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第1話 平安時代からお越しやす

 吹くよホイッスル平安京。日本で学生をやったことのある人間なら誰もが一度は聞いたことのあるワードだ。そんな語呂合わせが成立するほどに、平安時代の蹴球熱は凄まじかった。

 大同4年、5月。収容人数12万人超を誇る平安スタジアム(現、烏丸蹴鞠遺跡)は、熱狂の坩堝と化していた。それもそのはず、世界最強の蹴鞠リーグ、リーガ・ヘイアンニョーラの第38節、源マドリードとFC藤原の試合が執り行われているからだ。勝ち点で並ぶ両チーム、事実上ではなく事実、この試合の結果で優勝チームが決定する。盛り上がらない訳がない。

 エース、源光の欠場によって劣勢を予想された源マドリードであったが、控えゴールキーパーでチーム最年長の坂上田村麻呂をウイングに配置する奇策により、奇跡のラリーを連発。安定したラリーを続けるFC藤原に食らいつく。

 接戦に、観客のみならず選手たちもヒートアップ。必然、プレイも荒れる。左足で蹴るわ、鞠庭に背中を向けたまま蹴るわ、掛け声をサーで蹴るわ、両チーム計37枚のレッドカードが飛び交うギネスもびっくりの泥仕合。

 セカンドハーフ開始の時点で、両チームともベンチメンバーは全員、退場していた。監督もコーチも退場している。残ったのは、試合が続行可能な最少人数6人が2チーム分で、12人。次のレッドカードで敗北が決定する状況下、ファーストハーフとは打って変わってピッチ上の全員が作法を重んじだし、ここに世界一美しい蹴鞠が繰り広げられた。

 熱狂は、いつしか感動に変わっていた。スタジアムに居る誰もが、永遠にラリーが続けばよいと思っていた。しかし、終わりは全ての物事に約束されている。

 藤原冬嗣の右足が空を蹴り、FC藤原の蹴鞠は地に着いた。ラリー数、794回。1000年以上の月日が流れた今も破られていない、リーガ・ヘイアンニョーラの最多記録である。

 ネタバレがあったが、気を取り直していこう・・・・・・源マドリードもまた、794回のラリーを成功させていた。次の一回を成功させれば、優勝だ。

 勝敗を決する鞠は、まるで導かれるかのように天を舞い、ミッドフィルダー権上中田麻呂のそばへと落ちていった。

 京の都に住まう人々は、権上中田麻呂をこう呼んでいた。蹴鞠のファンタジスタ、と。

 Vゴール同然のフィニッシュを決めるために蹴り上げられた、足。それは、鞠に触れる寸前で、消えた。

 綺麗さっぱり、まるで最初からいなかったかのように消えた、権上中田麻呂。源マドリードサポーターの悲鳴が響き、FC藤原サポーターの歓喜が轟く。勝ち点で並びながらの引き分けは、すなわち、得失点差で優位にあったFC藤原の優勝を物語っていた。

 実に恐ろしきは、サポーターの暴走。戦犯である権上中田麻呂のタマを取っちゃると、多くの源マドリードサポーターが直刀を片手にスタジアムへなだれ込む。血眼だ。警備員ともみ合いながらも、暴徒と化した源マドリードサポーター6万人が血眼になって探している。しかし、権上中田麻呂の姿を見つけられる者は誰もいなかった。

 そうして、月日が流れる。リーガ・ヘイアンニョーラを制覇したことで力を得た藤原氏が歴史にある通り平安時代を牛耳り、平家がはっちゃけ、源氏が無双し、源マドリードが鎌倉マドリードとクラブ名を改めたころには、コアなマドリードサポーターでさえ、大同4年の悲劇を過去のものとしていた。

 時は不可逆、故に残酷。源氏物語にすら出てこない公家を、どれだけの人が認知していることか。歴史の闇に消えた権上中田麻呂、しかしこの令和の時代に、人々は蹴鞠のファンタジスタを知ることになる。

 全ての事象の摂理である、不条理。正しく不条理によって、権上中田麻呂はタイムスリップしていたのであった。


 平安京が夢の跡、京都市。そこに平安京はあるんか? 既に述べた通り、夢の跡だ。しかし、それでも京の都は美しい。文化の宝庫は、令和の時代に尚、輝きを放っていた。

 夕映えする桜の緑。葉陰から飛び出したウグイスが、鳴いた。

 かつては公家が蹴鞠に興じた庭も、今は庶民がサッカーに興じる公園だ。23区以外であれば、日本中どこにでもある広場同然の公園。その片隅に設置されたベンチで、一人の男がワンカップ酒を片手に俯いていた。

