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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

五秒で考えた設定で書いてみた

王太子殿下は婚約破棄にお心を寄せられたようです

作者: ごっこまん

「婚約破棄」


 王太子殿下は、ふと思いついたように呟かれました。


 ぼんやり屋の私は、お茶を口につける直前、固まってしまいました。遂に来た。殴られながら許しを乞っていた記憶と重なります。カップの中で揺らぐお茶の中、私の固い顔がぐにゃぐにゃしていました。


「……というのが、流行っているのかい?」


「へっ? あ、ええ……その……」


 どうやら殿下は、軽い話題のつもりで、婚約破棄とお口にされたようでした。二人の関係を清算する重々しさよりも、軽やかなご関心が、ご尊顔に書いてありました。


 お顔色を窺ってビクビクする私が情けないです。公爵家の末席を汚す傍流も傍流の泡沫貴族の息女にすぎない私なんかが、こうして王太子殿下の婚約者となったのは、何かの間違いとしか思えません。


 乱暴な男爵と婚約を結んでいた頃に戻りたいとは思いません。視察中の事故でお隠れになったと聞いたときには胸を撫で下ろしました。が、それも束の間、こんな胸の詰まるご機嫌伺いを強いられるなら、あれとは真逆の殿下と睦むのも考え物でした。


 殿下のお近くに侍っていると、一挙手一投足に神経を削ります。


 その話題が出たのは、昼下がり、婚約者同士水入らずで開いたお茶会でのことです。


 水入らずとはいえ、バラ園の四阿(あずまや)です。バラの茂みの奥では、殿下の親衛騎士たちが静かに武者の瞳を光らせています。


「何か思い出さないか?」


 と、造成したばかりのバラ園を、殿下がお披露目くださった折です。お心尽くしに咽び泣くのが手本なのでしょうけれど、ぼんやり屋の私には、殿下のおっしゃっている意味が、よくわかりませんでした。思い出すとは何のことでしょう。殿下は、バラ園の感想をお求めではないのです。


 不肖この私、連想にかけては人一倍頭が回ります。回りすぎて顰蹙を買うくらい。


 ふと、殿下の黒い噂を思い出しました。よもや、バラの木の下に死体が埋まっているとは、ゾッとしません。また一段と香るバラなのも、何とも死臭を誤魔化せそうで。また花弁の赤が、血を吸ったように鮮烈なこと。


「お綺麗ですね」


 苦し紛れに、当たり障りなく褒めたつもりでしたが、殿下を酷く落胆させてしまって、私は明日の朝日が拝めないかと気を揉んだものです。


 何日か朝日は拝めました。


 そしてその何日か目、「婚約破棄」と、口にされたのでした。


 恥ずかしながら、私は急に緊張したものですから、乾いた喉を湿す暇を頂戴しました。


 珍しく、私に一日の長がある話題でした。少しだけ、わくわくします。


「市井の方々が、語り聞かせている物語の題材にございます」


 晴れの日に、諸侯の面前で婚約破棄を告げられることから始まる物語。私は畏れ多くも、古今東西の芸術や伝承にお詳しい殿下に、その物語の肝をかいつまんでお伝えしました。


「ふむ。劇的な展開や逆転の連続か。観覧者の心を掴む工夫が冴えている」


「ええ。私も不教養と知りながら、ついつい聞き入ってしまいまして……」好きな物にご好意を寄せていただけると、やはり嬉しいです。「真面目なテーマを扱っていても、登場人物が真剣でも、どこか思わず笑ってしまうような展開ばかりで……」


「確かに。作者の想像する王宮は、僕らには思いも寄らないものだ」殿下もお年にご相応なご失笑をなさいました。


 こうして他愛もないお話をなさっている間は、私も殿下と過ごす時間が愛おしいのですけれども。


「大体、その物語の王子たちも……仮に婚約者が目障りになったのなら、もっと優れた方法をとれば良いものを」


 あ、始まるな。と直感しました。殿下は私を怖がらせるのがお好きなのかと、憚りながら上奏したくなりましたが、ぐっと平気な振りをします。


「まず身の程知らずの小娘に心奪われて婚約破棄するパターンだが……」


 長いので、要約しますと。


 殿下が同じお立場なら、婚約者を病に見せかけて毒殺なさるとおっしゃいました。


 甲斐甲斐しく、愛しの婚約者を看病したものの、病魔はどんな医者の手にも負えず、愛しの君は殿下の腕の中で、静かに息を引き取ります。


 長い看病の心労を、影ながら支えていた存在として、小娘を置くというのです。


「これなら各方面に角が立たず、新たな婚約者を迎えやすいとは思わないか? 悲劇の王子は同情を集めやすいし、王子を支えた献身は、小娘を傍に置く免罪符になる。良くない噂は立つだろうが、死人に口なし、人の噂も七十五日と言う。何とでもなるだろう」


