#25 名もなき夜
夕食時の食堂では、橋本や風間たち大人が、何かの話題で盛り上がっていた。食べ終わった夜桜はその場をこっそり抜ける。そっと席を立って広間に出る。天窓から星がのぞいていた。
「……綺麗」
思わずつぶやいた声に、後ろから元気な声が返ってきた。
「実は俺、とっておきの場所を知ってるんだ!」
大毅はそのまま廊下を抜け、迷いなく凊佐の部屋の戸を開ける。ちょうど寝る前のストレッチをしていた凊佐と目が合った。
「ちょっと来ないか?」
大毅は慣れた手つきで夜桜がこれまで開けたことのない扉を次々に開け、最後に窓を開け放った。窓枠に足をかけると、身軽に外へ出る。
「え、何してるの?」
「バレたらまずいからちょっと静かにな」
そう言って夜桜に手を差し出し、屋根へと導く。凊佐は何も言わずついてきて、最後に軽やかに屋根へ登った。
夜の闇が街を包み込み、蝉の声が遠くから聞こえてくる。夏の始まりを告げる静かな夜だった。
屋根の上で星を見上げて並んだ三人の背丈には、わずかな高低差がある。
一番背が高いのは凊佐。星明かりに白い髪が淡く光って見える。
その隣に立つ夜桜は、女子としては高めの背。くっきりした目元に、肩より少し長い髪が風に揺れる。
大毅は頭ひとつ分ほど小さいが、がっしりとした体格で、焼けた肌に無数の小さな傷が浮かんでいた。
彼の大きな瞳が、夜空にきらきらと反射している。
「蝉、鳴き始めたな」大毅がぽつりと呟く。
「うん、夏だなって感じがする」夜桜が目を細めて空を見つめる。
「こうして並ぶと、私が真ん中なんだね」
「くっ、伸びろ俺の背……!」大毅が背伸びをする。
「……筋肉をつけたら、余計に伸びない」
「事実でも言うなよぉ!」
少し笑いがこぼれる。
「そういえば、大毅ってここにくる前は何してたの?」何気ない調子で夜桜が聞いた。
「山の、けっこう奥に家があって。ずっとそこで訓練?みたいなことしてた」
「訓練?」
「うち、七人兄弟なんだ。姉ちゃんが一番上で、俺の下に四人」「わっ、ほんとに? 大家族なんだね」
「うるさいよ、もう!飯は毎回戦争。末っ子の弓太なんか、まだ箸もまともに持てないのに、ちゃっかりおかずだけは取ってくしさ〜」
「……そういうものか」凊佐の声には、どこか羨望の響きが混じる。
「姉ちゃんもいるんだけど……あの人はもう、ほぼお母さん。なんでもできるし、怒らせたらめちゃくちゃ怖い」
「山ん中に専用のコースがあってさ。下の子背負って登ったりもしてた」
「すご……」
「でもな、チビたちの寝顔見ると、“ああ、今日も何とか生き延びたな”って思ってさ。なんか、守んなきゃなって。みんなどうしてるかな」
大毅の話が落ち着き、屋根の上に静けさが戻る。夜桜が少し首をかしげて、隣の凊佐に視線を向けた。
「凊佐は? どんなとこで育ったの?」
しばらく沈黙があった。凊佐は空を見たまま、答える。
夜桜の問いかけに、凊佐は一拍置いて答える。
「……あんまり、覚えてない。小さい頃、何してたかも、誰がいたかも。ぼやっとしてる」
星を見上げたまま、ぽつりぽつりと話しはじめる。
「暗い部屋にいた。ずっと、そこにいた気がする。何かをやらされてたけど、何だったかは……思い出すと、頭が痛くなる」
「……気がついたら体が動かなくて、そしたら黒瀬が来て、」
言葉を選びながら、ぽつりと続ける。
「それだけは、ちゃんと覚えてる。……だから、黒瀬には、逆らえない。怖いとかじゃなくて……借りがある……今も生きてる理由だから」
風が通り過ぎる。凊佐の髪が揺れた。
「……あんた、結構しゃべるじゃん」
夜桜がクスッと笑った。
「じゃあ、次は私か。うーん、なんだろ。普通だったよ、たぶん」
彼女は空を見上げたまま、どこか遠くを見るような声で続けた。
「家もちゃんとあるし、学校も行ってた。友達もいる。けど今は……全部が遠くなった気がしてる」
「夢みたい。ここに来たことも、自分が選んだのかどうかも、いまいち分かんないんだよね」
大毅が手を後ろについて、星を見上げる。
「まあ、ここにいるのが現実だし?なんでもいいけど、このくだらない時間を楽しみ尽くそうぜ。」
大毅の呼びかけに、誰かが何かを続けようとして、結局、何も言わなかった。
生暖かい風につられて、蝉が、どこかでまた鳴き始めた。