 男の名は、東郷ロナルド。スペイン生まれスペイン育ちの日本人である。

 不意に、サッカーボールが転がってきて、ロナルドの死んだ魚のような瞳に危険な光が宿った。

 「すいません!」サッカーに興じていた四人組の小学生、その一人が言った。「蹴ってください!」

 徐に立ち上がったロナルドは、拾い上げたサッカーボールを道路へとぶん投げた。

 「何をするの!?」小学生たちの悲鳴。「正気!?」

 「俺はなぁ!」酒気を帯びているも、酔いを感じさせない声だった。「サッカーが大嫌いなんだよぅ!」

 「イカれてんじゃん。YOUTUBEのヘイト動画に出てくる外国人かよ」

 そう言いながら、小学生たちはサッカーボールを取りに道路へ出て行った。

 どすん、とベンチに座り直し、本日8杯目のワンカップ酒を飲み干す。

 「ちくしょう! こいつももう空か!」空いたカップもぶん投げて、ロナルドは頭を抱えた。「ちくしょう・・・・・・死にてぇ」

 死にてぇと口に出して言う奴は大抵死なねぇ、などと決めつけて突き放してはいけない。ヘルプが必要だ。しかし、この世知辛い世の中にヘルプなんて・・・・・・。

 「死にてぇ、と仰いましたか? 辛いことがあったのなら、お話しを聞きますよ」

 あった。ヘルプがあった。キャペリンを目深に被った中年女性が、ロナルドに声を掛けたのだ。日本もまだまだ捨てたもんじゃないぜ。

 日本に来てから、否、この世に生れ落ちてから初めて他人に優しく声を掛けてもらえた。その事実に、心を温められて、ロナルドは身の上を語り始めた。

 「こんな汚らしいおっさんもね、若い頃はスペインのプロサッカーチームに所属していたんですよ。まあ、カンテラのベンチを温めていただけですけれどね。ユースの時分からずっとサッカー漬けで、サッカーを取ったら何も残らない男。そんな俺がね、23歳の時にアキレス腱をやっちまった。クラブは、レアル・レイカーズは、すんなりと俺を切ったよ。そこに恨みはない。カンテラーノといったって、パボンやらバスケスやらボルハやらといった宝石ばかりではないんだ。俺みたいな唯の石ころを、23歳まで信じてくれたレアルには、感謝している。選手としてのキャリアを断念した俺に、レアルの職員の席も用意してくれたしね。警備員だけどさ、サッカーしか出来ない俺には勿体ないほど良い仕事だったよ。感謝している。でもね、自分と同世代の選手たちがピッチ上で輝く傍ら、フーリガンとプロレスをやっているのは、精神的に辛かった。もっとサッカーそのものと密に関わる仕事がしたい、そう思うまでに時間はかからなかったよ。そこからは、猛勉強さ。フルタイムの警備員の仕事をしながら猛勉強。オフサイドのルールを覚えたとき以来、勉強なんてしたことのなかった俺が、睡眠時間を削ってまで勉強したんだ。そうして、サッカー学部のあるイングランドの大学に入学して、コーチングとスカウティングを主に学んで、卒業してからは大学院にも行った。当然、レアル・レイカーズ大学院さ。レアルに恩返しがしたい、そういう気持ちもあったからね。嘘じゃない。イングランドよりもスペインのほうが飯が美味いから、なんて不純な理由で里帰りしたわけでは決してないよ・・・・・・大学院に在学中、改めてレアルの職員として契約した俺は、マーケティング部門に配属となった。コーチかスカウトを志望していたから、肩透かしを食らった感はあったけれど、腐ったりしなかった。むしろ、結果を残して志望を通してやる! と気持ちが奮い立ったくらいさ。ちょうどその頃は、SNSが市民権を得た時期でね。爆発的に利用者が増え出したインスタやらを利用して、マーケティングの裾野は果てしなく広がっていった。俺はその時流に乗ってね、マーケティング部門にいた5年間は、俺の人生で最も成功した5年間になったよ。5年間も結果を出し続ければ、大抵の我がままも通るようになる。実際、俺が出した転属の願いは聞き入れられた。そうして、俺は晴れてレアルのスカウトになったわけだ。本音を言うと、コーチになりたかったんだけどね。まあ、上の判断も理解できた。SNSの扱いに長けている俺はコーチよりスカウトとしてのほうが価値が高い、その判断は理解できた。だから、すんなりと覚悟を決められたんだ。俺の残りの人生は全てスカウトとしてレアルに捧げる、ってね。現に、俺はレアルのために必死に働いたよ。日本で言うところの粉骨砕身ってやつさ。カタルーニャ地方のスカウティングを担当してね。バルセロナに滞在している時間が長かったから、レアルの終生のライバルであるBCバルセロナのスカウトとかち合うことなんて日常茶飯事で、本当、文字通りの粉骨砕身だった・・・・・・それなのに! それなのにだ! たった一度のミスで、レアルは俺を切り捨てた!」

 筆者ですら辟易するほどの長口上、それに付き合ってくれる天使がいる。そう、キャペリンを目深に被った中年女性と、読者であるあなただ。ありがとうを伝えたい。愛してます。

 「お続けになって」キャペリンを目深に被った中年女性が、ロナルドの隣に座り、手まで握って、言った。「辛くなければ、お続けになって」

 行きつけのスナックでだって、良い格好をしてしまうものだ。ありのままの自分を、ありのままの出来事を話せる機会なんて、そうそうあるもんじゃない。それが分かっていたから、ロナルドはこの機会を与えてくれた神に、初めて感謝した。

