#39 決着の日-2
「……折れるな」
兄の喉から漏れたのは、感情のない、擦り切れた命令だった。
息が上がるたび、崩れかけるたび、骨の奥に沈んだ声が勝手に口をついて出る。
まとわりついた網が、一筋、また一筋と張りを失っていく。
「止まるな。抵抗をやめるな」
父に叩き込まれた文句が、順番も残酷さもそのまま、
壊れた機械のように押し出されていく。
兄の中で腐ったまま残り続けていた「呪文」が、肉体を突き動かしていた。
そして最後の繊維が切れたとき、破片は風に乗り、白い紙片のように散っていった。
兄の視線がふっと大毅から外れる。
焼けつくような鋭い眼光が、周囲を取り囲む武装隊員たち一人一人を、獲物を測るように、ゆっくりとなぞった。
兄を襲ってきた痛みの記憶が、今は暴力の衝動として膨れ上がっていく。
風が巻き、砂がざらりと鳴り、誰もが悟った。
──標的が変わった、と。
最初は、息を詰めたような細い音。
それがじわじわと形を変え、言葉でも、叫びでもない、獣じみた咆哮へと変わっていく。
兄の身体が、爆ぜるように動きだした。
大地を蹴る音は、雷鳴のように響く。迷いも躊躇いもない。
ただ目の前の壁——武装した人々の列——へ一直線に駆けていた。
衝撃波が路面をえぐり、小石が跳ねてジャラリと散る。背後からは、抑えた銃声が連続して響く。金属音、怒号、土の爆ぜる音が宙で混ざり、現場の輪郭が揺らぐ。
周囲にいた市民の一団が、一斉に悲鳴を上げた。誘導に従って列を作っていた人々は、一目散に走り出し、混乱は渦となって影を乱した。
そこに——
「ぎゃあああああ!」
という泣き声が割り込んだ。
遠い、数百メートル先の声なのに、兄は真横で悲鳴が上がったかのように飛び上がる。
急に騒ぎ出した大人たちに驚いて、小さな子どもが泣き叫びながら走っている。
数秒後、砂利に膝を打って転んでしまった。
地面にぬいぐるみが転がる。
母親が振り返るよりも早く、兄の注意が、完全にそちらへ向いた。
武装隊員はもう視界の外。叫び声の一点だけに、視界が絞られていた。
兄はシールドを構えた武装隊員の列をただ「飛び越えた」。
壁のように立ちはだかっていたはずの重装備の人影も、まるで存在しないかのようにだった。
まもなく逃げ惑う人々のど真ん中に降り立つ。
人の波は、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
だが、転んだ子どもだけがそこに取り残されたままだった。
大毅は遠くで息を飲み、ほんの一瞬、世界が無音になる。
危ない、逃げろ——
叫ぶ間もなく、兄が子どもへ向かって飛び込んだ。小さな体を抱き上げた瞬間、空気が張りつめる。
周囲の人々が、反射的に身構えた。
足を踏み出そうとする人、固まる人、息を呑んだまま動けなくなる人。
武装隊員は兄の鼻先を狙うように銃を構え、引き金にかけた指が震えている。
兄が泣き声の方へ向かった理由も、その腕の中の子どもをどう扱うつもりなのかも、誰一人わからなかった。
しかし、兄の動きは意外なほど静かで柔らかかった。
抱き上げられた子どもは、恐怖より戸惑いのほうが勝っているのか、泣き声を止め、兄の胸をぎゅっとつかむ。兄の腕に収まった小さな体を支える手は、ぎこちないのに確かな優しさがあった。
緊張がすこし緩むと、
「返して!お願い、返して!」
背後から、母親と思われる女性の叫びが響く。
その声で、また空気が硬直する。隊員たちは兄を刺激しないよう、女性を引き止めようとした。
だが兄は動じない。子どもをあやすように、そっと揺らす。
まるでその場の騒ぎとは関係なく、目の前の小さな命だけを気にかけているようだった。
やがて、母親の泣き声が兄の耳に届いたのか、兄はゆっくりと顔を上げ、その方向を見た。
そのまま、ためらうように、一歩を踏み出す。子どもを抱いたまま、ゆっくり、確かめるように母親へ歩み寄る。
母親は恐怖で足が震え、逃げ出したい気持ちを必死に抑えてそこに立っていた。それでも、両腕を差し出す。
やがて兄の腕が緩む。子どもは母親の胸へ戻り、小さな手が強く背中にしがみつく。
母親は泣きながら子どもを抱きしめ、守るように後ずさった。
荒れ果てた街に静寂が戻った。
兄は腕を下ろし、ゆっくりと周囲を見回す。
焼け焦げた看板。傾いた電柱。倒れた商店の屋根。逃げ惑い、影のように遠ざかっていく人々。
そのすべてが、自分の行動の結果だと気づいた瞬間——兄の肩が、はっきりと震えた。
「僕が……」
かすれた喉から漏れたその声は、ひび割れた石の摩擦のようだった。兄は一歩、後ずさる。視線を彷徨わせ、呼吸が乱れ、胸元を握る指先が小刻みに震える。
そして——逃げた。
振り返るや否や、ほとんど反射で駆け出した。足元の瓦礫を蹴り、崩れかけた路地を縫うように走る。
大毅も遅れてその背を追う。
荒い呼吸が喉を焼く。兄の足跡だけが細長い影となって夕暮れの破片を引きずっている。
角を曲がった先の狭い路地。そこで兄は急に歩幅を失い、膝を取られたように崩れ落ちていた。
両肩が上下に震え、額は地面すれすれに垂れている。
大毅が近づくより先に、兄の手が地面を探るように伸びた。瓦礫の間に転がる、小さなガラス片。夕陽を受けて、血のような色に光っている。
兄はそれを拾い上げた。
宝石を扱うみたいに、両手で包んでうっとりと見つめる。
涙がぽたり、破片に落ちて、光を歪ませた。
そしてふっと、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべた。
大毅の心臓が、嫌な音で跳ねる。
ガラスの尖端が、ゆっくりと首筋へ。
兄は静かに祈るように目を閉じた。
「兄貴、待って!!」
大毅は全てを投げ出すように兄へ手を伸ばす。
兄は驚いたように、はっと目を見開く。
そして、声が変わった。
「……大毅?」
透き通った兄の目がこちらを確かめるように揺れる。さっきまで荒れ狂っていた声とはまるで別物。静かで、丁寧で、遠い昔に聞き慣れた、その声だった。
呼ばれただけで、膝が笑いそうになる。大毅は半泣きになりながらも、必死に頷いた。
兄の手から破片が滑り落ち、路面に澄んだ音を響かせる。
「どうして……来たの?」
「僕のこと、嫌いになって……離れたんじゃないの……?」
語尾は震えているのに、どこまでも優しい。さっきの姿が幻だったかのように、落ち着いた、控えめな言い方。
涙がこみ上げ、声がうまく出ない。
それでも無理やり笑顔をつくって、叫んだ。
「そんなわけ、ないだろ」
「嫌いになんて……なるわけないだろっ……!」
兄は戸惑い、地平の向こうに視線をさまよわせた。
煙の奥で夕暮れが滲んでいく。
自分が壊したもの。守ろうとして、失ったもの。すべてが胸の奥でぶつかり合っているようだった。
そして——兄の視線が再び大毅へ向く。
震えた唇から、かすかに声が漏れてくる。
「……僕は、どうしたらいい?」




