第二章「夜に溶けていく泡」
この島の夜は、音が少ない。
虫の声も、波音も、みんな遠くで鳴ってるみたいに、やさしくて、静かだった。
合宿最終日前夜、夕波荘の裏庭では、バーベキューと花火が始まっていた。
「お肉焼けた!」「線香花火勝負しよ!」って、みんなが笑ってはしゃいでる。
私は輪の中にいたけれど、ずっとそわそわしていた。
彼が、気になってしかたなかったから。
律さんは、あれからも変わらず浜辺にいた。
でも、少しずつ話してくれるようになった。
海の話はやっぱり避けるけど、私の声にはちゃんと耳を傾けてくれる。
だから、今夜は──もう少しだけ、近づいてみたかった。
「……ちょっと、外の空気吸ってきますね」
そう言って部の仲間たちから離れ、私は裏の納屋へと向かった。
数日前、偶然見つけた場所。物置小屋みたいな造りだけど、中はきれいに整理されていて、潮の匂いがほんのりする落ち着いた空間。
そっと戸を開けると、そこに律さんがいた。
裸足のまま、床に座って、黙って夜空を見上げていた。
「……ここ、入ってもいいですか?」
彼は驚くでもなく、視線だけでうなずいた。
「さっき、バーベキューしてて。花火とかも……楽しかったけど、ちょっと疲れちゃって」
ぽつりぽつりと話す私の横で、律さんは小さく笑った。
「……わかる。人が多いと、音が多くて、胸がざわつく」
「……うん」
床に腰を下ろすと、冷えた木が太ももに触れてひやりとした。
その感触に、なぜか安心する。
隣に彼がいるだけで、体の中心がすうっと落ち着いていくのがわかる。
「……」
「……」
しばらく沈黙が続いた。でも、居心地は悪くなかった。
風が吹き抜けて、私の髪が律さんの肩にかすかに触れたとき、彼が少しだけ目を伏せた。
「澪」
初めて名前で呼ばれて、胸の奥が跳ねた。
「ん……?」
「……俺、おかしいって思わない?」
「なんで……?」
「こんなふうに、人と関わるの、たぶん久しぶりなんだ。いや……違う。“初めて”かもしれない」
律さんの声は静かだった。でも、どこか震えていた。
「不思議だよな。君と話すと、胸の奥が熱くなる。触れたくなる。知りたくなる。……それが、怖い」
私は、ゆっくり手を伸ばして、彼の手に自分の手を重ねた。
彼の手は──やっぱり、ひんやりしていた。
「……そんなに、冷たいんだね」
「ごめん」
「謝らないで。……大丈夫。私は、あったかいから」
ぎゅっと、指を絡める。
律さんが小さく震えたのを感じたあと、彼の唇が、そっと私の額に触れた。
「……ありがとう」
その一言が、あまりにも優しくて。
私の中で、何かが、音を立てて崩れた。
気づいたら、私は彼の肩に身体を預けていた。
「……眠ってもいい?」
「……ああ」
律さんの肩は冷たいけど、息遣いはすぐそこにあった。
私は、そっと目を閉じた。
──気づけば、夜が深くなっていた。
納屋の戸は半分開いていて、月の光が差し込んでいた。
横を見ると、律さんがまだ隣にいた。
でも、彼の体は……なんだろう、どこか違っていた。
温度が、まるで感じられない。
「律さん……?」
声をかけると、彼はゆっくりと目を開いた。
「……ごめん。そろそろ、戻らなきゃ」
「え? どこに……」
律さんは立ち上がろうとした。でも、その動きがどこか、ぎこちなかった。
「澪。……もう会わない方がいい。これ以上一緒にいると……俺は、おかしくなる」
「どういう……意味?」
「──人間じゃないから」
その言葉は、夜風よりも冷たかった。
私は彼の腕を掴んだ。
「意味、わかんないよ……そんなの、いま言う?」
「……ごめん」
「謝らないでって言ったじゃん……!」
私の目から、涙が零れた。
律さんが、私の涙を見て何か言いかけたとき──彼の頬に、雫がひとつ落ちた。
でもそれは、私の涙じゃなかった。
月明かりの中で、彼の頬が……ほんの少し、泡のように、透けていた。