 「日本で言うところのコロナ、そいつが猛威を振るっていたころの話さ」ロナルドは、少し荒れた手を握り返した。「そのころは、選手のプレイを生で見たり選手と直に会ったりすることがほとんど不可能だった。男子三日会わざれば刮目して見よ、とはよく言ったもので、若い選手っていうのは少し見ないだけで全く違う選手になってしまうもの。良くも悪くもね。正しく、2020年は人類史上最もスカウティングが困難な年だった。それでも、俺たちはスカウトをしなくてはならなかった。若い選手は鮮度が命だ。練習も制限され、試合も制限され、しかし選手は一日一日と確実に老いていく。だから、外出が制限されるなかで、俺はSNSを活用して、選手の情報を集めたんだ。ありがたいことに、唾を付けておいた選手の多くはSNSで発信をしていてね。日常の個人トレーニングの様子、スキルや筋肉量などの維持あるいは向上、そういった情報はある程度、スマホの画面を通じて把握することができた・・・・・・それだけで満足していれば良かったんだろうがね。もともとアウトドアな人間が引きこもりみたいな生活を強いられたものだから、暇を持て余し、ついついSNSを使ってスカウティングの新規開拓を始めてしまった。それが運の尽きさ。忘れもしない。あれは、パエリアをデリバリーした水曜日の夜だった。俺は、一人の男の動画に釘付けになったんだ。信じられないようなスーパープレイの連続! ハイレベルなボールコントロールの連発! バレンシアの草サッカーを主戦場とする、当時20歳の無名選手。奴の名は、エン・ジョウ・ムテキナンデス。俺の人生を狂わせた、レアル史上最悪の問題児と呼ばれることとなる男だった・・・・・・SNSという肥溜めで、黄金を見つけた気分。まるで映画、プリティウーマンみたいなもの。そんな風に舞い上がった俺は、すぐさま、ジョウにDMを送った。レアルのスカウトだと名乗ったら、奴はすぐに返信を寄越したよ。そうして、初めて連絡を取り合ってから三日後、俺はオンラインでジョウの面談を行ったんだ。奴は、感じの良い人間を装っていたよ。その上、話し上手でね。身の上話まで聞かされた。今思えば、ちゃちな御涙ちょうだいだよ。父親を早くに亡くし、病弱な母親と幼い兄弟たちを養うために12歳の頃から年齢を偽って働いていて、サッカークラブに所属するような余裕はなかった、なんてね。これ、事後に分かったことだけど、全部嘘だったからね。父親は健在だったし、母親は超健康体だったし、ジョウは一人っ子だった。だけど、その時の俺は奴の言うことを鵜呑みにしちまった。SNS上でもジョウは悲劇のサッカー青年を演じていて、その狂言は完璧だったから、まんまと騙されちまった。そっからは、俺のパワープレイが炸裂さ。パンデミックの混乱に乗じ諸々の審査を免除しまくって、既にインフルエンサーとして一定の成功を得ていたジョウをマーケティング部門に売り込んで根回しを済ませ、捏造したスカウティングレポートをスカウト部門の上司に上げて、といった具合に出来ることは全てやった。そうして、俺はジョウをレアル・レイカーズ・カスティージャに迎え入れることに成功したんだ。6年契約130万ユーロで、だ。あの時の興奮を、俺は今でもはっきりと覚えている。スカウトなら誰だって、自分が引き上げた無名選手の成り上がりを夢見ているものなんだ・・・・・・契約を終えた後、夕日に染まるマンサナレス川をバックに、俺は奮発して買った新品のロードスターをジョウにプレゼントした。車じゃないよ、ピタ・バルセロナ、時計さ。そうして、俺は言ったんだ。俺の夢をお前に託す、ってな。感極まって、泣きながら、俺は言ったんだ。そうしたら、ジョウの奴、こう言ったんだ。俺はラウールになるよ、そうしたら、ロナルドにロードスターをプレゼントしてあげる、マツダのやつをさ、ってな。はにかみながら、ジョウは言ったんだ。そこが、ピーク。後は、あっという間に地獄へ転落。依然としてパンデミックの最中、制限付きのチーム練習に初めて参加したジョウは、びっくりするくらい、下手くそだった。コミュニケーションが、とかそういう話ではない。サッカーが、下手くそだったんだ。なんてことはない、簡単な話さ。動画でのスーパープレイなんかはたまたま上手くいったプレイを詰め合わせただけ。ボールコントロールを披露する動画は、自撮りの上手な奴と一緒さ、綺麗なんじゃなくて綺麗に見せるのが上手いだけ。要するに、ジョウは自己PRしか能のないクズだったってことだ。奴のサッカーは、アマチュアのなかで目立つ程度、プロで通用するレベルには到底なかったんだ。更に悪いことに、初めてのチーム練習の翌日、ネットの特定班がジョウの嘘を暴いちまった。悲劇のサッカー青年なんて全部嘘、中坊のころから親の金で女にクスリにと遊び放題、ってな・・・・・・完全にメッキが剥がれて、そこからのジョウの開き直りはすごかったよ。本性を隠さなくなって、やりたい放題さ。未成年と飲酒するわ、付き合ってる大食い系インフルエンサーと揉めてDVで訴えられるわ、それがW不倫だったと発覚するわ、ヘイトアカウントをフォローするわ、ギャングと白昼堂々ショッピングするわ、チームメイトの車をパクってマンサナレス川にダイブするわ、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。クラブ入団から僅か半年の間に思いつく限りのありとあらゆる不祥事をしでかしたジョウは、当然、クラブから退団を通知された。そうなると今度は不当な解雇だとしてクラブ相手に訴訟を起こすんだから、奴の面の皮の厚さには脱帽だよ、悪い意味でね。あの裁判は、どうなったのかな。途中からサッカー絡みのニュースは見なくなったから、分からねぇや・・・・・・それで、俺はというと、お察しの通り、レッドカード、一発解雇さ。確かに俺は馬鹿な過ちを犯した。ちゃんと自覚している。しかし、それは全て、パンデミックという異常な状況下で起きたことだ。正常な状況下であったならば、俺はジョウみたいな詐欺師まがいのインフルエンサーに引っ掛からなかったし、入団に際しての審査の免除だってまかり通ることはなかったんだ。俺だって被害者みたいなものだ。情状酌量の余地は十分にあるだろう。なのに、レッドカードって、せめてイエローカードだろ。俺は、ユースのころからレアルに尽くしてきたんだぜ。それを、レッドカードって、あんまりだ。人情がないにもほどがある・・・・・・さっきさ、レアルに感謝していると言ったけれど、あれは嘘だ。俺は、レアル・レイカーズを、心底、恨んでいる。許せねぇ。俺にはサッカーしかなかったんだ。ガキの頃から勉強もしないでサッカー、サッカー、サッカー。正に俺はサッカーサイボーグ。サッカーでしか生きられない、究極に不自由な人間。サッカーさえ初めから存在しなければ、他の生き方もあったろうに。そう、全部、サッカーが悪いんだ。サッカーさえ初めから存在しなければ、挫折も屈辱も味わわずに穏やかな人生を送れたんだ。俺の人生は、サッカーにぶっ壊されたようなもの。サッカーなんて、大嫌いだ。サッカーなんて、大嫌いだ」

