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空域ノ記憶  作者: 湯川 空
父の背を越えて
38/40

#38 決着の日-1

とうとう戦いの日が来た。

警察ワゴンの扉が開き、湿った空気が胸を押す。目の前に広がるのは、灰色の雲の下、放置されたバスと、ところどころで上がる黒煙——そんな光景ばかりだった。


足を踏み出した瞬間、痺れるような緊張が波打ち、決意が胸に満ちていく。昨夜は珍しくぐっすり眠れた。夢すら見なかった。コンディションは万全だ。


後ろで車両を降りる足音が続き、振り向くと凊佐(せいさ)と目が合う。お互いに小さく頷いた。

できることなら兄を傷つけたくない。元の兄が戻る望みが少しでもあるなら、全力で賭けるつもりだ。

だが今回の任務は、この街を覆う恐怖に終止符を打つこと。自分も兄を誘導する部隊の一員として、目的のためには手段を選ばない覚悟でいる。


腰に括りつけた自衛具の重みが、かすかな安心感をくれた。

目の前では警官たちが遠目にバリケードを組み、市民が誘導される声は、押し殺されたように小さい。

やがて、伸びきった髪をかき乱しながら、ゆらりと歩く兄の姿が見えた。


ガン——!


近くで何かが落ちる鋭い音が響く。バリケードの作業中に何かが落下したらしい。

同時に兄の顔が、音の方へぴくりと向いた。

数秒の静寂のあと、兄はそこへ向かって走り出す。


警察官が銃を構え終えるより早く、兄は飛びかかった。

バリケードが崩れ、破片が散らばる。近くにいた者はなんとか難を逃れたものの、兄の鋭い視線は標的を追い続けていた。


「こっちだ!」


気づけば、自然に声が出ていた。

兄の目がこちらを捕らえる。その瞳は濁り、感情は読み取れない。

あと数十メートル。兄なら一度の跳躍で届く距離に入る。


見慣れた構え。父に繰り返し教わった、あの型。

兄と手合わせした記憶が蘇る。豪快な動きは、当時は怖くて仕方なかったが、今は飛ぶ前の合図に過ぎない。

声を上げる暇もなく、容赦ない第一打が放たれる。


戦いが、始まった。

右足を半歩引くと、砂煙が壁を作る。

影がぐっと沈み込むのが見え、心臓の鼓動が空気に飲み込まれる。瞬間、兄の拳が風を切り、その衝撃で耳鳴りがした。受け止める余裕などない——咄嗟に体を横に流す。


「震えるな」


兄が突然吐き捨てるように言った。節回しが父のそれそのもので思わずぎくりとする。

隙ができた瞬間、すかさず兄の蹴りが飛んできた。後ろに転がるようにしてかわすと、兄がこちらを見下ろしている。


「立て、迷うな」


兄の言葉が機械のように瓦礫に冷たく反響する。

負けずにこちらもにっと笑い、わざとらしく声を張り上げた。


「父さんの真似か?兄貴に脅しなんて似合わねえって。……真っ向勝負が怖えのか?」


わざと軽い調子で言いながら、兄の突きをいなす。

次の蹴りを腕で受け止める。骨が軋む。

それでも言葉を途切れさせたくなかった。


「いつまで引きずってるんだよ……兄貴は兄貴だろ。......しっかりしろよ!」


兄は何も言わない。

ただ一歩、二歩と間を詰めてくる。慎重に足元を確認して、位置を調整する。


「兄貴は昔からそうだよな。言いたいことはな〜んにも言わない。洗濯も掃除も弟妹らの面倒を見るのも全部兄貴ばっかりがやっていて、『手伝うよ』って言っても、『大丈夫』と笑うだけ。勝手に壊れてんじゃねえよ...!」


拳が再び飛んでくる。受け流すが、頬に浅く血が滲んだ。

それでも口を止めるつもりはなかった。


「兄貴にも……限界はあるに決まってたのに……弱音くらい吐けよ。」


兄の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

風にかすかに揺れる炎のように脆くて、吹き消されそうな戸惑い。

砂煙が静まり、世界が一瞬だけ止まる。


「もしやり直せるなら、今度は俺が兄貴を守りたい。」


「……今だ。」無線で凊佐たちの低い声が響く。


その合図と同時に、路面の隙間からワイヤ射出の低い音がした。

光を帯びたネットが空気を裂き、兄の輪郭に絡みつく。

白い布のようにぴたりと肌に吸い付くその感触。


「よし……!」


——うまくいった。なんとか注意を引きながら、拘束用のネットが展開する位置まで兄を誘導できた。

ほんの数秒の駆け引きが報われた気がした。


「よし、確保した!」「抵抗なし、抑え込んだ!」

無線の向こうでも喜びの声が飛び交っている。


歓声に紛れて、バチッ――繊維の束が断ち切れるような乾いた音が、奥で響いた。

続いて、ひき……ひき…… と擦れたような声。

大毅は反射的に兄のほうを振り向く。


痛みでも恐怖でもない。

そこにあったのは、吊り上がったまま崩れない笑み。


その笑みを見た瞬間、

背筋を冷たいものが一気に駆け上がる。


――おかしい。

終わってなんかいない。


大毅だけが、その確信に息を呑んでいた。

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