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空域ノ記憶  作者: 湯川 空
はじまり
18/37

#18 ひとつ壁の向こう

「やった……のか?」


大西の声がようやく、静寂を破った。

凊佐(せいさ)の両足はふらつきながらも地面をしっかり捉えていた。左手の指先からは、わずかに蒸気のようなものが立ち昇っている。


「凊佐!」


夜桜(やお)が彼のもとへ駆け寄る。彼女の目には安堵と混乱が入り混じっていた。そのとき──


『隊員用デバイスからの、応答を確認。現地への進入経路を確保。救援班、ただちに進入を開始する』


通信機から、本部の落ち着いた女性の声が聞こえてきた。


「……やっとか」


夏井が息をつくように言った。数分後、地下通路の奥から、防護服を着た救助班の姿が次々と現れる。


「全員無事か!? 負傷者は?!」


闇に残った戦いの余韻を拭い去るように、真っ白の照明弾がたかれる。

その人工的な光の中で、隊員たちがメンバーを保護していった。

夜桜は凊佐の腕を支えながら、隊員の呼びかけに小さく頷く。


「こっち……彼が怪我してます」


凊佐は「大丈夫」と口にしかけたが、言葉にする前に夜桜が睨む。


その後、一行は無事、拠点へと戻された。

医療班による応急処置と、状況報告のための個別聞き取り。それぞれが、それぞれの持ち場で、戦いの余波に向き合っていた。


夜桜は、何度か凊佐の様子を見に行こうとした。けれど、自分のせいで怪我をさせた後ろめたさがあって、そのたびに足が止まった。

凊佐の方も、まるでそれを察したように、部屋から一歩も出てこない。お互いに様子が気になってはいたが、そのあいだには、妙に澱んだ沈黙が流れていた。


数日経ったある日。

暖色のポイントライトだけが灯った、静かな拠点の一角。凊佐は整備スペースでスーツの確認をしていた。そこへたまたま夜桜が入ってくる。目が合うと、自然と言葉が口をついて出てきた。



「ごめん。私を庇って」



凊佐は一度だけ視線を上げ、静かにこちらを見る。


「でも、無茶したよね。助けないでって約束したのに」


夜桜の言葉に、凊佐は工具を置いて答える。


「……成功だった。傷も浅い」


「そういう話をしてるんじゃないよ」


夜桜の語気が少し強くなる。「勝手に飛び出して、勝手に刺されて、それでうまくいったって、何それ?」


「最善の手段だった」


「最善って、あんたが死んでも?」


「死んでない」


「……!」


夜桜は拳を握る。


「そればっかり! いつもそうだよね。自分が傷つくのは想定内だって、他人がどれだけ心配してるか考えたことある!?」


凊佐は動揺しながらも答える。


「心配は……ありがたいと思う」


「思ってるなら……なんで、黙って勝手に突っ込んだりするの!」

「私だって怖いんだよ! 誰かがいなくなるんじゃないかって」

夜桜の声が次第に荒くなる。


「どうして、何も言わずに勝手に決めて、勝手に傷ついて……!」


息を飲んだ瞬間、言葉が一気に爆発した。



「もう、いい加減にして!!」



その瞬間だった。

凊佐の顔から、すっと血の気が引いた。


バチンとスイッチが切れたように、彼は目を見開き、ガクンと膝をつく。

両手で耳を強く塞ぎ、首を左右に振る。


「やめて……やめて……ごめんなさい……」


その声は、明らかにここにいない誰かに向けたものだった。

目の焦点が合っていない。


「……ごめん」

思わず呟いた声も、もう彼には届いていないようだった。


すると、凊佐はふらりと立ち上がり、部屋の隅に向かって駆け出した。バタン。ドアが乱暴に閉まり、わずかな隙間から、荒い息遣いだけが漏れてくる。


夜桜は、閉ざされた扉の前で、ただ立ち尽くした。怒ってなんかいなかった。ただ、心配だっただけなのに——

扉の前にしゃがみ込み、夜桜は何度も繰り返すように言葉を投げた。


「ごめん、ごめんね……」「驚かせたくて言ったんじゃない、ただ、自分を大事にして欲しくて」


返事はない。けれど、扉越しの気配で、凊佐がまだそこにいるとわかる。


「あなたに何かしてほしいとか、立派に戦ってほしいとか、そういうこと言いたかったんじゃないの」


沈黙。

それでも、夜桜は言い続けた。何度も、言葉を変えながら、震えながら、それでも。


どれほど時間が経っただろう。

扉の向こうから、小さな気配が動いた。何かがそっと近づくような音がした。

そして、


「……もういい」


低く、乾いた声。本当に「もういい」と思っているのか、それとも、これ以上責めないでほしいという意味なのか。

それは、夜桜にはわからなかった。

けれど、許されたとは言えなくても、返事が返ってきたことには、安堵した。

夜桜は、そっと額を扉に預ける。

何を返せばいいのか、やっぱりわからない。結局、コツン……と、小さな音を立てて、優しく一度だけ叩いた。

それが、彼女にできた精一杯の返事だった。

そしてそのまま、静かにその場を後にした。



凊佐は、扉の向こうに誰もいないのを確かめると、

力なく、その場に崩れ落ちた。

怒鳴られたこと自体というよりも、 自分が取り乱したという事実に、吐き出したいような嫌悪感を覚えていた。



朝。

食堂にはいつも通りの匂いと、変わらない配膳の音。夜桜は、手にトレイを持ちながら、半分息を詰めて席につく。

──いた。

凊佐は、もう席についていた。こちらに気づくとチラリと目線をよこしたが、何事もなかったかのように、スプーンでゼリーをすくいはじめた。


目線を自分の皿に戻し、食べ始める。

夜桜はスプーンを取ったまま、指先に少しだけ力が入った。味なんてしない。がとりあえず、きちんと口に運ぶ。


そんな中、ひときわ大きな声が食堂に響いた。

「おはよう〜〜〜!! 夜桜ー! 凊佐ー!」

トレイを持った大西が、ニッコニコで入ってくる。その瞬間、凊佐がわずかに肩をすくめ、スプーンを止めた。


「……バカっ。空気読めないの」

夏井が小声で大西の腕を引いて、眉をひそめる。

夜桜は何も言わず、トレイを見つめたまま、スプーンに手を添えた。


凊佐の方に視線を移すと、一瞬目が合い、彼は急いで視線を背ける。

明らかにこちらの機嫌を窺っているのがわかる。席から立ち上がろうとすると、彼がビクッと反応する。

彼は、今も怖がっている。怒っているんじゃない。怯えている。


夜桜は、何か言おうとして──やめた。言葉が喉の奥で絡まり、出てこない。

今、声をかけることで彼がまた壊れてしまいそうで、怖かった。


隣にいても、ひとつ壁を隔てているように遠い。

……私、何も知らないんだ。

彼が何を好きなのかも、泣くほど怖がっていることでさえ。

わかった気になって、ずっと隣にいたんだ。


そのとき、凊佐の手元のスプーンが、わずかに揺れた。

その音に、夜桜は、少しだけ顔を上げた。


***


同時刻。

拠点から離れたある場所で、調査ドローンが朽ちた建物の隙間を縫っていた。


「異常個体、確認できず。……ん?」


カメラに映ったのは、抉れて焦げたパルスの残骸。表面には、まるで拳のようなもので叩き潰された痕跡が残っている。


「なんで壊れてるんだ?」


ドローンのレンズが、遠くの高架をとらえる。ほんの一瞬、誰かがそこに立っていたように見えた。

風が吹き抜け、モニターにノイズが走る。

次の瞬間には、もう姿はなかった

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