正式な祭りの娘”ではない。
けれど、もう誰の許しも必要なかった。
律さんが泡になったあの夜から、私の中に決意だけが残っていた。
「律さんを、連れ戻す」
誰にも聞かれないように、小さく、でも確かに口にして。
私は、海へと足を踏み出した。
夜の海は、昼間のそれとはまったく違っていた。
水面は月明かりを吸い込む鏡のように静かで、冷たくて──怖いほど、静かだった。
ウエットスーツではなく、ただの白装束のまま。
酸素ボンベもなく、フィンもつけず、私はゆっくりと、足の先から海に沈んでいく。
潮が、肌に絡む。
水が、口の中に入りそうになる。
でも、私は潜った。
心の中で律さんの名前を呼びながら。
あの人が最後に立っていた入り江の底へ──あの時、泡になった場所へ。
──律さん。
──律さん、どこ……?
目の前の視界は、暗くて何も見えない。
でも、感じた。
どこかで、“冷たくて懐かしい何か”が、私を呼んでいる気がした。
息が苦しい。
胸が痛い。
もう、限界──
そのときだった。
光。
海底の砂の奥から、白い光がゆらゆらと舞い上がってきた。
──泡。
泡の粒が、私の指先に触れた。
それは、ふわりと優しくて、でも確かに“彼”の気配がした。
「律さん……!」
私は手を伸ばす。
泡の群れの中に、あの横顔が、ぼんやりと浮かんで見えた。
ぼやけていた輪郭が、近づくほどに、確かな形になっていく。
顔。
肩。
腕。
そして、私の名前を、震えるように呼ぶ声が──
「……澪」
涙が、海の中であふれた。
でもそれは、もう分からない。
律さんの体は、まだ泡のまま。
触れようとすると、すぐにほどけてしまいそうで。
「怖くないよ。……ちゃんと、抱きしめて」
私は、彼の輪郭を、そっと腕の中に包んだ。
泡は、静かに光を放ち、ゆっくりと、私の体を包み返してきた。
「もう一度、人になって」
「それは……」
「私を忘れてもいい。記憶がなくても、名前を忘れてもいい。
でも、世界のどこかで、ちゃんと生きてて」
「……」
律さんの顔が、初めて涙に濡れた気がした。
「じゃあ……僕は、君の願いに、還るよ」
その瞬間、光が爆ぜるように広がった。
私の視界が、真っ白に染まっていった。
息が、吸えない。
水が、肺に入り込んでくる。
意識が遠のいて──でも、なぜか、怖くなかった。
泡の中で感じた温もりが、ずっと、私を守ってくれていたから。
*
どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。
気づけば私は、浜辺に倒れていた。
島の人々が駆け寄り、誰かが必死に呼びかけている。
「……生きてる、生きてるぞ! 息してる!」
私は、ぼんやりと目を開けた。
海の匂いが、鼻をくすぐる。
でも──彼の姿は、なかった。
「律さん……」
かすれる声で名前を呼んだ。
誰にも聞こえなかったはずなのに、波だけがやさしく答えた気がした。
きっと、もういない。
でも、私はわかっていた。
──あの人は、どこかで、もう一度生き直してる。
この世界の、どこかで。