#40 決着の日-3
震えた唇から、かすかに声が漏れてくる。
「……僕は、どうしたらいい?」
大毅は、兄の揺れる声を聞いてからしばらく動けなかった。
胸の奥がきゅっと痛くなる。
それでも、刺激しないように、まるで野生の小さな動物に触れるように、そっと一歩、また一歩と近づいた。
「兄貴…」
呼びかける声も、落とした。
ユウキの肩がぴくりと揺れる。逃げ出す寸前のように見えた。
大毅はそれ以上近寄らず、ゆっくり手を広げるだけにした。
「大丈夫。怒ってない。信じてついてきてほしい」
ユウキは視線を彷徨わせて、ためらいながら大毅の胸元に近づく。
触れる寸前で、びくっと止まる。
「どこにいくの…?」
低く、小さな声。大毅は胸が痛くなって、一歩近づいて手を伸ばす。
「一緒に来て。俺がいるから」
兄は、ぎゅっと大毅の袖を掴んだ。その仕草は、急に兄がか弱い子供になったようで切ない。 ユウキは袖をつかんだまま、俯いた視線をそっと上げた。泣きそうなのに、どこか無理に笑っている。その笑みは希望ではなく、諦めの上に乗った切なさだった。
「……大毅は優しいから、こんな兄でも会いに来てくれるんだろうね。」
声はすごく穏やかで、それが逆に痛い。
「でも……怖いよ。僕、捕まるんだよね……?」
兄の声が、信じられないほど弱かった。
その肩がわずかに震え、呼吸が浅くなっているのが分かる。
そして、ふっと微笑んだ。その笑顔は壊れそうに弱くて、どこまでも優しい。
「ねぇ、大毅。」
「いっそ……二人きりでどこか遠くに逃げない?」
胸が潰れそうになる。それでも——
言わなければならなかった。
「逃げないよ。」
大毅の声は震えていなかった。けれど、胸の奥では何かが軋んだ。
「逃げたら……兄貴が苦しむだけだ。俺は兄貴に、もっと広い世界を見せたい」
ユウキの指が、掴んだ袖から力を失っていく。
しょんぼりと、まるで自分の希望が小さく潰れたのを悟った子どものように。
「……そっか。そう、だよね……」
消え入りそうな声。それでも大毅は続けた。
「兄貴、俺家を出て価値観が変わったんだ」
「外の世界って新しいことだらけで、大変なこともあるけど、自由でさ。色んな人もいて……仲間もできた」
ユウキの瞳がわずかに動いた。それは、恐怖でも絶望でもない——ほんの一瞬、考えるような間があった。 それに気づいて、そっと笑ってみせる。
「兄貴にもいつか紹介するよ。優しくて、頼りになる人たちで——」
そこまで言った瞬間だった。 ユウキの表情が、音を立てて崩れた。
「仲間?」
色を失った声。視線が宙をさまよい、呼吸が乱れ、喉がひゅっと詰まる。
「大毅は……大毅は、僕じゃなくていいんだ……!」
胸を刺すような、絶望の声だった。 大毅は息を呑む。ユウキは笑おうとして笑えず、弱々しく首を振った。
「だって、そうだよね。外には大毅を助けてくれる人がいて……」
「……邪魔だよね、僕。」
声が沈む。
それは、誰に向けたものでもなく、長い長い孤独の果てに、ようやく出てきた本音だった。
兄が胸元を押さえ、苦しげに息を吸い込む。
大毅の背中に、寒気が走る。
「そんなわけない!」
大毅は迷わず兄に飛びついた。
胸が痛くて、息が苦しくて、それでも言葉より先に抱きしめるしかなかった。
が、 次の瞬間、反射的に兄の腕が動き、強い力で大毅を払う。
「──っ!」
大毅の背中が瓦礫にぶつかり、乾いた音が路地に響いた。
ユウキはその音を聞いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
振り払われた大毅を見て、それから自分の手を見つめた。
泥と血と、ひび割れた皮膚。人を傷つけた力。さっきまで暴走していた名残。
兄の口元がゆっくりと歪み、笑みの形になる。けれど、それは笑っているとは言えない。
「……僕はもう、戻れないみたいだ。」
兄の声は、泣き声のようで、叫びのようで、声をかける勇気も湧かないほど冷たかった。
避難のために置き去りになった倒壊しかけの建物。さっきまで自分が暴れた場所。
そして最後に、大毅にしっかり目を合わせて微笑む。
「だったら……全部、壊せばいいね!」
「何言って──」
兄が激しく胸ぐらを掴んでくる。
怒りなのか、恐怖なのか、後悔なのか――本人にも分からない。
「ずっと前から、僕はこうだったんだ。」
兄の目は大毅を見つめているのに、焦点はどこにも合っていない。
まるで昔の景色に引き戻されているようだった。
「覚えてないかもしれないけど、大毅。昔幼いお前の面倒を見るのが嫌になっちゃって」
ぎゅっと掴む力が強まる。