「お、お手並み鮮やかでございます」


 笑顔が引きつるのを感じ、私は扇子で口元を隠しました。


「しかし、畏れながら……一介の令嬢が身一つで障害を乗り越えるのが物語の核心ですから、こう……もっと手心があっても……」


 しまった、と思いました。つい殿下に逆らう意見を述べてしまった悪い口を押さえましたが、声は口に戻りません。


 にもかかわらず、殿下はニコニコと、王族の仮面を脱がれたようにくつろいでいらっしゃいます。


「へえ、そういうものなんだね。障害は巨大かつ狡猾であればあるほど良いと思ったのだが……どうにも僕は理解が足りない」


「いえ決してそんなことは……」


「お世辞は要らないよ。僕と君の仲だ。君の好きなものを、僕はもっと深く理解する義務がある。当然だろう?」


 勿体ないお言葉です、と申し上げるには、殿下のご心情はいささか重いのです。


「ご歓談中、ご無礼を」


 親衛騎士でした。殿下は少し不機嫌そうに「何だ」と進言をお許しになりました。親衛騎士が耳打ちする内容が、しっかり聞こえました。私は殿下のことになると、特別五感が鋭くなるのです。


「コーバル子爵令嬢が病没なされました」


 息を呑む私を置き去りに、殿下は淡々と処されました。


「そうか。残念だ。彼女には僕もシルビアも何かと世話になった。取り急ぎコーバル子爵家に弔電を、定型文で良い。式の補助と献花の手配を忘れるな。僕は弔辞を考えておこう」


 親衛騎士は一礼し、バラの茂みに帰っていきました。


 私の胸に、わだかまりを残して。


 コーバル子爵令嬢は、その、私に色々と構ってくださったお方です。本当は殿下とご親密な関係になりたかったようなのですが……。


 殿下の冷徹なご相貌が、愛らしさを帯びました。


「興を冷ましたことをお詫びするよ」


「い、いえ……お構いなく……」


「シルビアは優しいな。お茶が冷めてしまったね。テリケから取り寄せた新茶があるよ。一番煎じを淹れるね」


 愛らしい笑顔が、怖いくらいです。


 実際、殿下は暗い噂の絶えない殿方であらせられます。権力争いに明け暮れた王室のご兄弟の中で、最も王位継承権の低いのが殿下でした。それが、瞬く間にご兄弟を亡くされて、立太子を勝ち取られたのでした。


 諸侯の想像をくすぐるご経緯です。


 事実、殿下は、欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばない訳ではございません。ただ、欲しいものを手に入れるためなら、誰もが思いも寄らない、思いついても実行しない、ある種の最善手を打たれる。


