#5 新天地
柔らかく振動する床。壁には収納された計器類と薄い照明。移動用ユニット車の個室で、夜桜は一人、窓の外を見つめていた。
……生活のすべてが、この空間で完結する。外界との境目が、どんどん薄れていくような感覚だった。
そしてこれから、自分はこの空間ごと、戦地へ赴くのだ。
夜桜は窓の外を眺めながら、黒瀬との会話を思い出していた。
***
『表向きは調査員の見習いとして現場に入ってもらう。だが、期待しているのは別のことだ。』
直前の穏やかさとはうってかわり、向かい合う黒瀬の表情は、どこか影を帯びている。
『パルスは、人に敵意を示す。生物でも兵器でもない、未分類の脅威だ。我々の技術では、あれは破壊も抑制もできない。』
『だが、ただ一人だけ、例外がいる。――それが凊佐だ。』
『もっとも、彼には別の問題があるが。』
夜桜は、静かに息を呑んだ。
『君が彼と話しているのを見た時は驚いたよ。言葉を交わしたどころか、表情が緩んだようにも見えた。それがどれだけ特別なことか。』
『君には、ただ彼の話し相手になってほしい。もしモールの一件がただの偶然だったとしても構わない。君という可能性に賭けてみたいんだ。』
少し嬉しそうにも思える黒瀬の言葉だが、どこか歪みがあった。
なぜ彼が特別なのか。なぜ「話し相手」が必要なのか。
明かされていない事情があるのは明白だった。
けれど、それ以上を問うことは許されない空気が漂っていた。
「自分の目で見て、感じて、判断しろ」という無言の圧が、会話の節々から伝わってくる。
それでも――あの時見た、彼の微かな笑顔が、自分を呼んでいるような気がして、夜桜は、引き返すことなんてできなかった。
***
「拠点本体との接続準備が完了しました。只今より接続を開始します。」
無機質な合成音声が、到着を知らせる。これは、ただの“任務”じゃない。これはきっと――自分の“覚悟”が試される場所なのだ。
だから負けるわけにはいかない。
この扉の向こうに、答えがある。
「行こう」小さくつぶやいた声が、自分自身への宣誓のように響いた。
ユニット車が拠点に接続される。重い機構音のあと、扉が横にスライドし、夜桜の足元にひやりとした空気が流れ込んできた。
中に足を踏み入れた瞬間、その空間の異質さに息を飲む。
空調の無機質な機械音。鉄と薬品の匂い。整然としすぎた室内。
しかしそこには確かに「誰か」がいた。
奥のほうで、白い髪がゆっくりと動く。
凊佐が、無言でこちらを見ていた。
――目が合う。
だが彼は何も言わない。微動だにせず、ただこちらを見つめている。
冷たい水底を見下ろすような、凍てついた眼差し。
その視線にはまるで感情がない。
夜桜の足が、すっと冷えていく。
だが、立ち止まってはいられなかった。
「久しぶり……?」
夜桜が恐る恐る声をかける。反応はない。
まるで何も起きていないかのように、凊佐はゆっくりと、背後の端末に向き直った。
数秒の沈黙。
「新しく調査員見習いとして――」
続けようとしたその瞬間、
「バツン」
びくりと肩が跳ねる。暗闇。
夜桜は咄嗟に口を閉じた。
照明を落とされたことの意味が、時間を置いて飲み込めてくる。
それは、まるで虫見るような、容赦のない拒絶だった。
音のない室内に、自分の呼吸だけが響く。目が暗闇に慣れてくると、凊佐の姿がぼんやりと浮かんだ。
凊佐の瞳に何かが覗くかもと期待したが、顔も、感情も、動かさない――そこにあるのはただ、明確な“排除”の意思だけ。
掌に汗がじっとりにじむ。
夜桜は、生きた心地がしなかった。