#37 仲間の声
夜桜は朝の物音で目が覚めると、昨日の様子が気がかりで大毅と凊佐のスペースに向かった。ちょうど二人が部屋から出てくるところだ。
「おはよ!」
いつも以上に明るい大毅の挨拶に不意を突かれ、思わず肩が跳ねる。顔を見ると目が腫れぼったく、どこか全体的にくたびれている。まさに空元気とも言えるような姿が痛々しい。
その後ろで凊佐は夜桜を一瞥し、無言で頷いた。「おかしいよな」と二人で再確認し、胸がざわつく。
朝食のために食堂に向かうと、バイキング形式の簡単な料理が並んでいた。
いつもなら好きなものを次々と皿に乗せていく大毅が、今日は空の皿を手にしたまま立ち尽くしている。
戻ってきた皿には、ほんの少しの料理しか乗っていなかった。
「いただきます」
それを前に座ったまま、箸を動かす速度もやけに遅い。
夜桜は少しもどかしさを覚え、つい聞いてしまう。
「大毅、食欲ないの?」
箸を止めたまま、大毅は視線を落とし、少し間を置いてから答える。
「いや……味が……」
その言葉に夜桜は一瞬きょとんとした。
「え、味が?」
「なんか、全部変なんだよ。苦いっていうか、よく分からない……」
彼の声はかすれていて、本当に困惑しているように聞こえた。返す言葉を見つけられない。
ぎこちない沈黙のまま食事を終えると、三人は並んで食堂を後にする。
廊下を歩くあいだも、大毅はぽつりぽつりとしか言葉を発さず、靴音ばかりが響いていた。俯いて歩く背中を眺めながら、夜桜の胸のざわめきはますます強まっていく。
やがて会議室の扉が見えてきた。中からは人の気配と緊張感。重い扉を押し開けると、すでに本部のメンバーたちが席に着き、机上のスクリーンには先日の接触映像が映し出されていた。
大毅が横でどさりと椅子に座る。
「お!きたか。3人ともご苦労。大毅は昨日助けに入るのが遅くてすまなかった。体は大丈夫か?」
署長の問いかけに、大毅は小さくうなずき、短く答える。
「大丈夫です!」
それを合図に映像が動き始める。兄と揉み合う姿が大画面に映り、大毅は目を伏せたまま動かない。
「このとき何を話したのか覚えてるか?」
質問に、彼は申し訳なさそうに首を振る。
「すいません……よく覚えていなくて」
それを聞いて部屋の空気が一度固まったが、沈黙を合図に、すぐに賞賛や労いの言葉が飛び交う。
「いや、おかげで色々収穫があった。だから、前向きに考えよう」
誰かがそう励ます声も彼に届いていないのかもしれない。ただ目の前の映像を食い入るように見つめながら唇を噛んでいた。
会議は淡々と続き、署長は次の接触――二日後に一度で決着をつける計画を口にした。
昨日とは違い、後に引けないと言う意識が会議室にピリリとした緊張感を生む。
大毅が何か反応するかと思って横を見たが、虚ろな目で前を見ているだけで、話を理解できているのかも怪しい様子だった。
やっとのことで終了の合図が出ると、大毅はさっと立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。
それに続いて凊佐が出ていくのを見て、急いで追いかける。
大毅の足取りは少し早く、それでいてふらついているようでもある。追いかけるうちに、倉庫の外へ出た。夕暮れの空が赤く染まり、影を長く落とす廃材の山へと進んでいく。
大毅は山の上に腰掛けると、背中を丸め低く何かを呟いていた。
風が運ぶ言葉にはまるで意味がなく、ただ苦しさだけが滲む。
夜桜はそっと近づき、息を詰めながら声をかけた。
「ねえ、今日の大毅はどこかおかしいと思う。なんでも話していいんだよ?」
声をかけてみたが、大毅は何かを振り払うように首を激しく振り、俯くだけだった。
夜桜はそれ以上言葉を重ねられずに立ち尽くしてしまう。それを見て、凊佐が大毅の正面に出て顔が見えるように膝をついた。
「……『何があったか』だけでいい。事実を確認したい」
淡々とした声。責める調子でも慰めでもなく、ただ知りたいと言う様子だ。ただ真っ直ぐ大毅に目を合わせている。大毅は一瞬ためらった後、投げ出すようにつぶやいた。
「忘れられた。」
「え?」
思わず聞き返す。
「兄貴に、忘れられたんだ」
そう言い放った声は震え、唇も歪んでいる。
凊佐が静かに間を取り、低く声をかけた。
「……何が起きたのか順番に」
大毅が小さく俯く。
「兄貴に会ったら最初に大毅だって名乗ったんだ。でも兄貴は『偽者だ』って。」
「……それで?」
凊佐がすぐに先を促す。
大毅は視線を床に落とし、肩を小さく震わせながら続けた。
「何度俺だって言っても、ただ『大毅は二度と戻ってこない』。家族の話をしても、『なんでそんなこと知ってるんだ』って。気づいた時には首に兄貴の手があって……」
「……続けて」
凊佐が静かに言う。落ち着いているがそこには有無を言わせない強い響きがある。
「兄貴が別人みたいに見えてすごく怖くて。思わず『殺される』って考えた。兄貴を信じられなかったんだ。こんな弟だから顔も忘れられるんだよな」