 それは逆恨みっていうんだ、なんて正論を言ってはいけない。そんなことを言ったら、下手すりゃ刺される。では、どんな対応をとるべきだというのか? その答えを、キャペリンを目深に被った中年女性が自らの言動で示してくれた。

 「大変でしたね。本当に、大変でしたね」

 労わること、それが答え。労わることでしか、誰も救えない。伊達にキャペリンを目深に被ってはいない、人間を分かっている。

 許容されて、初めて、素直になれる。レアルを解雇されてから4年、初めて、ロナルドは泣いた。

 遠く故郷を離れ、マンサナレス川ではなく鴨川のせせらぎに乗せて、古都に響かせた男泣き。風情が、涙腺を更に緩めた。

 泣き止むまでに、五分を有した。その間、キャペリンを目深に被った中年女性は一言も口にせず、唯、ロナルドの手を握り続けた。

 「ありがとうございます。心が、少しだけ楽になりました」涙の最後の一滴をぬぐって、ロナルドは言った。「マリア様、と呼んでもよろしいですか?」

 「聖麻里愛と申します」キャペリンを目深に被った中年女性は言った。「本名です」

 「麻里愛様・・・・・・」

 ずっと、信仰を軽んじてきた。サッカーだけが自分の運命を切り開くものだと信じてきたから。しかし、サッカーを失い、愛を知った今、神こそが救いなのだと、悟る。

 ザビエルもびっくりの澄んだ瞳で、ロナルドは天を見詰めた。

 「今日限りで、酒はやめます。これからは、あなたに、そしてイエスに祈る」

 「私にもキリストにも祈る必要はありません」麻里愛は屈託なく微笑んだ。「他に祈るべき神がいます」

 虚を突かれ、視線を下す。嫌な予感が、した。

 「唯一の神、トラッシュトーク教の生き神様、オヤノワルグチデ・ポッシブル様に祈るのです。そうすれば、あなたはこの現世の全ての苦しみから解放されます」

 悪意が、なかった。善意だけで言っている。だからこそ恐ろしく、ロナルドの全身に悪寒が走った。

 「入信に100万円が掛かりますが、大丈夫です。審査なしでお金を貸してくれる優しい金融屋さんを紹介できますから。私も、その金融屋さんから入信や諸々の費用、2000万円ほど借りていますから、大丈夫です。さあ、私と一緒に救われましょう」

 初めに、虚無があった。そうして、怒りが生まれた。麻里愛はとんでもないものを盗んでいきました・・・・・・私の心です。

 ある種の、頂き女子。中年男性の天敵。ロナルドだって中年男性だ。だからこそ、怒った。ジョウに裏切られたときも、レアルに解雇されたときも、これ程までには怒らなかったぞ。

 「このババア!」握っていた手を乱暴に振り払う。「こちとらスペイン生まれのスペイン育ち、キリスト教の本場ぞ! 紛い物のカルトはお呼びじゃねぇ! 消えな!」

 中国の伝統芸能、変面。それに等しいスピードで、麻里愛の穏やかな顔は怒り顔に変わった。

 「地獄に落ちな!」麻里愛は中指を突き立てた。「この異教徒が!」

 そこから三分ほどファックユーを言い合って、最後には麻里愛がロナルドの胸を強く押し、ロナルドが拳を振り上げて、麻里愛は逃げるように公園を出て行った。

 非日常が去って、残るものは、堕落した日常。ロナルドはベンチに座り直し、本日9杯目のワンカップ酒に口を付けた。

 「死にてぇ・・・・・・」

 外で飲んだくれては悲壮感を四方八方に放出し、そんな生活も早4年。死にてぇ、死にてぇと、ちょっと大きめな声で言ってみたりして、早4年。その4年間で、彼に声を掛けてくれたのはカルトの勧誘が唯一人という、残酷。なんて国だ!