 悪い噂が立つのも無理はありません。私もその噂に踊らされています。


 例えば、私は本命の婚約者を娶るまでの露払いで、くだらない立場の割に合わず強い家名が便利だったのだと、殿下に告げられても、私自身納得してしまうでしょう。


 用済みになれば、用済みに、なってしまったら……。


 頭が、ガツンと痛くなりました。私は殿下の御前で粗相をしないように、努めて笑顔を作りました。


 ポットにお湯が注がれて、茶葉が踊る様が、私の心の掻き乱されようを真似ているように見えます。


 新しい茶葉を蒸らしている間に、殿下は婚約破棄のお話をお戻しになりました。


「それから、単に婚約者が疎ましくなったパターンなら……」


 長いので要約します。本日の殿下は、いつになく饒舌であらせられたのです。


 やはり毒殺が一番に挙がりましたが、それだけでは芸がないと、殿下はおっしゃいます。


 なので、適当な貴族の跡取りをあてがわせるのはどうだろうと、ご提案なされました。


 その貴族が治める領地の視察という名目で、婚約者二人が静養に訪れる。王子は跡取りと口裏を合わせて、婚約者と跡取りが二人きりになる機会が多くなるように立ち回る。


 王子は婚約者の好みや性格を知り尽くしています。なので、跡取りに彼女のツボを伝授するのも容易です。


 やがて、何かの間違いが起こります。


 王子は二人の間違いを鷹揚に許し、跡取りが負い目を感じないように御自ら下がり、彼こそが婚約者に相応しいと、思わず誰もが唸るようなエピソードを捏造し、喧伝します。


 晴れて婚約は解消。王子が二人の婚約を祝福し、一件落着……。


「人目にさらして、婚約者に恥をかかせるなんてどうかしている。反意を芽生えさせると面倒だ」と殿下。「王子に負い目を感じさせた上で不問とし、不貞の二人を祝福する。王子は永遠の忠誠を、その夫婦から得る……どうかな?」


「し、深謀遠慮に感服いたしました」


 目が泳いで見るからに怪しかったので、私はバラを眺めることにしました。四阿から望む景色は四角く区切られて、額縁のようです。絵になる庭園でした。私は無意識に、テーブルを指でなぞります。四角く区切って、その中で風景をスケッチします。


 テーブルをトントンと、指で叩くのは、イライラしているようにも見えたことでしょう。


「……すまない。僕ばかり舞い上がってしまった」


 殿下を謝らせてしまった不敬に、私は心臓が止まりそうになりました。


「いえ全然そんな!」


 それが、良い刺激になったようでした。


 さきほどの殿下のアイデアは、実のところ、私の想像力に一石を投じるものだったのです。


「いえ、お待ちを……あら、これは、本当に、大変興味深い展開ですわ。アレンジの幅も広そうです。婚約者を厭わしく思う王子が、どうして婚約者の好みの子細を把握できるのでしょう? この二面性、何かありそうですわ。それに婚約者と跡取りのやり取りは、ロマンスにもコメディにも転がりそうで……婚約者の自由度が高いのも、面白くできそうです。絶妙に詰めが甘くて、物語がふくよかに広が……る……」


 何てことを。


 私はよりにもよって、殿下に向かって“詰めが甘い”などと、偉そうに。


 私は必死に頭を下げました。怖くて怖くて、殿下のご尊顔を見れません。閉じた扇子ごと、ドレススカートを握るくらい、粗相に下る罰が怖かったのです。


 しかし、失礼を犯した私に、殿下は「急にどうしたの?」とお気遣いくださるのです。その優しさがますます恐ろしく、よせば良いのに、私の口は正直に白状してしまいました。


「で、殿下のご意見に“詰めが甘い”などという誹りを……私は身の程を弁えず……」


「何だ、そんなことか」


 殿下は子犬のいたずらを愛でるように微笑なさいました。


「君は何も気にしなくて良いんだよ。君の正直なところが、僕は好きだ。君自身の好きなことに対する正直さなら猶更ね。……それにしても、やはり生兵法は怪我のもとだね。不慣れな手を打つなら、もっと学んでからにすべきだった」


 不慣れとは、まるで慣れた手があるようなおっしゃいようではありませんか。


「い、いえ、殿下のご意見は新鮮で、私は楽しゅうございます」


「気に入ってくれたようでよかった。シルビアが忌憚のない意見をくれたおかげだよ」


「め、めめ、滅相もございません……」


「ご歓談中、ご無礼を」


 親衛騎士でした。殿下はまたも少し不機嫌そうに「何だ」と進言をお許しになりました。親衛騎士が耳打ちします。


「ブロン男爵ご令息、並びにスチル辺境伯ご令嬢より、結婚披露宴のご招待が届きました」


「喜んで出席しよう。結婚祝いは私が選ぶ。ご両人が抱えている商人を召喚せよ。二人の興味や生活環境に合わせてやりたい。……まあ、履き初めの靴が良いか」殿下は何がおかしいのか、柔らかく微笑まれました。「間もなく生まれるんだからな」


