#27 立て、さもなくば
凊佐は装備を手早く装着しながら、左腕のデバイスに目を落とす。先日の「逆干渉」——それを防ぐため、装備班が信号の流れを一方通行に変えてくれた。
「これでパルスに頭の中を覗かれる心配はないはずです。何かあったら、すぐ教えてくださいね」
泉が説明する。 凊佐は、自分自身への確認のように、ゆっくりと頷いた。
トレーニング場に入ると、大毅がすでに準備を始めていた。その隣に黙って加わる。凊佐が走り始めてすぐ、違和感があった。
——ぺたっ、ぺたっ。
大毅の走る音に、濡れた音が混じっている。
「……?」
音の主を確かめるように、地面に視線を落とす。
コンクリートに、時間差で一滴——濃い赤が、じわりと滲んだ。
「大毅!」
呼びかけたが、本人はまったく気づいていない。走る足取りに迷いはなく、顔にも痛みの色は見えない。 凊佐が慌てて駆け寄り、腕を引いた。
「止まれ!」
無理やり掴んで立ち止まらせると、大毅は「え、なに……?」と戸惑うように眉をひそめる。
凊佐はしゃがみこみ、まず血に滲んだ靴に目を落とす。
躊躇なく、片足に手をかける。
そして少し強引に靴を引きぬいた瞬間、布の内側がべっとりと赤黒く染まっているのが見えた。靴下を剥がすと、足の甲に裂けたような傷。まるで、無理に、ずっと走り続けていたかのような——
「……いつから?」
凊佐が問いかけると、大毅は一瞬だけ考え込み、次の瞬間、苦笑とも無邪気ともつかない表情で答えた。
「んー、三日くらい前かな。靴がちょっと合わなくてさ。……部屋汚してごめん。すぐ片付ける」
「…そうじゃない」
凊佐の声に、わずかに苛立ちが混じる。
「……なんで走った?」
「いや、まあちょっとくらい」
「ちょっとじゃない!」
大毅は、ふと黙りこむ。
視線が宙を泳いでから、ぽつりと落とした。
「……走らないなら、俺、どうすればよかったの?」
その一言で、凊佐の中にあった考えがガラガラと崩れていくのがわかった。
見栄を張っているんじゃない。大毅にとって、「止まる」という選択肢は、最初から存在していなかった。笑って済まそうとする大毅を、凊佐は真っ直ぐに睨む。
「……治療しろ。誰か呼ぶ」
「いや、自分でやるよ!」
言葉を遮るようにそう言った大毅に、怒鳴り声喉の上まで上がってきたが、途中でため息に変わった。
「……わかった。でも、無理は許さない。」
「うん。凊佐は優しいな」
その言葉に、凊佐は一瞬言葉を失った。その目には、まるで褒められた子どものような期待がにじんでいた。不気味だ。怪我を負った本人とは思えないほど、誇らしげにさえ見える。
手当てを終え、またトレーニングに戻ろうとする大毅に、夜桜が声をかけた。
「怪我したって聞いたけど? 今日はもう休んでなよ。治るものも治らないよー」
彼女の軽い口調とは裏腹に、目には確かな心配が滲んでいる。だが、大毅はその言葉に少し不思議そうな顔をした。
「平気。ちょっと切れただけだし……体動かさないとダメになるタイプだから」
「無理しなくていいってば」今度は少し強く言う。
大毅は軽く笑って、言葉を返した。
「大丈夫。そんなに痛くないし。ってか、俺……」
少し言い淀み、ぽつりと。
「サボるのは、どうしても嫌なんだ」
それを聞いた瞬間、夜桜の中で何かがぞわっと湧き上がる。怪我がサボり?とにかく、彼の中の「当たり前」が、自分のそれと根本的に違うことだけは、はっきり分かった。
その直後、トレーニングルームの奥から、橋本の驚いた声が響いた。
「ちょ、ちょっとお前! それで動いてたのか!?」
——大毅は、あっさりと追い出された。
翌朝、まだ陽も登りきらない訓練場。凊佐が準備を進めていると、聞き慣れた足音が近づいてくる。振り返ると、大毅が昨日と同じ無表情で、淡々と歩いてきた。
「おはよ」
「……来たのか」
思わず声が漏れた。包帯の上からわずかに血の色が透けて見え、昨日よりも染みが広がっているようにも見える。
そこに夜桜が通りかかり、驚いて声を上げる。
「ええ!? 今日もやるつもり? 橋本さんに怒られたんじゃないの?」
「いや、別に歩けるし……ってか、こんぐらい大丈夫だって」
凊佐も黙っていられず、それに重ねる。
「……休め」
「大袈裟すぎ。大丈夫。痛くないし。」
「……痛くない」凊佐はただ繰り返した。
大毅の表情が、わずかに引きつる。
凊佐の口元には、感情の見えない捻れた笑み。
この男——大毅にとって、「痛みを見せること」は「弱さ」そのものであり、それを隠すことこそが「強さ」だった。その信念が、今の彼を縛っている。
よく知っている感覚だった。
何度も繰り返された言葉の支配。
説得は容易ではないと、痛いほど理解している。
「……立つのは禁止。座れ」
それはもはや、命令だった。
大毅が従ったのは、納得ではなく、諦めからだろう。
凊佐は軽い道具を手渡し、自分もその隣に腰を下ろした。
トレーニングを再開した大毅の表情は、どこか落ち着かない。耐えきれず、ぽつりと呟いた。
「慣れればいいんだよ。痛みに慣れれば、走り続けられる」
大毅は、自分に言い聞かせるように続けた。
「熱があっても、骨が折れてても、立ってなきゃ何も始まらない」
それは彼にとって、揺るがない信念だった。
凊佐は大毅と目を合わせる。視線はもっと遠く、向こう側にある何かを見据えていた。
「それでもいい。でも——」
少し間を置いて、続ける。
「泣くな、叫ぶな、笑うな……そうして、俺は何も感じなくなった」
その瞬間、大毅の拳がわずかに止まる。
一瞬だけできた「間」。
それは、確かに迷いの存在をあらわにしていた。