第三章「僕は、人間じゃない」
律さんの輪郭が、揺れていた。
頬に触れた月明かりが、すこしだけ透けて見える。
──泡。
私は思わず、指先で触れようとしてしまった。
けれど律さんはそれを、そっと手で制した。
「……見たね」
その声には、あきらめにも似た寂しさがにじんでいた。
「律さん……これは、何?」
問いかけた私の声も、かすかに震えていた。
なにか決定的なものが、もう戻れない場所まで来てしまった気がして。
律さんは、静かに息を吐いた。
それが、人間の吐息とは少し違って聞こえたのは、私の気のせいじゃなかったと思う。
「僕は、人間じゃない。……正確には、人間だった“もの”」
「“だった”……?」
「……十年前、この島で溺れたんだ。名前も、年齢も……もう全部、思い出せない。ただ、確かに死んだ。それだけは覚えてる」
律さんは、ゆっくりと床に座りなおした。
私は彼の正面に向き合って、膝を抱えた。
「それから、しばらくして……意識があった。暗い水の底に、溶けかけた魂だけが残ってて……そのまま泡になって、海を漂ってた」
「……」
「ある日、誰かの声が聞こえた。“もう一度、人の姿になりたいか?”って。答える声もなかったけど……気づいたら、この体になって、浜辺に立ってた」
「……それって、神様?」
「この島では、“泡神”って呼ばれてるらしい」
私は息を飲んだ。
合宿初日に、民宿の女将さんが話していた伝承を思い出す。
“この島には、泡になった神様が住んでいる”
“恋をしてしまえば、その泡は消える”
「まさか、本当に……律さんが、その……」
「泡神なんて立派なもんじゃない。……ただの、残された魂の欠片だよ」
律さんの声は、どこまでも静かだった。
でもその静けさは、私の胸を締めつけるほどに、痛かった。
「今の僕の体は、海の加護で保たれてるだけの仮初め。時間が経てば、泡に戻る。……でも、不思議なことが起きたんだ」
「……?」
「君と、出会ってから──少しずつ、体が“変わって”きた。心臓が動くような感覚があった。指先が、熱を持った。君に触れたとき、鼓動みたいなものを、確かに感じた」
私は、胸に手を当てた。
その言葉のひとつひとつが、私の中のどこかと共鳴していた。
「……じゃあ、もっと一緒にいれば……律さんは、人間に戻れるってこと?」
「……わからない。でも、僕は“恋をすると泡に還る”運命にあるらしい。人を愛してしまえば、形を保てなくなるって、神様が言ってたらしいよ」
「それって……あまりにも、ひどい」
「うん。だから僕は、最初から決めてた。誰とも深く関わらずに、静かに消えていくって」
「でも……関わっちゃったじゃん」
私の声が震えた。
でも、それは怒りでも、悲しみでもない。
「私のこと、好きになったでしょ」
律さんは、ふっと目をそらした。
その横顔に、初めて“少年”のような迷いが浮かんでいた。
「……ごめん」
「それ、何回目?」
「……」
私は、彼の手を握った。
冷たかった。だけど、今夜の海風より、ほんのすこしだけ、あたたかかった。
「私、あきらめないよ」
「……え?」
「律さんが泡になんて、させない。……だって私、こんなに好きになったのに、忘れたくなんてないもん」
律さんの目が、初めて揺れた。
「澪……」
「ちゃんと、私を見て。あなたを、ちゃんと抱きしめたいって思ってるの、私だけじゃないでしょ」
「……ほんとに、いいの?」
「いいよ。……律さんとなら、泡になっても、いいって思った」
その瞬間、律さんの体から、ふっと白い光が舞い上がった。
まるで、海辺で割れる波飛沫のように。
光の粒はゆらゆらと空へ上がり、夜空に溶けていく。
律さんの輪郭が、また少し揺らいでいた。
「……まずいな。そろそろ……限界かもしれない」
「待って、行かないで──」
私は彼の胸に顔を埋めた。
その瞬間、泡のように透けかけていた彼の腕が、しっかりと私の背中を抱きしめた。
「ありがとう、澪。……こんな僕を、見つけてくれて」
「だめ……だめ、だよ……まだ、話したいこと、いっぱいあるのに……!」
「……澪」
耳元で、優しく名前を呼ばれた。
「最後に……君の声で、名前を呼んで」
「……律さん」
次の瞬間、私の腕の中で彼の体は、そっと泡のように、ほどけていった。
何も言わず、何も残さず、波のように──。