 親衛騎士は一礼し、バラの茂みに帰っていきました。


 私の胸に、二つ目のわだかまりを残して。


 スチル辺境伯令嬢も、コーバル子爵令嬢と、似た感じのお方です。殿下とお近づきになりたい女性の一人でした。履き初めの靴とは、新生児の足腰が丈夫に育つようにとの願いを込めて贈る代物です。


 きっと、婚前に交わられたのでしょう。


 ふと、殿下は思案気に俯かれたかと思うと、「待て」と親衛騎士を呼び留めました。親衛騎士に追伸を述べる前に、私へちょっと、はにかんでおられました。


「“詰めが甘い”んだったね」


 殿下は私に確認するように一言置かれて「ワインも送ってやろう。バトラーに伝えろ。祖父の没年の一本を。それで伝わるはず……」


「あ、ああの!」


 思わず私は立ち上がり、テーブルまで跳ねてしまいました。はしたないことですが、力尽くで揺れを治めます。


 殿下と親衛騎士の、きょとんとした視線が恥ずかしいです。


 ですが、ここは勇気を振り絞るべきときでした。


「ででで殿下、畏れながら、あの、身重のご夫人に、そのう、酒精を含む物は、ふふ、不適切、かと、存じます……!」


 悪い予感がしました。殿下は、新郎新婦に毒入りのワインを贈ろうと思い直したように聞こえました。殿下のおっしゃった「不慣れな手」が言外に示す常套手段の一つ、それがご祖父様の没年のワインのように思ったのです。


 発想の飛躍、本の読みすぎ、殿下のご本心を深読みしすぎ、どれでも結構です。ただ、貴族社会の暗みを理解しているであろう私たちはともかく、お腹の赤ちゃんまでまで撒きこむ手段は、私の身に代えても見過ごす訳にはまいりません。


「シルビア」


「ひゃい!」


 ああ、今度こそダメかもしれない。そう思って目を瞑りましたが、反対に殿下は明るくいらっしゃいました。


「その視点が抜けていたよ! 僕としたことが、危うく恥をかくところだった! ありがとう、君はいつも僕を助けてくれる!」


 何だかわかりませんが、逆に私が助かったことだけは確かなようでした。ぺたん、とお尻が椅子に落ちました。


 今度こそ親衛騎士を下がらせた後、殿下の冷徹なご相貌が、愛らしさを帯びました。


「興を冷ましたことをお詫びするよ」


「いえ、お構いなく……あの、わ、私からも何か、代わりに消え物を選んで、お祝いを……したく……」


「シルビアは優しいな。僕は君のような婚約者と巡り会えて、幸せ者だ」


 温かな笑顔が、凍えるくらいです。殿下は社交儀礼もそこそこに、婚約破棄のお話をお戻しになりました。


「逆に、王子と結ばれると婚約者に不利益が生じるため、あえて婚約を解消するパターンもあるんだね。これはまだ見どころがあるけれど、僕に言わせれば二人の信頼を甘く見て……」


「あ、あのう……一つよろしいでしょうか」


 畏れ多くも王家の血筋の方のお話を遮るのは不敬の極みですが、私はそれ以上、殿下のペースでお話を頂戴してばかりではいられない気持ちになりました。殿下がお話しなさいますと、不吉なことが現実になるような気がしました。


 そんな私を面白がって、殿下は続きを促します。


 切れ長の目にまじまじと見つめられると、タカに狩られるネズミの心地が理解できそうです。私は目をつむり、心の読書愛好家が騒ぐ勢いに任せ、一息に申し上げました。


「殿下のお考えも素晴らしく興味深いものですが、どうも婚約破棄という、物語上のイベントから逃げていらっしゃるようにも見えます。婚約破棄から始まった物語談議でございますれば、婚約破棄が行われる前提でお考えになるのが醍醐味かと存じます」


 私にしてはよく挑発できました。殿下がたびたびお示しくださる慈愛が、私を少し強気にしてくださったのかもしれません。


 果たして殿下は、ご興味をお示しになりました。


「シルビアの言う通りだね。僕の話は物語のリアリティから離れて、単なるリアルに貶めてしまっていた。ごめんよ」


「おっ、畏れ多いことでございます!」


「でも、婚約破棄が実際に行われる前提か……」


 新しいお茶を、殿下が手ずから注いでくださいました。その後、殿下はご思案に耽られます。カップから昇る湯気は流れ、鳥がバラを歌いました。


 心の奥底に、私は淡い期待を抱いていました。


 殿下が口にする不吉が現実になるとは、本気で考えてなどいません。殿下はなすべきことをなされているだけでしょう。ですが、もしも、もしもです。婚約破棄という前提でお話をなさった暁に、私との婚約をなかったことにする、という流れが生じれば……。


