#3 決意
一階に降りると、リビングはいつもと変わらず温かい空気で満ちていた。
夕暮れの光がカーテン越しに差し込み、木目の床をやわらかく染めている。
リンとのプリクラ。お気に入りの漫画。奇妙な形の指輪。なんとかの結び目っていうんだっけ。
パーカーばかりが詰まったリュックに、それらを無理やりねじ込む。
ソファの前で夜桜がリュックの口をしめると、湿気を纏った癖毛が頬にかかった。
細身の体にぶかっとパーカーを羽織る。
髪を耳にかけると、母がこっそり縫ってくれた小さな穴が目に入った。
「本当に行くんだね」
母が言う。かすかに声が震えていた。
夜桜はうなずき、気まずそうに視線を落とした。
「うん、ちょっとだけ。すぐ戻ってくるよ」
そう言った自分の声が、どこかうそくさくて、胸がつんとする。
母の声に気がついたのか、父が一階に降りてきて、なぜかテレビのリモコンを探し始めた。
平然を装っているが、さっきから右手と右足がぎこちなく一緒に動いている。
リビングに、ドタドタと足音が響いた。
小四の兄・凛太と、年長の弟・陽太。ふだんは些細なことで言い合ってばかりの二人が、なぜか今日はしゃんと並んで立っていた。
「ねーちゃん、これ」
先に口を開いたのは凛太だった。
手には、彼の筆箱の中でも特に使い込まれたペンが握られている。
そこには、人気アニメの主人公『リク』のイラストが印刷されていて、ところどころ擦れて色褪せていた。
「使いやすいから、勉強に使えば? 返さなくていいや」
照れ隠しに、そっぽを向く。
「なにそれ、普段なら貸しもしないくせに」
「うっさいな、今日だけだぞ」
その横で、陽太がそっと差し出してきたのは、大きめの画用紙。
裏にはクレヨンで、家族5人が笑顔で並んで描かれている。
夜桜の顔だけ、少し大きく優しそうだ。
「昨日、描いたの。おねーちゃん、こわいとこ行くんでしょ。だから、もってって」
「ありがと」
思わず二人の頭を同時に撫でた。
「ふたりで相談したの?」
「たまたまだからな」
「違うもん」
と、同時にそっぽを向くふたり。
素直じゃないんだから。
でも、そんなところが大好きだった。
笑おうとして、思わず喉が詰まる。
「ゴンッ」
鈍い音がして振り向くと、そこには涙目の父がいた。
テレビ台の角に爪先をぶつけたらしい。
「うぅ。」
弱々しい声が漏れ、思わずクスッと笑ってしまう。
つられて母も、弟たちも笑い出した。
父だけは真剣なままで、顔をくしゃくしゃにして、鼻を啜りながら泣いている。
「ヤオが、いなくなるなんて……じんじだだでねぇよぉ……およめにいぐの、もっどさぎだどおぼってだのに……」
ここまで悲しまれると逆にこちらが冷静になってくる。
「大げさだよ。一生の別れじゃないんだから」
そう言いながらも、夜桜の目は少し揺れていた。
「じゃあ、行ってくるね」
夜桜はリュックを背負い、玄関に向かう。
ドアの外に出た頃には、少し肌寒くなっていた。
ふと、空を見上げると、雲の切れ間に、かすかに光る何かが浮び、消えた。
……気のせいかな。
そう自分に言い聞かせながら、夜桜は一歩を踏み出した。