 絶望の上に、絶望。全てを諦めて、ロナルドは静かに目を閉じた。

 私を忘れないで、とは桜の花言葉だ。生け垣に隠れていた、萎れて泥まみれの花びらが、風にさらわれ、暖色の薄まるほうへと消えていった。

 不意に、香が漂った。線香よりも甘く、か細い香り。

 まどろみが、深まる。

 夢か現か、その曖昧なところまで落ちた意識に、甲高い叫び声が、届いた。

 「やめるでおじゃる! やめるでおじゃる!」

 目蓋が上がって、ロナルドの淀んだ瞳に映ったのは、三人の中学生に踏み付けられている束帯姿の男だった。

 「お金、持ってるんでしょ?」踏み付けながら、中学生が言った。「そんないかにも豪勢な格好をしてるんだから」

 「お金ならもう渡したでおじゃろう!」踏み付けられながら、束帯姿の男は言った。「皇朝十二銭でおじゃる! 物々交換しか知らない無知な庶民とはいえ、聞いたことくらいはあるでおじゃろう!」

 「馬鹿にしてんの? 二重の意味で」踏み付ける力を、強めた。「こんなおもちゃじゃなくてさ、札かカードかスマホを出せって言ってるの」

 「何を言っているのか分からないでおじゃる! ええい、近衛府! 近衛府は何をしているでおじゃるか!? 早く出てきて、このクソ餓鬼どもをたたっ切るでおじゃる!」

 「お前が何を言っているのか分からねぇよ」

 おっかない国だ、とロナルドは思った。暴行ありのカツアゲ、そんなもの、スペインじゃ見たことがないぜ。スリなら腐るほどいるけどさ。なんて国だ!

 関わり合いになっちゃならねぇ、と思ってしまう悲しき人間のサガ。他人のためにリスクを負う、冗談だろう? 俺はスマートに生きるんだ。他人なんて関係ないぜ。ノーリスクハイリターン、タイパとコスパの最強が賢い人間のあり方ってもんだ・・・・・・ほんとにそうか? ほんとにそうか? 俺を見ろ。人生のどん底から、助けてくれと声なき声を上げ、しかし世界中から無視されて、日に日に心がすさんでいっている。このままいけば俺は、切腹するか人を刺すか、二つに一つだ。それくらい追い詰められている。でなきゃ毎日ワンカップ酒を9杯も飲まねぇ・・・・・・無関心! 他人への、否、弱者への無関心! 赤の他人でしかない芸能人やらインフルエンサーやらには関心を寄せる一方で、目の前で苦しんでいる人をガン無視する、狂気的な無関心! そいつが、俺みたいなモンスター予備軍を生み出しているのではないか!? 他人なんてどうでもいい、そのメンタリティが、回り回って社会の、自分の首を絞めているのではないか!? ちくしょう! ちくしょうめぃ! それなら俺は、クズの螺旋を抜け出してやる! 世界中の全ての人間がクズだったとしても、俺だけはクズをやめてやる! 損得勘定なんざクソくらえ! 俺は、正しいことをする!

 「やめろや」ロナルドは、中学生たちに向かって、言った。「やめろや」   

 あっけに、取られた。中学生三人組、揃いも揃って、注意されたの初体験。半笑う。半笑って、仲間うちで顔を見合い、それから、ロナルドをまじまじと見詰めた。

 「あの、俺たちに言ってるんですか?」中学生の一人が、言った。「ウケるんですけど」

 「やめろや」一切のブレが無い言霊であった。「やめろや」

 事ここに至って、怒りが湧いてくる。何でやめろとか言われなくちゃいけない訳? 俺たち、楽しんでるんですけど。何で水を差されなくちゃいけないわけ? 人の楽しみの邪魔をするなって親に教わらなかったの?

 腸が煮えくり返って、三人のなかで最も沸点の低い中学生が、スマホを手に取り、そのカメラをロナルドに向けた。

 「晒すぞ」動画の撮影をスタートする。「中学生に絡んできたヤバい外人として、晒すぞ」

 「晒せや」中学生の声よりも更に冷たい、ロナルドの声だった。「失うものなんて何もねぇ」

 地震、雷、火事、親父。古の日本における恐怖の四天王だ。そう、古の、である。令和のコンプライアンスによって全てを失った親父など、もはや恐怖の対象に足り得ない。時代の必然として空いた四天王の一角の席、そこにダイナミックエントリーを済ませたのが、無敵の人であった。

 悪さを始めたばかりの中学生にとってみれば、ヤクザや半グレは未だにファンタジーな存在で、無敵の人のほうがよっぽど現実味を覚えるもの。得てして、お化けよりも人間のほうが怖いように、無敵の人は恐怖そのものだった。

