#35 二度と戻らない
薄明かりが差し込む倉庫内は静まり返っていた。もう眠れそうにないので、大毅はそろりと寝袋から這い出した。兄の温もり、優しい言葉。夢の感覚を思い出しながら、マットの上で静かにストレッチを始める。
今日、大好きな兄に会える、そう思うだけで胸が高鳴る。たとえ兄がどんな状態だとしても、自分ならきっと届く。そんな根拠のない自信が、なぜか揺るがず心にあった。
「……やる気だな」
ちょうど5時になった頃、隣で凊佐が起き上がり軽く声をかける。
「うん。いい夢見たんだー」
笑みを浮かべ、軽く拳を握る。夢の中の兄が、体の奥にじんわりと力を与えてくれる。
今度は俺が助ける番だ。
その言葉を自分に言い聞かせたとき、遠くで準備する足音が聞こえた。
少し経つと、薄暗い倉庫内に小さなざわめきが広がる。会議の席に自然と人が集まり始めたのを見計らい、簡単な朝食が用意された。
隊員たちはサンドウィッチやカップのスープを片手に、座ったまま最終確認を始める。
大毅もサンドウィッチをかじりながら、タブレットや作戦図に目を走らせた。
兄のところまで無事に行けますように。
心の中でそう祈りつつ、同時に自分がどう行動するかを冷静にイメージする。
ふと視線を下ろすと夜桜が、いつも使っている小型ドローンをバッグから取り出しているのが見えた。
作戦用の装備箱が回され、簡単な護身用の武器が一人ひとりに配られる。
自分も手を伸ばし、中の一つを軽く握った。
冷たい金属の感触が手に伝わると同時に、これを持っていくという意識が胸に違和感を生む。
少し躊躇した後、こっそり蓋に隠すように箱に戻してしまった。
隣に箱を回すと、凊佐がじっとこちらを見つめていることに気づき、指摘されるのではと思わず身構えたが、ただ静かに視線を送ってきただけだった。
最後に小さなイヤホン型の通信機が手渡される。
「これで指示を流す。状況に応じて連絡が飛ぶから、よく聞いておけ」
装着すると、いよいよ始まるのだと実感が湧いてきた。
車のエンジン音が低く響く中、後ろに座った凊佐が背中越しに声をかけてくる。
「……困ったら言え。助ける」
こくんと頷く。緊張で上がっていた肩が、少しだけ落ちる。
緊張感に満ちた車内では、みんなが口を結んでいる。
静かな緊張を保ったまま、兄がいるとされる場所の数百メートル手前で車は停車した。
前方では警察官が簡単に隊員たちを集め、配置を確認している。
「あくまで我々が優先するのは、住民と街の保護だ。危険を感じることがあれば出直す。くれぐれも無茶な真似はするな」
山本署長は大毅をまっすぐ見つめ、声をかけた。
指示が出そうろうと隊列は慎重に分かれ、支援部隊が大毅の行動をカバーする体制を整える。
隊列の先頭に立ち、歩を進める。
周辺にはまだ混乱の余波が残り、住民はどこかに避難しているようで人の影はなかった。視線は自然と前方に定まる。
隊列が現場に接近すると、最初に到着した「地上監視チーム」から無線が入る。
「前方200m、建物の一部破損確認。対象はまだ確認できず、住民は避難済み」
「了解。安全優先で慎重に進め」
視界に入る荒れた街並み。目の前に兄がいる。期待と緊張が入り混じり、体にじんわりと力がみなぎる。
「こちら、先行索敵班――パン屋の裏手、地上部隊の前方100mほど先に対象を確認しました」
インカムにピリリとした声が流れた。
兄が視界に入った瞬間、大毅は思わず立ち止まった。長い髪で目は隠れ、表情は読み取れない。だが、その体の緊張、構えた左足、わずかに揺れる肩。全てが、こちらを警戒していることを示していた。
大毅だけが部隊から離れ、前に出る。後ろでは、万が一に備えて皆が警戒を高めていた。
「兄貴!」
声を張った瞬間、期待と不安が一気に押し寄せ、手のひらが汗で濡れていく。髪で目は隠れていても、鋭い視線がこちらを探っているのがわかる。