そこまでで聞き終わると、夜桜は耐えきれなくなって口を挟んだ。
「今の話を聞く限りでは、お兄さんは混乱していただけじゃないかな。大毅が怖いと感じるのも当然だと思う」
凊佐は無言で次を促した。
大毅は小さく肩を震わせ、唇を噛む。
「その後、俺のこと嫌いかって、聞いたんだ」
大毅は言葉を続ける。
「否定されなかった。兄貴は俺を恨んでる」
夜桜が息を呑んだ。
「大毅……恨んでいるかどうか、今の状況だけで断定はできないよ。そもそも嫌いだとは言われてないじゃん」
凊佐はふっと小さく息をつき、目を細める。暗がりの中でも、冷静さを保ちながら、大毅の心に触れようとする。
「……自分を失った奴が衝動的にやったこと、言ったことを信じるのか?」
「でも……」
「……そもそも、なぜ兄に嫌われたくない?」
「そうだよ。確かにお兄さんは大切な人かもしれないけど、家族でも喧嘩して嫌いだって言うのは普通だよ。お兄さんに嫌われたら生きていけない……?」
大毅の声は震え、床を見つめたまま小さく続ける。
「多分、生きていけないかも……兄貴に嫌われたら」
凊佐はふっとため息をついた。
「……なら終わりだな」
大毅が頭を抱える。これには流石に声が出そうになったが、凊佐はそれを待つことなく続けた。
「……兄貴に嫌われたら生きていけない? お前の世界には兄貴とお前しかいないのか? これまでの俺らとの時間は何だったんだ?」
凊佐は肩に力を込め、両手を軽く握り締めていた。目には怒りが光る。
「……お前がどんなに兄貴を大事に思おうと構わない。でも、俺は友人を壊す奴を見逃すほど穏やかじゃない。お前にとって兄貴が全てかもしれないが、俺にとっては赤の他人だ。赤の他人に、友人を壊されてたまるか。少なくとも俺はそう思ってる」
凊佐の言葉が途切れると、部屋には一瞬、重く息が詰まったような沈黙が落ちた。
初めて聞く言葉の量と熱に、夜桜はただ唖然としていた。大毅は肩を揺らし、視線を床に落としたまま、まだ心の奥で言葉を反芻しているようだ。
三人の間には、言葉以上の、熱く重い感情の余韻が残った。
やがて、互いに何も言わず、黙って解散することになった。
***
大毅は夕食の頃には自分の状況が冷静に見えてきて、目の前の情景にも現実感が戻ってきた。今度はしっかりとした足取りで食堂へ向かう。
普段なら凊佐の隣に座るが、気まずさが抜けず、少し離れて席に着いた。
箸を手に取り、しばらく皿を見つめてから一口。苦味や違和感はなく、確かに味がした。思わず小さく息をつき、食事に集中する。
味がするという当たり前の感覚を噛みしめるうちに、とてつもない空腹感が込み上げ、おかわりに走った。
夜の支度も滞りなく済む。鏡を覗いたときだけ一瞬ぎくりとしたが、そこにいたのは少しくたびれた自分だけだった。
布団に戻ると、今日の出来事が次々と蘇る。二人の言葉、兄の顔、自分の態度への後悔――思わず体を起こすが、それも長くは続かず、何度目かの挑戦で夢の中に落ちていた。
足元を絡めとる黒い影。
迫り来る塊に腕を振り回すと、怪物は一瞬怯んで退いた。
昨日とは違う。身体は重くない。脚は自然に前に出る。恐怖はあるが、後ずさるばかりではなかった。
怪物の腕が自分を捕まえようと振り下ろされる。
鋭く、冷たい感触が空気を切った。
身をかわし、壁に背中をつけて反撃のチャンスを探る。何かの硬い破片が手に触れていた。
また怪物が覆い被さってくる。
思わず手の中の何かを握りしめ、迫る影に振り下ろす。
怪物は奇妙な声を上げ、しなやかに形を変えようとする。
急に兄の顔や声が浮かび上がったかと思うと、「お前さえいなければ……!」と叫ぶ。
しかし、もう手は止まらない。
ついに何かを突き刺す感触が手に伝わった。
怪物は一瞬震え、光を放ちながら崩れ落ちた。
周囲が静まり返ると、倒れているのは怪物ではなく、兄の姿だった。ただ虚ろに横たわっている。
大毅は膝をつき、そっと兄の顔を見下ろした。声は出ない。ただ、胸の奥に冷たい悲しみだけが残った。怒りも後悔もなく、ただ静かに涙が頬を伝う。
夢の世界はゆっくりと薄れ、現実のベッドに戻っていた。手足の感覚と心臓の鼓動ははっきりと残る。すぐに建具の隙間から光が漏れているのに気づいた。朝だ。
悲しみの中でも、無力ではなかったという、静かな誇りと安堵が体を満たしていた。
起き上がると重たかった体も頭も、不思議と澄み渡っている。顔を洗い、衣服を整えると、食堂に向かう。
凊佐と夜桜がいる。二人が顔を上げると、自然に口が開いた。
「おはよー」
なぜかそれを聞くと、二人は嬉しそうに顔を見合わせる。
食事を終えると、椅子から立ち上がった。
「ちょっと行くところがある」
自然とそこには穏やかな熱がこもっていた。
凊佐と夜桜はじっと見つめてきたが、最後には何も聞かずに見送ってくれる。
振り返らずに歩き出す。
――作戦の朝が近づいていた。