 「晒されても一向に構わんて・・・・・・」手が震えて、スマホを落とした。「そんなん、ガチのやつやん・・・・・・」

 「逃げろ!」三人のなかで最も臆病な中学生が、叫んだ。「殺される!」

 一人、逃げた。僅かな躊躇があって、二人目も逃げる。後はエスニックジョーク通り、三人目もすぐさま逃げた。

 こうして、平和が訪れた。しかし暴力の痕跡は色濃く、上等な絹を汚す靴底の輪郭として見る者の目に焼き付いた。

 蹲ったままの体が一層、哀れを誘う。ロナルドは膝を着き、迷子をあやすような手で、束帯姿の男に触れた。

 「大丈夫かい、あんた?」

 「気安く触るなでおじゃる!」束帯姿の男は、ロナルドの手を払った。「麻呂は公家でおじゃるぞ! 身の程を知れでおじゃる、この庶民!」

 酷い話じゃないか。ピクルス抜きのハンバーガーを注文したらセットのポテトをキュウリスティックにすり替えられたようなものじゃないか・・・・・・つまり何が言いたいかというと、助けた亀にシバかれたようなものだよね、ということです。

 助けた亀にシバかれて、気持ち良くなれる浦島太郎はいない。ロナルドの同情心が霧散したのも、やむを得ないことだった。

 「体に布を張り付けたような格好をしおってからにでおじゃる!」現代人の主だった衣服、Tシャツとチノパンを指差して、束帯姿の男は言った。「体のラインが丸見えでおじゃる! なんたる恥知らずでおじゃるか! 宮中でそんな格好をしたら、碁石を投げ付けられるでおじゃるぞ! まともな着物も買えぬほど貧しいとはいえ、やって良いことと悪いことがある! それなら裸のほうがまだ上品でおじゃる!」  つくづく、人間が嫌になった。礼を言われたかったわけじゃない。世知辛い世の中で、ポジティブな反応が約束されているとは露とも思っていないさ。けれども、ファッションをディスられることになるっていうのは、予想の斜め上を行っている。俺、君を助けたんだよね? そりゃあ、Tシャツもチノパンもヨレヨレだけどさ、裸以下なんて言われる謂れはないよ。ねぇ、君、俺に助けられたんだよね? 君が俺を傷付ける道理がどこにあるの? もう、嫌。もう嫌。人助けなんて二度としねぇ。

 中年の心に残っていた最後の純真を汚されて、ロナルドが浮かべた笑みは、悲哀すらも失った虚無であった。

 束帯姿の男が、立ち上がる。小さい。田舎のお婆ちゃんを彷彿とさせる背丈だ。それでいて、顔はデカいぞ。五頭身? 五頭身半だ。

 束帯姿の男の、面構え。一言で言うなら、バカ殿だ。真っ白な肌、デカい眉、真っ赤な唇、バカ殿だ。差異をあげるとすれば、額より上。ちょんまげスタイルではなく烏帽子スタイルだ。

 着物についた汚れを、はたく。はたいて、はたいて、まだはたく。綺麗好きの神経質だ。砂粒の一粒さえ許容しない。

 「あのクソ餓鬼ども、絶対に許さんでおじゃる」罪を憎んで人も憎むタイプだ。「弾正台に通報してやるでおじゃる。三人そろって斬首刑になればよいでおじゃる」

 おめえのツラはもうみたくねえ、そう思って、ロナルドは立ち去ろうとした。正にその時、サッカーボールが、転がってきた。

 「やばい!」学ばない小学生たちが、叫んだ。「またあの外国人だ!」

 ロナルドの死んだ魚のような瞳に危険な光が宿った。

 「俺はなぁ! サッカーが大嫌いなんだよぅ!」

 言うや否や、サッカーボールに手を伸ばす。鰻つかみ名人も顔負けのスピードだ。元カンテラーノの肩書きは伊達じゃない。

 指先がヘキサゴンに触れた、刹那に、感触が消える。

 奪われたサッカーボールを目で追って、そこで繰り広げられる光景に、ロナルドは言葉を失った。

 束帯姿の男の、リフティング・・・・・・リフティング? いや、これはそんな生易しいお遊びじゃない。これは・・・・・・。

 「バカ殿みたいなおじさん、ボール、返してよ」小学生の一人が、言った。「そんな全く動きのない地味なリフティングとかいらないから。バズらないよ」

 『分かっていない! この小学生は何も分かっていない!』ロナルドは心中で叫んだ。『全く動きのないリフティング、そんなものはこの地球上に存在しない! 動く! リフティングをすれば、体は動く! それが必然! メッシも、ロナウドも、クリスティアーノのほうのロナウドも、微動だにせずにリフティングをするなんて不可能! 球体だぞ! 球体を扱っているんだぞ! そりゃ軌道もズレる! ブラジルの街を歩いて、目に付く全ての時計の時刻がズレているようなもの! それが摂理! 納得できない奴は、今すぐ球を手に取ってみろ! ボールアレルギーだというのなら、オレンジでも構わん! ほら、どうだい!? ズレるだろ、これ、絶対! コントロールできないだろ、これ、絶対! ニュートンの類を持ち出すまでもないわ!』

