#23 見えない敵
大毅が拠点にやって来てから、そこはまるで別世界のようになった。
彼は部屋に入るなり、軽やかな足取りであちこち動き回り、隊員たちに気さくに話しかけた。時にふざけ、時に無邪気に笑う。
「おい、これ見ろよ!」「ねぇ、俺と勝負しようぜ!」その声がいつも拠点のどこかから響き渡る。
泉も橋本も、最初は彼の明るさに少し戸惑いながらも、次第にその存在を受け入れていた。
「やつが来てから、雰囲気が柔らかくなったな」
橋本はコーヒー片手にそう言った。
だが、そんな賑わいとは対照的に、凊佐は次第に口数を減らしていった。いつもは淡々とした態度の彼だが、大毅の自由奔放な言動に押され、心の中で孤独感が膨らんでいくのを感じていた。
訓練場の隅でひとり、黙々と体を動かす凊佐。彼の視線は時折、大毅の方へ向くが、すぐに目を逸らす。
そんな日常の中で、ついにその時が来た。
「大毅、実戦任務に同行してもらう」
作戦室で橋本が告げた一言に、隊員たちの空気がわずかに変わった。大毅は目を輝かせ、「ほんと!?」と声を上げて喜んでいたが、周囲の隊員たちは顔を見合わせる。任務は都市部近郊での小規模掃討。規模としては軽めだが、油断のならないタイプの戦いだ。
「大丈夫か、あいつ……」「訓練でどれだけ元気でも、実戦は別だろう」
そんな囁きが小声で交わされる中、風間は静かに言った。
「必要な判断は、現場で俺が下す。これはチャンスだ。本人のためにも、俺たちのためにもな」
その言葉には揺るがぬ覚悟が宿っていた。これはもはや単なる訓練の延長ではない。隊に加わるための、本当の一歩だった。
夜桜が装備の収納庫へドローンを取りに向かうと、凊佐がいた。
久しぶりに二人きりになり、沈黙が空間を包む。
凊佐はゆっくりと息を吸い込み、覚悟を決めたように口を開こうとした。
が、背後から大毅の明るい声が響く。
「なあヤオ!ちょっとこっち来てみてよ!」
夜桜は一瞬迷ったが、やがて大毅の声に応えるように小さく返事をして、収納庫を後にした。
薄暗い部屋に、ぽつんと取り残された凊佐。
埃の舞う空気がゆっくりと流れ、窓から差し込む細い光が床のわずかな傷を浮かび上がらせる。部屋の暗がりに溶け込むように、目を閉じて静かに息を吐いた。
***
廃ビルの屋上付近、敵影は見えない。だが、鉄を爪で擦るような音が鳴り続けていた。
鉄骨がむき出しになったビルに、風間隊の数人が身を潜めている。空気は湿り、照明の一つもなく、冷たい汗が首筋をつたう。
「パルス反応、複数」
夜桜が声を潜め、手元のデバイスに表示された熱反応を睨んだ。彼女の肩越し、ドローンが静かにホバリングしながら、赤外線映像をリアルタイムで送信してくる。
「見えないけど、いる。壁の中に一体、床下にもう一体……そっち、動いた」
「分かった。俺が陽動する」
大毅が軽く顎を引いて、一歩前に出る。装備はさっき渡されたばかりの真新しい戦闘スーツ。脚部に重心を乗せ、いつでも飛び出せる構えだ。
「5秒後にくる。4、3、2――」
夜桜が数え終える前に半拍早く凊佐の身体が横に流れる。
(早すぎる…!)
