#6 初陣
「おつかれー」
真っ先に声をかけてきたのは、薄茶の髪を一つに束ねた女性職員だった。
白衣のポケットからチョコレート菓子の小袋を取り出し、差し出してくる。
「聞いたよ。着いた途端、照明落とされたんだって?」
豪快な笑い声。悩みも吹き飛ばされるような明るさだ。
「でもさ、そもそも興味持たれただけで奇跡よ? 私なんて、存在ごとスルーされてるから」
そう言って、また笑う。
その言葉は慰めのようでいて、どこか羨望が混じっているようにも聞こえた。
「あれ、ユニットの接続位置、彼の部屋側だったんですか?」
隣で聞いていた男性研究員も話に加わる。
「たぶん。扉を開けたら、すぐ目の前にいて」
「うわ、それは災難だったね」
横でモニタを操作していた別の研究員が、苦笑をこぼす。
「ごめん、本来なら廊下を1本挟むはずだったんだけど」
「つまり私、直接……」
「そう。寝室の壁をドンってノックしたようなもん。あいつは、そういうの気にするからね〜」
「………」
「でも逆に言えば、無事に出てこられて良かったじゃん?」
さっきの出来事が、頭の中で何度もリプレイされている。
何がいけなかったのか。声をかけたのが間違いだったのか――今はただ、もう一度、あの凍った視線の奥に触れてみたい。その想いだけが、じわりと心に残っていた。
「落ち着いたら、気分転換に中を回ってみるかい?」
女性職員が明るく誘ってくれる。
夜桜が今いるのは、仮設拠点〈MB-07〉。
車両型のモジュールを線路のように連結した、可動式の多目的拠点だ。
一つひとつのユニットは六畳ほどの広さしかなく、生活用、研究用、医療用など、用途ごとに役割が定められている。内部は最低限の設備しか備えられていないが、連結された廊下を進めば、共有の食堂、シャワー室、モニタリングルームなども完備されていた。
各ユニットは磁力で接続され、必要に応じて増設・切り離しができる柔軟な設計になっている。
夜桜の個室は、接続ミスか、あるいは意図的な配置か――よりによって、凊佐の居住ユニットと直接隣り合っていた。
他愛もない話をしながら廊下を抜けると、不意に視界が開けた。
天井はガラス張りで、熱帯にありそうな植物が植えられた広めの部屋。腰かけられるような高さの段差があり、自然と人が集まる作りだった。正面は制御室とつながっている。
「ここが、この拠点の中心。意外と落ち着くでしょ?」
女性職員は、ちょっと誇らしげに言った。
「……きれいですね」
夜桜は天井のガラス越しに、うっすらと霞んだ空を見上げる。
人工の空調の下でも、ほんの少し自然が感じられる気がした。
「そういえば、名前をお聞きしてもいいですか?」
「あ、言ってなかったけ? 技術管理担当の夏井です。よろしく!」
「調査員見習いの立花夜桜です。」
「うん、知ってる。話題になってるからね」
「……悪い意味で、ですよね」
「ま、悪目立ちも才能ってことで」
その軽口に、夜桜が思わず吹き出す。
二人で顔を見合わせて、さらに笑い合った。
緊張が解けたからか、夜桜の目には涙が自然と滲んでいた。
「ねえ、チョコ、もうひとつあげよっか?」
「いただきます」
そう言って手を伸ばした、ちょうどその時だった。
――「ヴウウウウウゥゥン……!」
地の底から響くような警報音が、施設全体に鳴り響く。緑に包まれた室内が、一瞬にして非常灯で赤く染まる。
「近辺で危険なパルスの報告が上がった。この拠点は今から現場に急行し掃滅作戦を行う。総員直ちに持ち場に移動せよ。」
少しざらついた音声が、緊張を加速させる。
混乱しつつも、夏井に連れられ夜桜はその場を離れた。
***
静かな部屋に、機械の作動音だけが響いていた。
凊佐は無言で立ち、腕を横に伸ばしている。
一人の職員が無言で脚部を固定し、もう一人が胴体を締めていく。黒く光を吸い込むような繊維が、みるみるうちに彼の身体を包んでいった。
「左、締めます」
最後に、左腕に銀色の器具のようなものが嵌められる。そこから光のラインが走り、凊佐の瞳がわずかに収縮した。
老研究員は目を細めて見つめながら、短く言う。
「あとは頼んだぞ」
凊佐は何も答えず、ただ扉の向こうへと歩き出した。
***
「対象、正面から接近中。距離――30メートル」
オペレーターの声がインカムに響く。施設外の地表に、表面は艶のない灰黒色の球体が浮いていた。
音もなく、重力に逆らうようにゆっくりと進んでくる。
夜桜は息をひそめ、観測モニター越しにその姿を見つめていた。
「……あれが、パルス?」
初めて目にする異形の敵に、思わず声が漏れる。
凊佐は何も言わない。前線に一人立ち、黒い簡素な戦闘服に身を包んでいた。
球体がわずかに震えた。
見えない何かが弾けるように、外殻から黒い帯状の構造体が伸びる。
足にも似たその構造は、時折ノイズのように「コマを飛び」する不気味な動きを見せる。
ガラスをこするような不快な音が空気を裂き、凊佐の目の前にそれが迫った。
「来るぞッ!」
モニタ越しに叫ぶ研究員の声と同時に、凊佐の体が動く。
反射のように、一歩進む。
それは逃げでも防御でもない。
右手の打撃が、帯の一つを正確に切断。
回すように左足を蹴り上げ、次の一本をなぎ払った。
切断された帯は地面に落ちるかと思えば、空中でふわりと再構築される。
それを無視するように、凊佐は球体の中心へ一直線に踏み込んだ。
右手で数発叩き込み、構造が崩れた瞬間、左腕をそのままコアへ突き刺す。
閃光。
凊佐の腕の表面に、無数の回路図のような光が走る。
「侵入信号確認。ハッキング開始」
数秒間、何も動かない。
両者の間に奇妙な沈黙だけが流れる。
――カチ
乾いた音がして、球体にヒビが走った。
次の瞬間、全体が崩れ落ちるように解体されていく。
パルスは「死んだ」。
凊佐は腕を引き抜き、一言も発さず、その場を見守っている。
画面越しの室内に、小さな拍手が起きた。
「……制圧完了。さすが。」
夜桜は言葉を失っていた。
あれと真正面から向き合い、動じることもなく処理した彼の姿が、人間のそれとはまるで違って見えた。