 「そもそもリフティングって意味ないから。予測検索で見たことあるから」

 『分かっていない! この小学生は何も分かっていない! ネットに毒されて、本物を見分ける目が曇っている! 既に百回近くもボールにタッチして、右足はずっと地面すれすれで上げたまま、文字通り微動だにしていない! 軸足の左ももちろん不動! 下半身だけじゃない、上半身にも動きが全く見られないぞ! 背すじピーン! よく見れば、右膝もピーン! 全身ピーンで、唯々、つま先で球を弾き続けている! 恐ろしや! ボールだけが運動をしているじゃないか! 恐ろしや! ニュートンも真っ青! これをリフティングと呼称することはナンセンス! これは、禅に類似したナニカだ!」

 羽ばたいていたウグイスが、束帯姿の男の肩に止まった。過去、無数の止まり木を利用してきたウグイスである。そんな奴が、余りの居心地の良さに、うたた寝を始める。

 ロナルドの感性は、正しい。正しく、束帯姿の男は無の境地にあった。

 「マジで、本当に、返してよ」小学生の一人が、泣き出した。「お年玉で買ったんだよ、そのボール」

 「庶民のものは公家のもの、公家のものも公家のものでおじゃる」

 無の境地から発せられた言葉は、無慈悲であった。

 泣けば全て自分の有利に転がる、そんな十年間の成功体験を全否定されて、小学生は生れて初めて地団駄を踏んだ。

 図らずも上った大人の階段。泣き落としの次のステージは、そう、暴力による現状打破である。

 「殴ってでも取り返す!」

 叫ぶや否や、束帯姿の男に殴りかかる。義理堅い小学生がそれに続き、流されやすい小学生も続き、残った小学生はエスニックジョーク通りに続いた。

 小学生四人組の平均身長は140センチメートル。小学四年生らしい、子供の体格だ。しかしながら、前述の通り、束帯姿の男は小柄。140センチメートルの体が殺傷能力を有するシチュエーションだ。

 四体の栽培マンに一斉攻撃を仕掛けられたらどうなるか? どうしようもない、ヤムチャの末路だ。束帯姿の男が地に伏すのは定められた神の計画、そう確信して、十字を切ろうとしたロナルドの右手は、左肩に触れたところで、止まった。

 驚愕! 回避している! 束帯姿の男が、小学生四人組の攻撃を全て回避している! 相も変わらず右足でボールを弾きながらだ! ウグイスもうたた寝をしたままだぞ!

 回転するバレリーナを想像してほしい。体の正面が北を向いていると思ったら次の瞬間には東を向いている、あれだ。まず、小学生が束帯姿の男の顎目掛けてパンチを繰り出す。パンチが打撃の体を成すころには、顎は回転によって別の位置にあり、パンチは空を切る。当然、肩をつかもうとしても同じこと。空しか掴めない。それならばと、痛め付けることは諦めてボールの奪取を試みるも、これも無為。常軌を逸したボールコントロールによってボールは常に右足の上空にあり、それすなわち回転の軌道上を移動している訳だから、触れることすらかなわない。そういった訳で、驚愕の回避は事象となって繰り広げられたのであった。

 この回転、バレリーナが回転軸の先端をつま先とするのに対し、束帯姿の男は踵を回転軸の先端としている。足の裏は決して見せない、蹴鞠に見る慎ましさだ。そうして、この回転の最も驚くべき点は、予備動作無しで回転している、ということ。予備動作無しのファンタジーであるならば、反作用が無いのもまた道理。詰まる所、束帯姿の男が望む限り回転は持続するのである。正に無の境地。倫理観も無し、予備動作も無し、反作用も無し、無い無い尽くし。無とは、無限とイコールである。不可能は、無い。

 過呼吸。生まれて初めての、過呼吸。選手としてスカウトとして、星の数ほどのサッカー選手を見てきたが、これほどまでにインパクトの強いプレイヤーは見たことがない。故に、過呼吸。

 ロナルドの瞳に、先程までとは違う光が宿った。

 十分間にも及ぶ猛攻もむなしく、小学生たちがサッカーボールを取り返すことはなかった。

 肩で息をする小学生たちを横目に、回転を止めた束帯姿の男は涼しい顔で、尚もボールを弾き続けた。

 「どうして、どうして・・・・・・」義理堅い小学生が言った。「触れることすら出来ないんだ?」

 「柳のようにしなやか、コサメビタキのように軽やか、四万十川のように穏やか、故に掴み所なし」ロナルドが言った。「君たちの手には負えない。俺が、ボールを取り返してやろう」

 アキレス腱の手術をしたのは二十年以上も前の話。今も雨の日はうずくが、機能的には怪我の前と変わりない。むしろ、酷使しなくなった分、選手時代よりも状態が良いくらいだ。昔とった杵柄も相まって、今のロナルドこそがピーク。勝算は、ある。