 私は、胃を潰す前に、殿下とお別れできるのではないでしょうか。


 平穏な日々を取り戻す。何と甘美なことか。……もはや、とんと思い描くには頭が痛くなるくらい、遠い日々のような気がします。


 やがて、殿下が困ったようにお口を開かれました。


「難しいな。そうなると、宮廷を舞台にする必要がない……と言うよりも、もはや、宮廷で起こる出来事としては色々と考証が杜撰としか言いようがない……」


 とても、とても長くなるので、必死にあくびを我慢して、拝聴いたしましたことを要約します。


 そもそも、貴族諸侯の面前で婚約破棄を宣告するのは、王子の報復感情ないし加虐性嗜好を満たすだけの自己満足に帰結する。


 婚約者の家と王家の対立は避けられず、仮に婚約者が実家の鼻つまみ者だったとしても、婚約破棄を見届ける羽目になる諸侯の心証は悪い。婚約破棄の動機にもよるが、無暗に打つ手ではない。できれば避けるべき悪手である。


 また、王国と貴族領は完全な上下関係とは言い難く、老朽化した契約と有機的な人間関係で結びついた大領地と小領地群にすぎない。そこを履き違えて、絶対権力の横暴を許せば、いかな大国であろうと必ず転覆するだろう。


 国家の運営という遠大な公共事業を担う宮廷で、そこまで露骨なエゴイズムが通ると思う王子は愚かすぎて現実離れも甚だしい。


 また、王子がそのような暴挙を画策していることを知っておきながら通してしまう……あるいは王族の秘密主義、陰謀をみすみす見逃し、いよいよ晴れの日に暴挙を許してしまった側近たちも、権力監視の責務を放棄した愚か者ということは想像に難くなく、色々と終わっている。腐敗が蔓延し、責任回避が横行しているのはまず間違いない。


 仮に婚約者の資格が疑わしかったとしても、その下劣な資質を見抜けなかったことを暗に喧伝するような振る舞いは、まともな王族なら絶対に避ける。


 他にも色々指摘なさったことは多いですが、一言で申されますと、どこをどう繕っても「国家の黄昏」に決着する、とのことでした。


 そんな手遅れ国家が、のうのうと晴れの日を迎えられるとは考えにくい。


 そうなると、場面設定が根本から成立しないことになる。


 一連の流れを、場末の酒場で置き換えても、何の違和感も湧かないだろう。


 その点で言えば、まぎれもなく致命的な欠陥を抱えた設定である。


 また、(検閲済み。前述以上に愛好家の怒りを買うご発言)と。


 あまりにばっさりおっしゃるものですから、さしもの私も唖然としました。どうして、どうして殿下、そんなに婚約破棄を目の敵のように……私が用済みになったら、それで済ませてくだされば良いではありませんか。


 毒や間男などに頼られては、こちらもたまったものではございませんのに。


 このとき、私ははしたなくも、殿下への反意をもやもやと、胸の内に育てていました。殿下は創作談義にお誘いになったにもかかわらず、まるでその醍醐味をご理解なさっていません。それどころか、あろうことか、御身のご見識でしか語られず、徹底的にこきおろされています。


 その思い上がりを、今ここで摘んで差し上げないと、胃が潰れる前に私がどうにかなってしまいそうでした。


 私が読んできた本の厚みだけ、そのお考えに鉄槌を下して差し上げたい。


 大それた誇大妄想です。頭痛がします。にわかに殴殺の感触が生々しく手に現れ、私は身震いしました。妄想が本当に、殿下へ牙を剥くような悪寒を覚えました。


 眩暈に似て病的な仕草だったのでしょう。殿下は、尽きない批判を呑まれました。


「どうしたんだい、シルビア? 具合が悪いなら、すぐ休んで……」


「あの、殿下……」私は少し声を大にして、せっかくの殿下のお気遣いをはねました。「舞台や文化に全部目を瞑って、婚約破棄がなされた場面をご想像ください。そこから始めませんことには、いつまでも話の核心からズレ続けてしまいますわ」