「大毅だよ!」
拳を握り、体全体で必死に自分だと訴える。声は震え、体も小さく揺れる。
きっと不安なんだろう、そう思って最大限敵意がないことを示そうと、一歩前に出て両手を開き、兄の前で立ち止まった。
「会いたかった…」
言葉を投げかけても、返事はない。
静寂が落ちる。兄は髪の影に表情を隠したまま微動だにせず、ただそこに立っている。かすかな期待を胸に、次の言葉を待った。だが答えは嬉しいものとは言い難かった。
兄は突如頭を抱えてかきむしり、叫ぶ。
「そんなはずない……来るな!」
言葉が空気を切り裂き、大毅は文字通り息を飲み、膝がふらつく。どう声をかけていいか分からず、立ちすくむ。兄はばっと顔を上げ、低く冷たく告げた。
「あいつは二度と戻ってこない。お前は偽物だ。嘘をついて何がしたい?」
勢いのまま、兄の手が胸ぐらを掴む。
まだ話したい気持ちが勝り、無抵抗のまま腕の圧力を受け止めた。
重力が足元から抜け、身体が軽く浮く。
圧倒的な安定感――鍛え上げられた体格の凄まじさに、冷や汗が背を伝わる。
怖い、でも…やっぱり兄はすごい、と無意識に感心している自分に気づく。
必死に冷静さを保ち、言葉を探した。
「覚えてる? 夜中に弓太が泣き出して、母さんも一緒に泣いてて。俺は布団の中でどうしたらいいかわからなくて、ただ黙って見てるしかなかった。そしたら兄貴が起きてきて、『あとは僕がやるから、母さんは休んで』って母さんの肩に手を置いて、静かにそう言ってさ。
兄からの返事はない。ただ、掴む手の指がわずかに食い込み、布地がきしむ音がする。
「気づけば、兄貴はいつもそうやって家族を気遣ってた。疲れ切った母さんの代わりに弟を抱いたり、家事を淡々とこなしたり。俺は対して力になれなかったけど、そのたびに思ったんだ。兄貴って、本当にすごいって。俺がどれだけ憧れてたか、兄貴は知らないだろうけどさ」
言葉を紡ぎきる前に、兄の腕が大きく動いた。
次の瞬間、体が宙を弾かれ、背中から床へ叩きつけられる。
背骨が軋み、視界が一瞬白くはじけた。肺の空気が一気に押し出される。
反射的に息を吸おうとしても、しばらく声にならない。
「っ……!」
兄の手が肩口を容赦なく押さえ込む。片膝を床に突き、覆いかぶさるようにのしかかる体勢。逃げ場は完全に塞がれた。
顔のすぐ上、髪の隙間から覗く兄の目。熱と狂気がないまぜになった光に射抜かれ、背筋が凍るそれでも、初めて兄と真正面から目を合わせられたことに、胸が震えた。
「なんでそんなこと知ってる!?」
押さえつけられ、呼吸すら苦しい。必死に言葉を探すが、兄の叫びがそれを遮った。
「誰かに聞いたのか!? いや……まさか、僕の家族に何かしたのか!!」
次の瞬間、拳が振り下ろされた。
轟音と共に、顔のすぐ横のアスファルトが砕ける。砕け散った破片が頬をかすめ、細かなチリが宙を舞った。
一瞬遅れて、震動が背にまで響く。
「違う。そんなこと、するわけない! 俺はただ、兄貴に――」
言葉が途切れる。胸の奥が凍りつき、どう続けていいのか分からない。確かに自分しか知らないはずの記憶だ。それなのに、どう説明しても「知らないはずだ」と言われてしまう。反論の余地を探すほどに、声が出なくなっていった。
兄の手に力がこもる。視線は鋭さを増し、低く唸るように囁いた。
「……やっぱり、お前は偽物だ」
苦しい。気づくと、兄の手が首にかかっていた。締めつけられ、喉がひゅうっと狭まり、呼吸が途切れる。視界の端がにじみ、鼓動の音だけが耳の奥で大きく鳴り響いた。
確かにそこに感覚はある。皮膚に食い込む指の圧力も、血が止められそうな痛みも。だが、どうしても信じられなかった。
兄の手が、俺を殺そうとしている?そんなはずがない。絶対にあり得ない。これは夢だ。幻だ。そうでなければ説明がつかない。
