#18 ひとつ壁の向こう
「やった……のか?」
大西の声がようやく、静寂を破った。
凊佐の両足はふらつきながらも地面をしっかり捉えていた。左手の指先からは、わずかに蒸気のようなものが立ち昇っている。
「凊佐!」
夜桜が彼のもとへ駆け寄る。彼女の目には安堵と混乱が入り混じっていた。そのとき──
『隊員用デバイスからの、応答を確認。現地への進入経路を確保。救援班、ただちに進入を開始する』
通信機から、本部の落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
「……やっとか」
夏井が息をつくように言った。数分後、地下通路の奥から、防護服を着た救助班の姿が次々と現れる。
「全員無事か!? 負傷者は?!」
闇に残った戦いの余韻を拭い去るように、真っ白の照明弾がたかれる。
その人工的な光の中で、隊員たちがメンバーを保護していった。
夜桜は凊佐の腕を支えながら、隊員の呼びかけに小さく頷く。
「こっち……彼が怪我してます」
凊佐は「大丈夫」と口にしかけたが、言葉にする前に夜桜が睨む。
その後、一行は無事、拠点へと戻された。
医療班による応急処置と、状況報告のための個別聞き取り。それぞれが、それぞれの持ち場で、戦いの余波に向き合っていた。
夜桜は、何度か凊佐の様子を見に行こうとした。けれど、自分のせいで怪我をさせた後ろめたさがあって、そのたびに足が止まった。
凊佐の方も、まるでそれを察したように、部屋から一歩も出てこない。お互いに様子が気になってはいたが、そのあいだには、妙に澱んだ沈黙が流れていた。
数日経ったある日。
暖色のポイントライトだけが灯った、静かな拠点の一角。凊佐は整備スペースでスーツの確認をしていた。そこへたまたま夜桜が入ってくる。目が合うと、自然と言葉が口をついて出てきた。
「ごめん。私を庇って」
凊佐は一度だけ視線を上げ、静かにこちらを見る。
「でも、無茶したよね。助けないでって約束したのに」
夜桜の言葉に、凊佐は工具を置いて答える。
「……成功だった。傷も浅い」
「そういう話をしてるんじゃないよ」
夜桜の語気が少し強くなる。「勝手に飛び出して、勝手に刺されて、それでうまくいったって、何それ?」
「最善の手段だった」
「最善って、あんたが死んでも?」
「死んでない」
「……!」
夜桜は拳を握る。
「そればっかり! いつもそうだよね。自分が傷つくのは想定内だって、他人がどれだけ心配してるか考えたことある!?」
凊佐は動揺しながらも答える。
「心配は……ありがたいと思う」
「思ってるなら……なんで、黙って勝手に突っ込んだりするの!」
「私だって怖いんだよ! 誰かがいなくなるんじゃないかって」
夜桜の声が次第に荒くなる。
「どうして、何も言わずに勝手に決めて、勝手に傷ついて……!」
息を飲んだ瞬間、言葉が一気に爆発した。
「もう、いい加減にして!!」
その瞬間だった。
凊佐の顔から、すっと血の気が引いた。
バチンとスイッチが切れたように、彼は目を見開き、ガクンと膝をつく。
両手で耳を強く塞ぎ、首を左右に振る。
「やめて……やめて……ごめんなさい……」
その声は、明らかにここにいない誰かに向けたものだった。
目の焦点が合っていない。
「……ごめん」
思わず呟いた声も、もう彼には届いていないようだった。
すると、凊佐はふらりと立ち上がり、部屋の隅に向かって駆け出した。バタン。ドアが乱暴に閉まり、わずかな隙間から、荒い息遣いだけが漏れてくる。
夜桜は、閉ざされた扉の前で、ただ立ち尽くした。怒ってなんかいなかった。ただ、心配だっただけなのに——
扉の前にしゃがみ込み、夜桜は何度も繰り返すように言葉を投げた。
「ごめん、ごめんね……」「驚かせたくて言ったんじゃない、ただ、自分を大事にして欲しくて」
返事はない。けれど、扉越しの気配で、凊佐がまだそこにいるとわかる。
「あなたに何かしてほしいとか、立派に戦ってほしいとか、そういうこと言いたかったんじゃないの」
沈黙。
それでも、夜桜は言い続けた。何度も、言葉を変えながら、震えながら、それでも。
どれほど時間が経っただろう。
扉の向こうから、小さな気配が動いた。何かがそっと近づくような音がした。
そして、
「……もういい」
低く、乾いた声。本当に「もういい」と思っているのか、それとも、これ以上責めないでほしいという意味なのか。
それは、夜桜にはわからなかった。
けれど、許されたとは言えなくても、返事が返ってきたことには、安堵した。
夜桜は、そっと額を扉に預ける。
何を返せばいいのか、やっぱりわからない。結局、コツン……と、小さな音を立てて、優しく一度だけ叩いた。
それが、彼女にできた精一杯の返事だった。
そしてそのまま、静かにその場を後にした。
凊佐は、扉の向こうに誰もいないのを確かめると、
力なく、その場に崩れ落ちた。
怒鳴られたこと自体というよりも、 自分が取り乱したという事実に、吐き出したいような嫌悪感を覚えていた。
朝。
食堂にはいつも通りの匂いと、変わらない配膳の音。夜桜は、手にトレイを持ちながら、半分息を詰めて席につく。
──いた。
凊佐は、もう席についていた。こちらに気づくとチラリと目線をよこしたが、何事もなかったかのように、スプーンでゼリーをすくいはじめた。
目線を自分の皿に戻し、食べ始める。
夜桜はスプーンを取ったまま、指先に少しだけ力が入った。味なんてしない。がとりあえず、きちんと口に運ぶ。
そんな中、ひときわ大きな声が食堂に響いた。
「おはよう〜〜〜!! 夜桜ー! 凊佐ー!」
トレイを持った大西が、ニッコニコで入ってくる。その瞬間、凊佐がわずかに肩をすくめ、スプーンを止めた。
「……バカっ。空気読めないの」
夏井が小声で大西の腕を引いて、眉をひそめる。
夜桜は何も言わず、トレイを見つめたまま、スプーンに手を添えた。
凊佐の方に視線を移すと、一瞬目が合い、彼は急いで視線を背ける。
明らかにこちらの機嫌を窺っているのがわかる。席から立ち上がろうとすると、彼がビクッと反応する。
彼は、今も怖がっている。怒っているんじゃない。怯えている。
夜桜は、何か言おうとして──やめた。言葉が喉の奥で絡まり、出てこない。
今、声をかけることで彼がまた壊れてしまいそうで、怖かった。
隣にいても、ひとつ壁を隔てているように遠い。
……私、何も知らないんだ。
彼が何を好きなのかも、泣くほど怖がっていることでさえ。
わかった気になって、ずっと隣にいたんだ。
そのとき、凊佐の手元のスプーンが、わずかに揺れた。
その音に、夜桜は、少しだけ顔を上げた。
***
同時刻。
拠点から離れたある場所で、調査ドローンが朽ちた建物の隙間を縫っていた。
「異常個体、確認できず。……ん?」
カメラに映ったのは、抉れて焦げたパルスの残骸。表面には、まるで拳のようなもので叩き潰された痕跡が残っている。
「なんで壊れてるんだ?」
ドローンのレンズが、遠くの高架をとらえる。ほんの一瞬、誰かがそこに立っていたように見えた。
風が吹き抜け、モニターにノイズが走る。
次の瞬間には、もう姿はなかった