第一章「潮風の中の、あなた」
潮騒の音が、今日も私の背中を押していた。
合宿三日目。ダイビング部のメンバーたちは朝からテンションが高い。
「今日は洞窟スポット!」「ウミガメ見れるかも!」なんて盛り上がっていたけど、私は少し遅れて、のんびりと海へ向かう。
荷物は軽装。ボードショーツに白いラッシュガード、髪は三つ編みにまとめた。肌にはほんのり潮焼け。水中では重力が薄まって、心も体も少しだけ自由になるから、海の中が嫌いじゃない。だけど、誰かと一緒にいる時間より、ひとりで海辺にいる方が落ち着くのは――私のクセみたいなもの。
海岸線を歩くと、やっぱりそこにいた。
昨日と同じ場所。白いTシャツに、色褪せたジーンズ。素足で砂浜に立つ青年。
彼は今日も、まるで世界から切り離されたように、海を見ていた。
「……また、会いましたね」
思いきって声をかけると、彼は少しだけこちらを見て、短くうなずいた。
昨日もそうだった。何も言わずに、ただ首を動かすだけ。
でも今日は、もう少し話したかった。なんとなく、そう思った。
「ここ、好きなんですか?」
私の問いに、彼はしばらく黙って、それから低く落ち着いた声で答えた。
「……うん。静かだから」
「たしかに。波の音だけ、って感じですね」
「……それが、いい」
言葉は少ない。でも、誤魔化してる感じじゃない。
まっすぐな目をしていて、嘘をつくのが下手そうな人だった。
私は彼の横にしゃがみ込む。砂がさらさらと流れて、ひんやりしている。
目の前には、打ち寄せては引いていく波。その繰り返しが、やけに心地いい。
「このあたりに、住んでるんですか?」
「……民宿。手伝ってる」
「えっ、ってことは……“夕波荘”の人?」
「ああ。裏の離れに住んでる」
なるほど。あの民宿の佇まいにはどこか人の気配が薄いと思ってたけど、彼が住んでいたなんて。ひとつ納得。
「……名前、聞いてもいいですか?」
彼は少し迷ったように、視線を落として、それから口を開いた。
「律」
「律さん、ですね。私は澪です、水野澪。大学一年で、ダイビング部の夏合宿で来てて……えっと、どうでもいい話ですけど」
「あんたは……海が好き?」
初めて、彼から質問された。
なんだか、呼吸が止まりそうになる。
たったひとことなのに、それが嬉しくて、でもなんだかくすぐったくて。
「うん……好きです。海の中にいると、全部を許される気がして」
「……許される?」
「うまく言えないけど……たとえば、泣きたいときって、誰にも見られたくないじゃないですか。でも海の中なら、涙も分かんないし」
「……」
律は、私の顔をじっと見た。その瞳は灰色で、吸い込まれそうなくらい深い色だった。
なのに、表情はほとんど変わらない。ただ、何かを考えているような、そんな沈黙。
「ごめんなさい、変なこと言った」
「いや。……なんとなく、わかる」
ほんのわずかに、口元がゆるんだ気がした。
この人、笑うことあるんだ。
そう思ったら、胸がきゅうっとなった。
「……律さんは、海に潜ったりしないんですか?」
私がそう聞いた瞬間、律の目が一瞬だけ揺れた。
「……しない。できない」
「泳げないんですか?」
律はゆっくりと首を振った。
「違う。……ただ、海に入ると、消えてしまいそうになる」
「え……?」
それは、冗談にしては、あまりにも切実で。
律はそれ以上、何も言わなかった。ただ立ち上がり、波の方を見て、ぽつりと呟いた。
「潮が上がる。戻った方がいい」
「え、あ……はい」
慌てて立ち上がると、律はすでに背を向けて歩き出していた。
引き止める言葉も見つからず、私はその背中を見送る。
彼の足跡だけが、波打ち際に残っていた。
──消えてしまいそう、って。
その言葉が、やけに胸に残っていた。
まるで、自分自身のことを言ってるように聞こえたから。
私もまた、誰かの中で“ちゃんと存在してる”って、そう感じられたことがなかったから。
律さんは、今まで会った誰とも違う。
あんなふうに、真剣に静かでいられる人を、私は他に知らない。
たった数分の会話だったのに。
気づけば、もう次に会いたくなっていた。
潮風がまた、髪を揺らしていた。
少し、冷たくなってきた気がするのに──私は、その風の中で微笑んでいた。