 ハッとお気づきになって、殿下は御自らの秀でた額を、ペシンと叩くように御手を当てられました。私が体調を崩したのではなく、呆れてしまったのだと、ご理解なさったようでした。


「リアリティとリアルは違うと言った矢先にこれだ。ありがとうシルビア、少し熱が入りすぎた。どうにも他人事に思えなくてね……」


 殿下は少し、寂しそうなお顔をなさいました。そうでした。殿下はお家騒動に揉まれた張本人です。宮廷劇は、殿下の幼心に触れる話題だったのです。重々承知していましたのに、愚かにも気づくのが遅すぎました。


 私は、私の身を案じるあまりに、殿下の裸の心へ向けて、見えない刃を振るってしまっていたのです。


 私は、少し陰りをお見せ遊ばされた殿下に、不覚にも胸が締め付けられる思いでした。


「殿下、申し訳……」


「すまない」


 殿下は、パイ生地を焼いただけのお茶請けを私の口に差し出して、うるさい口をお塞ぎなさいました。


「本気では足りないと痛感した。全神経を注いで考えたい」


 懐かしい味でした。貧乏だった頃に、何とかパイを食べたいと思って、生地だけを平たく焼いて食べたのです。懐かしいとは言っても、昔に口にした物とは雲泥の差です。小麦もバターも上等で、軽やかな歯触りと相まって、ついついほにゃ……と頬が緩んでしまいます。


 まさか、王室の方が召し上がるレシピだとは、思ってもみませんでした。偶然の一致。少しだけ、私の人生が華やかになった気がします。


 つい、もう一つ、食指が伸びます。


 物語談義が始まって以来、静かで穏やかな心地でした。


 日差しが膝に落ちました。


 殿下も同じ菓子を頬張り、テリケの由緒正しいお茶を、まるで下々の者が煽るように一息にお飲みになりました。そのはしたなさが傍目に悪く、私はおろおろと、パイでモゴつく口で、つい殿下の御心を案じてしまいました。


 ぷはぁ、という殿下のお息継ぎが、何だか今でも耳から離れません。


「なら、こういうのはどうかな」


 要約すると、こうです。


 婚約破棄を許す以上、国家の凋落は必至。王子は時の王朝の腐敗に立ち上がり、クーデターを起こす。そのため、それまで王家によって保障されていた婚約は無意味となり、破棄という形で現王に宣戦布告する。


 そして、王子は改めて、かつての婚約者に婚約を求める――。


 要約する必要もありませんでした。


 殿下の御言葉は端的で、斬新で、しかし普遍的な愛に満ち、私の琴線に触れるダイナミズムに満ちておいででした。まるで婚約破棄物語の作者の新機軸を、誰よりも先に教えてもらったように、胸が滾って仕方がありません。


 先々の展開が、絵になって浮かぶようでした。四阿の四方が、私の想像の絵巻物で埋まっていきます。


 勇猛果敢な王子の活躍、王子のピンチを救う婚約者の暗躍、仲間が増えて、婚約の絆では打ち明けられない悩みを吐露する友を得て、全員が二人の挙式に参列する。


 ……あら、この展開、半分だけ、どこかで見覚えがあるような。


 しかし、私からデジャヴが鮮烈に洗い流されました。まるで豊かな井戸を掘り当てた勢いで、私の全身を高揚が、奔流のように駆け巡ります。それまで曇りがちだった景色が、一気に晴れる快さで、身体まで軽くなるようでした。


 今思えば、殿下の下賜なされた、細々としたお心遣いが、私をそうさせたのだと思います。ですが、そのときの私には、思いも寄らないことでした。


 一切を忘れて、私は思わず殿下の御手を両手で包んで、ガッと持ち上げていました。さしもの殿下もたじろぐ勢いです。はしゃいでしまって、無礼だとかどうだとか、どうでも良くなっていました。


「書きましょう!」


「……えっと、書くって、シルビア?」


「私、それ、とても聞きたい……いいえもどかしい! 読みたい……ああ、アイデアがこの指先から溢れそう! 今すぐ書斎へ参りませんか? 素敵な物語のアイデアが逃げてしまいそう!」