そう思ったが、大毅がカバーに入り、咄嗟にパルスの横腹に回り込む。踵がうなりを上げて振るわれ、コア付近の装甲がごっそりと吹き飛んだ。
「今だ!」
掛け声に合わせ、凊佐のがまっすぐパルスの裂け目に飛び込む。わずかに青白い閃光――コアの書き換えが完了し、パルスの身体がぴたりと静止した。
「なんとかなったな!」
前向きな大毅とは裏腹に、凊佐はミスを悔むように唇を噛んでいる。
まもなく、すぐに二体目が、壁を突き破って現れた。
「もう一体、来る!」 「おう!」夜桜の声と同時に、大毅が前に出る。
両腕をぐるりと回し、全身に力を込めて突っ込む。殴打一発ごとに、パルスの関節部が砕けて飛ぶ。だが、分解しきるには時間がかかる。
「凊佐が止めた方が早い!」「……分かってる」
凊佐が飛び込もうとした瞬間、ドローンのアラートが鳴る。「三時方向、床下からもう一体、来ます!」夜桜がドローンの映像を睨みながら、通信に声を乗せた。
壁際の瓦礫を蹴飛ばしながら、狭い通路を抜けていく。
だが、そこで映像が一瞬、揺れた。
「……あれ? 信号が、ずれた?」夜桜が眉を寄せたその瞬間、凊佐の前方にいたはずのパルスが真横から飛び出す。
「ッ!」爪がかすめ、凊佐の脇腹を裂く。スーツの防刃繊維が裂け、赤い傷がにじむ。
「凊佐! 大丈夫か!?」
大毅が飛び込んで、代わりにパルスを地面へ押さえ込む。夜桜の声が小さく届く。
「ごめん、私が指示を――」
「……お前と違って、命がかかってる。これは遊びじゃない。」
凊佐が顔を上げて、ドローンの光学レンズをまっすぐ睨む。低く、だがはっきりと。
「次は、ないぞ」
その声音に、夜桜が息を呑んだ。
「なあ、それは言い過ぎだろ!」
大毅が庇うように無線に話しかけた。
「お前だってミスしたじゃんか。そうやって責めても――」
「……黙ってろ」
「……は?」大毅の顔から、笑みが抜け落ちる。
数秒の静寂が続く。
「終わったか?」
大毅が息を整えながらあたりを見回す。
「残存パルス、急接近!」
夜桜が叫ぶも、大毅は動揺して指示を聞き逃す。「え?」
パルスが瓦礫を突き破って現れ、一直線に大毅の背を狙って突進してきた。
それを見た凊佐の表情が一変する。大毅の姿を捉えた次の瞬間には、体が反応していた。
「ッ!!」
伸ばした左手が、大毅の腕を容赦なく掴み、勢いのまま背後へ引き倒す。
ズザッ!
コンクリートの床を擦る乾いた音が響き、二人の身体がもつれるように倒れ込む。
「……いって」
肩の関節が外れかけたような、鈍い痛みが大毅の身体を貫いた。思わず呻いた彼が振り返ったとき、凊佐はすでに前を向いたまま、敵のパルスを沈めていた。
静止したパルスのコアが、青白く光を残して崩れ落ちる。
その背中。凊佐の拳は握り締められ、ほんのわずかに震えている。それは怒りか、恐怖か、それとも自分自身への苛立ちか、判断できないほどに混じり合っていた。
「ごめん、俺……ちゃんと聞いてなかった」
大毅は肩を押さえながら、俯いたまま立ち上がる。
声はかすれ、小さく弱々しい。
それでも、凊佐は振り向かない。その肩は、一定のリズムを保てずに、荒く上下していた。まるで深呼吸をしても、酸素が足りないように。
「ねえ、二人とも」
夜桜が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その目は、どこまでも真っ直ぐ、二人の心の奥を見透かすようだった。
「私たち一体、何と戦ってるわけ?」
ビルの空洞を抜けた風が、破れた壁を鳴らす。
「私だってミスした。ごめん。でも……」
その言葉は、怒りでも説教でもなかった。ただ、正直だった。
「勝手に自分の中の敵と戦って、それで周りが見えなくなってたら――本当の敵、見失うよ」
少しの間を置いて、彼女は視線を外した。そして、何も言わずにドローンと共に踵を返す。
その言葉は、まるで刃物のように、胸に突き刺さった。ぶつけ合った感情の残響が、互いの足元でまだ燻っている。その場に残された沈黙が、かえって耳に痛い。どこかで風の音が鳴っている。鉄骨がきしむような、遠い音だった。
凊佐はゆっくりと左拳を開いた。それでも、心のどこかに残っている苛立ちの熱は、まだ冷めていなかった。