#32 行くしかない
橋本は風間と泉を呼び、ミーティングルームの大スクリーンに目を向けた。
今日は大毅に関する追加調査の報告を受けるためだ。
画面の向こうでは、すでに黒瀬が腕を組んで待っている。
「どうだ、みんな元気か?」
黙っているのも気まずいと思ったのだろう。息子ほど年の離れたこの上司は、不思議と年齢や役職を越えて公平な空気をまとっている。
「報告の通り、先日の戦闘で皆疲れてはいるが、体調を崩している者はいない。大毅が少し怪我をしたくらいだ」
酷暑の話題など他愛ないやり取りを交わしていると、風間と泉が部屋に入ってきた。
「お、揃ったな。休み中すまないが、大毅についての調査結果が届いた」
黒瀬の声に、二人は身を乗り出す。
「正直、子どもが育つ環境としてはどうかと思う。まずは資料を送ったので見てくれ。父親が――」
画面には、山奥の古びた家屋や、異様な器具の写真が次々と映し出される。呼吸を制御するためのトレーニング装置、大量のダンベル、電気ショックを与える謎の機械……。
報告によれば、大毅の父親はかつて著名な研究者だったが、思想が強く、パルス飛来以降は「それを排除することこそ使命」と信じて一家を下津潟の近くへ移したという。兄弟は多く、家は閉鎖的で、外部からの接触は難しい。
「……信じがたい話ですが、彼の人間離れした強さを思うと納得できます」「流石にここに帰れとは言えないな。兄弟を心配するのもわかる」
黒瀬は、そこで少し声を落とした。
「そしてもう一つ、面倒な事案が発生していて……今日はその相談も兼ねている」
彼は苦い顔でこちらの表情を探る。
「ニュースで見たかもしれないが、危険区域からも比較的近いある町で騒動が起きている。一人の男が町中で暴れ回っていて、警察も手を焼いている。そこでパルス対策本部にも応援依頼が来た」
「冗談じゃないですよ。パルスの面倒まで押しつけておいて、今度は町の揉め事まで?我々は何でも屋じゃないんです」泉が声を荒らげる。
「そうだ泉、よく言った。化け物退治には化け物退治に慣れた奴をってか?ふざけてるにも程がある」風間も珍しく怒気を帯びていた。
橋本は静かに口を開く。
「まあ、その通りだな。筋は通らない」
その言葉を聞き、黒瀬がわずかに口元を歪めた。
「ああ、もちろん断るつもりだ。ただ――少し気がかりなことがあってな」
間を置き、画面越しに全員を見回す。
「……この暴れている男は、大毅の兄らしい」
画面が切り替わる。少し粗い、揺れる映像――警察官のボディカメラの記録だ。
暗がりの路地に、長身の男が立っている。近づくと、無駄のない筋肉が浮かび上がる。だが、その挙動は妙だ。ブツブツと何かを呟き、急に壁に背を押しつける。怯えているようにも、何かを探っているようにも見える。
警官が声をかけた瞬間、男は一瞬だけ顔を上げ――次の瞬間、弾かれたように駆け出した。咄嗟に腕を掴むが、信じられない力で振り払われる。
そのまま道路へ飛び出し、直進してきた車と正面衝突しかけた瞬間――男は前蹴りを一発。時速数十キロで迫っていたはずの車が、まるで軽い玩具のように後方へ跳ね返った。
クラクションが響き、別の車が急ブレーキ。現場は一瞬で混乱に包まれる。カメラが振れると、もう男の姿はなかった。
映像が切り替わり、防犯カメラの映像になる。さきほどの男がスーパーの自動ドアを乱暴に押し開け、店内へ駆け込む。
場面は店内カメラに切り替わる。棚はすでに乱れ、惣菜売り場の上で男が次々とパックを引き裂き、むさぼる様子が映し出される。
棚の上で惣菜をむさぼっていた男は、店員が「やめろ!」と声を上げた途端、顔を上げた。その目は、焦点が合っているのか分からないほど濁っている。
次の瞬間、棚ごと床に飛び降り、すぐ近くにいた客の肩を片手で突き飛ばす。その衝撃で、男は数メートル後ろへ転がり、買い物カゴの中身が床に散乱した。
悲鳴が響く。カメラの端では、子どもを抱えた母親が必死に出口へ走っていく姿が映る。男はそれにも反応し、足を向けかけ――映像はそこで途切れた。
黒瀬が映像を止めると、部屋の空気が一気に重くなった。
「これ、冗談抜きでやばいですよ」泉が低くつぶやく。
「警察が手を焼くのも当然だ」
風間は眉をひそめたまま、スクリーンを指差す。
「確かに異常だが――俺たちが介入すべき案件じゃないだろう」
橋本が短く息をつき、皆の視線を受け止める。
「そうだな。出動する予定はない。だが――」
その言葉の続きを紡ぐ前に、背後で乾いた音とともに扉が開いた。
振り返った全員が、息を呑む。そこに立っていたのは、大毅だった。
灰色に切り替わったスクリーンを、まるで何かを焼き付けるように見つめている。
息を荒げたまま、彼は短く言い放った。
「……俺、行きます」