「『すぐ戻るから、ここで待っててね』って言って、お前を置き去りにした。誰かが助けるか、もしかしたら……そのまま、いなくなっちゃってもいいって。あの時の僕は、本当に最低だった」
兄は笑おうとしたが、その表情は歪み、苦痛とも嘲笑ともつかない。
「でもさ、夕方になって思い出したんだよ。置いてきちゃったって。慌てて戻ったらさ……まだそこにいたんだ。」
大毅の肩を掴む手が、震えたまま指先だけ無理に力を込めている。
「こっち見て、嬉しそうに駆け寄ってきて。抱き上げたら、やっと泣くんだよ。『もう戻ってこないと思っちゃった。ユウ兄が嘘つくわけないのに。』って……僕に言うんだよ?」 その時の光景が、兄の脳裏に蘇っている。
「お前が僕を信じてたって事実が……嬉しすぎた。胸が苦しくなるくらいに」 自嘲気味の笑みが、今にも泣き出しそうな顔に変わる。
「それからだよ。迷子になったお前を助けると、ヒーローみたいに感謝されるのが嬉しくて!次に迷子になりそうだった時、わざと少し放っておいて……ここぞという時に助けて、感謝されるのを待つようになった」
兄はただ、もう言い訳の余地もないところまで自分を自分で追い詰めようとしているようだ。
「父さんが僕にトレーニングを課し始めた時も……大毅と一緒がいいって言ったのは僕なんだ。大毅のピンチを、もっと作れると思った。救えばまた、あの時みたいに僕を見てくれると思ったんだ…!」
大毅は言葉を失う。兄は続ける。止まらない。
「大毅の分の訓練を肩代わりしたのも、壊れそうな僕を見て、お前が泣きそうな顔をして『ああ、僕は大事にされてる』って……それを確かめたかった。確かめるために、何度も何度も……」
兄の声がついに割れた。
「僕は……最低の人間なんだよ。」
兄の表情から悲しみも怒りも抜け落ちる。まるでスイッチがバツンと切り替わったよう。
大毅は構える暇もなく殴り飛ばされた。
重すぎる力。
そこにあったのは暴走のような荒々しさとは正反対の、理性的な殺意だった。
また拳が振り下ろされる── その時だった。
瓦礫の影から、仲間たちの気配が一気に近づく。夜桜のドローンが警告音を鳴らし、大毅の名を呼ぶ声が複数重なる。 兄が一瞬だけそちらへ視線を向けた。 その隙を見逃さず、次の瞬間には、セイサが兄の至近距離に入る。
躊躇など一切なかった。
兄の右手に向けて、セイサは迷いなく引き金を引いた。 乾いた銃声が、閉ざされた建物の中に響く。 兄の手が弾かれ、血が散る。
「……ここでは邪魔が入る」
兄の声は低く、落ち着ききっていて、感情の温度がまるでなかった。
セイサが銃を構え直すのと同時に、兄はもう動いていた。 大毅の腕を強引に掴み——いや、引きちぎるような勢いで抱え上げた。
「待って、話を——」
大毅が必死にもがく。だが兄の腕は鉄柱のように固く、大毅の抵抗など意味を成さなかった。 大毅を小脇に抱えたまま、兄は壊れた階段の縁へ向かう。崩落していて通れない、上層階への道。 セイサが即座に追おうと踏み出す。 続いて夜桜のドローンが警告音を高め、進路をブロックしようと動く。だが、兄は無造作に瓦礫を蹴り上げ、金属片が弾丸のように飛んでドローンの動きを阻害した。
兄は振り向きもせず言った。
「……あぁ、そうか」
喉の奥で笑いが漏れた。乾いて、ひび割れて、今にも崩れそうな音。
「君たちが……『仲間』?」
続けて、落ちた階段を飛び越えながら叫ぶ。
「大毅は、僕だけものだったんだ。」
大毅をあやすように抱えながら言う。
「大毅は、僕だけが守るんだ。僕がいないと、生きていけないように育てたんだ。そのためにずっと……ずっと……」
セイサが冷静な声で切り捨てる。 強い、短い、揺るがない声。
「……大毅は、所有物じゃない」
だが兄はセイサの声など聞こえていないかのようだった。
「ごめんね、大毅。……君を壊す舞台は、もっと静かなところがいいんだ。」
足元の瓦礫が砕け散る鋭い音とともに、兄は崩落したコンクリート片をわざと深く踏み込み、跳躍した。
抱えられた大毅の視界が大きく揺れる。
セイサが追いすがるたびに、兄は踏んだ岩片の角度を計算するようにして、次々と足場を壊していった。
わずかな差が、少し開き、手の届かない距離に、やがて致命的な距離に変わった。
「やめて! そんなことしたら――!」
大毅の叫びは揺れる空気に呑まれ、兄は聞こえていないように、いや聞こえても、上り続けた。
弟だけを抱えて進み、
弟を追う者たちが二度と追いつけないように。
「セイサ! 足場が――!」
夜桜のドローンが警告を飛ばす。
「……っ!」
もうセイサの足元へ伸びる安全なルートはほとんど残っていない。
瓦礫が崩れる振動と共に、二人の姿は暗い上階に飲み込まれていくのをただ見ていることしかできなかった。