喉からかすれた音が漏れる。
「やめ……に、兄貴……」
叫びたいのに声が出ない。助けを求めるように兄を覗き込んだが、その目は「敵」を見据えていた。ただ冷たく、狂気に濁っている。
全身から力が抜けていく。
目の前に浮かぶのは、昔の優しい笑顔。
あれはもう、二度と戻らないんだ。
殺されるんだ、兄貴に。
せめて弟として死にたかったなあ。
そこには諦めしかなかった。それなのに心が、同時に泣き叫んでいる。嫌だ……死にたくない……
兄の手を振りほどこうと、体が勝手に動いた。
上半身を左に捻り、そのままの勢いで横腹を思い切り蹴る。
「ぐっ!」と短く呻く声と共に、兄の力が一瞬だけ揺れる。
首にかかる圧迫が消えた隙に、大毅は手をすり抜け、背後の空気を切るように駆け出した。
*
車内のモニターに映る現場を、仲間たちは息を呑んで見つめていた。皆、立ったまま身を乗り出している。
「大毅っ!」
夜桜がドアに手をかけようとした瞬間、低い声が響いた。
「待て」
凊佐が片手を軽く上げていた。表情は険しいが、動揺はない。ただ画面をじっと見据えている。
大毅が蹴り払って逃げた瞬間、車内の張り詰めた空気が一瞬緩み、やっと安堵の息が漏れる。
ただ一人、凊佐だけは険しい表情を崩さず、無言で画面を見つめていた。
*
大毅は瓦礫の隙間に身を滑り込ませ、荒い息を殺した。大毅は壁に背を預け、瓦礫の隙間から兄を見張る。息を整えて次の動きを考えていた。
裏に回られるまではまだ時間があるから、それまでに...その瞬間、信じられない光景が目に飛び込む。兄が垂直の壁を蹴って一、二歩で跳ね上がり、まるで空中から襲いかかるかのように真上から降ってきた。
「っ!」
体を横に転がして辛うじて回避する。続けざまに右の膝蹴りが飛んできて、ぎりぎりで避ける。
しかし、兄は止まらない。
真上からの蹴り、横からの肘打ち、腕を振り下ろして押さえ込む動作。
立ち上がる暇さえないまま、息を切らして必死にかわす。
さらに兄が踏み込んできたとき、咄嗟にお尻を浮かせ、低いしゃがみ姿勢に移った。
もうすぐぶつかるというところで、背中を兄に向け、軸足をしっかりと地面に据える。
もう一本の足を兄の前足にかけ、伸びてきた手を外側から掴んだ。
体をひねると、バランスがうまく崩れた。
よろめいた兄が受け身を取り、その隙に手を離し、足を抜いて後ろへ走る。
およそ十メートル離れたところで立ち上がり、息を整えながら、震える声で呼びかけた。
「そんなに俺のことが嫌いかよ」
兄の巨体はじっと大毅を睨みつけるだけで、言葉には反応を示さない。
怒りの色はあるが、微かな動揺も見えず、ただ威圧的な視線だけが突き刺さる。
大毅は一度、肩の力を抜き、少し間を置いて問い直す。
今度は自分の感情を交えず、あくまで他人のように距離を置いて――
「いや、『大毅』のことが嫌いか?」
その問いかけに、兄の目がわずかに揺れる。
兄の眉間に皺が寄り、唇を固く噛みしめ、拳には爪が食い込んでいる。
体は微かに後ろに引き、距離を保とうとしている。全身から拒絶の意思があふれていた。
「撤退だ」
インカムにはっきりとした声が流れた。
その瞬間、頭上でフラッシュが閃く。
瓦礫の隙間を縫って、夜桜のドローンが飛来し、強烈な光を照射する。
真っ白な視界の中、こちらにかけてくる足音が聞こえる。
「こっちだ!」
何かに掴まれたと思った時には、凊佐に車に引っ張り込まれていた。
二人が乗ったのを確認すると、急いで夜桜がドアを閉めた。タイヤが砂利を蹴り上げ、車が飛び出す。
扉が閉まる瞬間、背後で言葉にならない狂乱の叫び声が響いていた。
車内で大きく息を吐く。
胸に絶望がずしりと重くのしかかる。
今は何も考えられず、ただ通り過ぎる街を目で追っていた。