 母親の胎内にいたころから、間に入れ! と声を出してきた。つまり、ロナルドは生粋のDFなのである。勝算しか、ない。

 『回転による回避、バレリーナみたいなものだ』ロナルドは、全てを理解していた。『角を狙ってはいけない。軸をつぶす、これが勝利の絶対条件』

 過去、レッドカードと引き換えに数多のエースプレイヤーをピッチから追い出してきた。足をつぶすことなど、御茶の子さいさい。

 「俺のサッカーを見せてやるぜ! くらえ! 殺人スライディング!」

 技名を叫び、すぐさま有言実行、スライディングを繰り出す。すごい勢いだ。くるぶしを折りにいっている。正に殺人的。

 小学生たちが悲鳴を上げた。それくらい、ロナルドのスライディングは束帯姿の左足に接近していた。

 恐怖の余りに、流されやすい小学生は両目を強くつぶった。そうして、骨が折れる嫌な音がいつ響くかと怯えながら待つ。

 待って、待って、待って・・・・・・春を待つウグイスよりも待って、しかし一向に、静寂。

 流されやすい小学生は、恐る恐る両目を開いた。そうして、瞳に映った光景は、スライディング終了時のモーションのまま顔面蒼白となっているロナルドと、平然とボールを弾き続ける束帯姿の男だった。

 「何が起こったの?」流されやすい小学生は、言った。「ナニが?」

 「多分、スライディングを回避したんだと思う」義理堅い小学生が、答えた。「速すぎて見えなかったけど」

 「すり足だ」ロナルドが、更に答えた。「すり足で回避したんだ。恐ろしいまでに高速なすり足で。その証拠に、奴の足元を見てみろ」

 ロナルドの言う通り、束帯姿の男の足元には、相撲部屋のすり足稽古に見る痕跡があった。

 「クグヒと称された麻呂の足さばきを目で追うとは、褒めてやるでおじゃる」束帯姿の男が言った。「しかし、貴様のスライディングは鈍重でおじゃったな。牛車だってもう少しスピードが出るでおじゃるよ」

 自負。ロックマンよりもスライディングをしてきたという、自負。それを侮辱されて、ロナルドは怒り狂った。

 そうして放たれた、スライディング百連発。その全てをすり足で回避され、後はもう恥も外聞もDFの誇りも捨てて、両手でボールを奪いにいく。この時点で、小学生たちの二の舞になることは確定した。

 全ての体力を使い果たし、ロナルドは四つん這いになった。乾いた喘ぎが空気を激しく揺らす。胸部と脇腹の激痛が度を越えている。流れる汗は滝のようで、水たまりが出来てしまう。

 文字通りの満身創痍で、どうにかこうにか力を振り絞り、顔を上げる。疲労感ゼロでボールを弾き続ける束帯姿の男を瞳に映して、ロナルドは、笑った。

 「小学生たちよ。俺がサッカーボールを弁償しよう」笑いながら、ロナルドは言った。「いくらだ?」

 「10000円です」税込み7150円で購入したサッカーボールであった。「税抜きで」

 「付加価値税、日本でいうところの消費税は、何パーセントだったか?」ロナルドは懐から財布を取り出した。「2パーセントくらいだったか?」

 「10パーセントです」

 「自己責任の国にしては、重いな」

 ロナルドから札を二枚受け取って、小学生たちはそそくさと公園から出て行った。

 「君のお名前をお伺いしたい」完全に息が整ってから、ロナルドは束帯姿の男に言った。「君の名は」

 「無礼でおじゃろう!」束帯姿の男は激怒した。「まずは平伏するのが筋でおじゃろうが!」

 「申し訳ございません。ヘイフク、とは何でございましょう?」

 「頭を下げろと言っているのでおじゃる! これだから庶民は!」

 元プロサッカー選手という肩書が、ロナルドのプライドを高くしていた。レアルの職員時代はもちろん、無職の現在でさえ、人に頭を下げるなんてこと、考えたことすらない。俺は特別だ、と信じて疑わない中年。そんな男が、股関節が脱臼する寸前まで頭を下げる。

 『このクズ野郎は百年に一人の逸材だ』歯を食いしばりすぎて、血が滲んだ。『このクズ野郎を利用すれば、俺は再びサッカーの世界に返り咲ける』

 「汚いお辞儀でおじゃる。しかし、これが庶民の限界でおじゃるな。麻呂の寛大な御心で、許容してやるでおじゃる。ほれ、庶民よ。名乗るがよい。麻呂が許す」

 「東郷ロナルドと申します」怒気を悟られぬよう、頭を下げたまま、言う。「帰化して三年になる日本人です」

 「麻呂の名を聞きたいと申しておったでおじゃるな、ロナルドよ。喜ぶでおじゃる。高貴な名を、貴様の下卑た耳に届けてやるでおじゃる」事ここに至ってようやく、束帯姿の男はボールを地に落とし、そうして、目を覚ましたウグイスは天高く飛び立った。「左ウイング大臣、権上中田英麻呂が嫡男、権上中田麻呂でおじゃる。何を隠そう、蹴鞠のファンタジスタ、とは麻呂のことでおじゃる」

 「権上中田麻呂様」いつの間にか、お辞儀は土下座になっていた。「あなた様を優れたフットボールプレイヤーと見込んで、お願いがございます。どうか、どうか、この卑しい私めに、お力をお貸しください」

 「麻呂のすり足を目視できた褒美でおじゃる。申してみよ」

 「世界最高峰のサッカーリーグ、ラリーガを制覇してくださいませ」野心が、言葉を言霊に変えていた。「私が代理人となってあなた様をサポートいたします。どうか、どうか、あなた様の神が如きボールコントロールで、サッカーを終わらせてくださいませ」

 これは、蹴鞠がサッカーを終わらせる物語。伝説が、今、始まる。蹴鞠のファンタジスタ、キックオフ!

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