#36 呑まれる
戦いが終わり、気づいたときにはもう拠点の駐車場にいた。
「……降りられるか?」
凊佐が肩を支えてくれる。足が地面に着く感覚はあるのに、身体が自分のものではないように重い。
すぐに救護班が駆け寄ってきた。
「痛いところはある?」
「はい」
「どこが?」
「え?あれ……いや、大丈夫です」
冗談っぽく笑ってみせたが、相手の顔は曇ったままだった。頭を打ったかと確認され何か返すが、もはや自分でも何を答えているのかよく分からない。仲間に促されるまま、考えず通路を進む。
笑い声、歓声、何かの報告。拠点の食堂に入るとざわめきに呑まれた。列に並んで食事を受け取る。湯気の立ち上る温かいご飯、煮込んだ肉――ふとスープの表面を見ると、揺れる水面に映った顔が兄のように見えた。
不意に兄の声が甦る。
『偽物だ』
『そんなわけない』
視線を落としても、テーブルの木目の模様が刃物のように見え、兄の手が伸びてくる気がする。瞬きをすれば消えるが、瞼を開くたびにまた形を変えて現れる。あの目、あの力強さ。笑ってくれたはずの兄が、今は牙をむき、自分を否定している。
考えるな、と思っても、気づけばそこに戻ってしまう。気づけば食事をする手が止まっていた。
隣にやってきた夜桜が心配そうにこちらを覗き込む。それに気づき、急いで表情を組み立て直す。
「なんでもないよ」
ぎこちなく顔を上げ、急いでご飯をかき込む。だがすぐに煮込み肉を口に含んだまま固まる。香りは漂うのに味はほとんど分からない。無理やり噛んでも、歯ごたえだけが意識に届き、舌は無感覚のまま。
「……うっ」
普段なら絶対に残さないはずの皿の料理をそのままにして椅子から立ち上がる。視界が揺れ、頭がぼんやりと熱を帯びる。周りのざわめきや笑い声が遠く、胸の奥の恐怖だけが鮮明に残った。
夜桜の声が背後でかすかに響く。
「大毅……?」
無理に顔を上げ、笑おうとするが、唇が震えるだけで声にならない。思わず体が前に傾き、咳き込みそうになる。耐えきれず、逃げるように食堂を駆け出した。
温かい匂い、湯気、笑い声――すべてが遠ざかり、代わりにどこか別の場所に変わっている。
雨がしとしとと降り続く狭い路地。両脇に建ち並ぶ古びた建物の壁から水がぽたりぽたりと落ち、濡れた石畳に小さな水たまりができている。窓ガラスは割れ、壊れた扉が風に揺れる音が微かに響いた。
目の前では異様に大きな影が這いずるように迫る。人の倍以上の高さを持つそれは、四肢がねじれ、床や壁に張り付くように形を変えながら伸びている。
兄の下半身はすでに、その真っ黒な何かに飲み込まれていた。上半身だけを必死に持ち上げ、濡れた石畳に指先を押し付け、かろうじて地面を掴んで逃れようともがく。
その顔は絶望に満ち、震えていた。弱音も吐かない兄の、初めて見る泣き顔。こちらに伸ばされた手を見ると、地面を引っ掻いた指先がボロボロになっている。
「助けて……!」
手を伸ばしたい──助けたい──のに、体は恐怖に支配され、ただ後ずさるしかできない。胸の奥で何かが押し潰されるように痛む。声を出そうとするが、喉が塞がったように言葉が出ない。雨粒が兄の髪や顔にまとわりつき、光を乱反射させるたび、影がひどく揺らぎ、悲鳴が雨音にかき消されていく。
「いやだ、兄貴…」
声にならない声を吐きながら、体は後ずさる。足が壁にぶつかる衝撃すら、止める力にはならない。兄の上半身が引きずられ、泣き顔が苦痛に歪み、ふと怒りに変わる。次の瞬間、完全に黒に呑まれてしまった。
静寂。石畳に残るのは細かい水しぶきと濡れた爪痕だけ。影はゆっくりと大毅の方を向き、黒い塊のままうねり、膨れ、やがて兄の顔のように変形する。目が、口が、まるで兄のもののようにこちらを見下ろす。嘲るような笑みに、心臓が凍りついた。
「お前のせいだぞ」
冷たい声が耳を突き、体が硬直する。足元から黒い影が膨れ上がり、自分の脚に絡みつく。必死に引きはがそうとするが、体は壁に押し付けられ、逃げ場がない。息が詰まり、胸が裂けそうに苦しい――
宿泊スペースの高い天井が目に入る。まだ夢の感覚が体に残り、胸の奥の痛みと冷や汗が止まらない。びくびくと震える体を抱え、慌てて手を握ると、中に温かいものがあった。凊佐の手だ。
「……うなされてた」
小さく呟く凊佐の声が、遠くに聞こえる。「ごめん」とだけ答え、背を向けるように寝返りを打った。変な汗が引かず、呼吸も荒い。
いつの間に寝ていたのだろう。自分のものより少し大きい寝巻きを着ている。誰かが準備してくれたのだろうか。横を見ると、軽食が置かれていた。ちょっとしたスナック菓子、小さなチーズ、夜桜の丸い文字……。だが手を伸ばす気になれない。
凊佐も夜桜も、まだ自分を気にかけてくれているのに。全員に嫌われようとしているような自分を、頭の片隅で冷たく嘲笑う。
夏の夜だというのに、布団をぎゅっとかぶり、耳まで塞いだ。目を閉じると黒い影は浮かび、兄の泣き顔が頭に残る。寝ればまた夢を見てしまいそうで、目を開けたまま、陽が登るまでただ時間を数えていた。