 その時の心情をどう表しましょうか。


 私一人だけの世界に没頭するような、しかし、その近くで温かな慈しみが見守ってくださっているような、不思議な高揚感が全身を巡っていました。私にとって、私はただのシルビア、殿下はただのラ・ナフティでした。


 私が一方的に忘れたお互いの立場に、当初、殿下を困惑させてしまったことと思います。ですが殿下は「君が喜ぶなら何でもするよ」と、かつてなく穏やかな声音でいらっしゃいました。


 手を引く私が、手を引かれる私になります。私も負けません。何だか、昔にこんな楽しい時期があったことを、思い出しました。とても小さな野バラの花園は私たちの秘密で、おとぎ話の中を歩くような、絵に描いた夢を、男の子と森の遊び場に置いてきたのです。


 すみません、よくわからない言い方ですね。ですが、私にもおぼろげで、こう言う他はないのです。


「殿下、何だか私、大昔に男の子と、こういうことをしていた気がします!」


 走りながら、私は青空に叫んでいました。


「僕はその子に嫉妬してしまいそうだよ! ……もう一つ言わせてくれ、シルビア!」


「いかがなさいました?」


「婚約者の愛を確かめるために、婚約破棄をチラつかせるパターンは、一等最低だと思っている!」


「まあ!」


 殿下の中で、まだあの談義が続いていたと思うと、おかしくておかしくて、何だか愛しさが湧いて参ります。あんなに怖くて、厭わしく思っていた殿方が、旧来の友人のように、手に馴染むのでした。


 私が子どもっぽく笑うと、あの殿下まで幼子のように振舞われました。その日、二人で初めて、声を揃えて、行儀悪く大笑いをしてしまいました。


 水面下で働く親衛騎士のみなさんを振り回してしまったことは、後で一人一人にお詫びしました。


  †


 シルビアとラ・ナフティの茶会の後片付けを、親衛騎士が粛々と行っている。やれやれ、と肩をすくめ、首を横に振りながらも、一様に苦笑のポーズを取るばかりで、二人を仕方のないヤンチャ坊主とお転婆少女と見る空気で揃っていた。


 この調子で、シルビア様のご傷心が、一日でも早く癒えることを祈って。


 宮廷に蔓延する腐敗の元凶、宮廷伯一派検挙の報が届いていた。だが、殿下が心を砕かれてやまない望みに、叶う兆しが見えた今、報告するのは野暮というものだろう。終わったことよりも、これからのことだ。


 そうした親衛騎士の中で、今は若く、いずれ古強者となる一人が、いつの日か述懐すること。


 かつて、幼くして政争に直面することを余儀なくされたラ・ナフティ殿下は、同じ派閥の公爵家が有する、辺境の小さな屋敷で匿われることとなった。


 血みどろの争いで幼心を閉ざされた殿下は、匿われた家で、ある少女と出会う。


 その少女は数々の物語をそらんじて、枝で地面に絵を描くのを楽しみ、菓子とも呼べない菓子を美味しそうに食べて、殿下の幼心に寄り添っていた。


 物語が殿下の思考を育て、絵画が殿下の目を肥やし、菓子は常に心の拠り所として、心の傷を埋めた。


 やがて機は熟し、殿下は王室の序列を塗り替えて見せた。


 あとは、殿下が心から望むものを手に入れて、邪魔立てする残党を消していくだけだ。


 しかし、反旗を翻すための工作を悠長に進めてしまったのが仇となる。


 そもそも少女の一家は、公爵家の分家として、お情けで末端に据えられていたも同然の立場であった。令嬢の娘が、どこの馬の骨かも知れない男と間に設けた子ども。それが、殿下の心の支えとなる少女だった。


 やがて母を亡くし、疎まれた少女の処遇はどうなるか。殿下の派閥に属した公爵家とはいえ、二人の間柄を甘く見た結果は、非情そのものであった。


 殿下の恩人が、くだらない男爵の妾同然の立場に追いやられていると判明した時は、親衛騎士一同、瞋恚に燃えたものだ。


 だが、男爵からすると、殿下は不当に王位継承権を掠めとった、暗君の卵のように見えたのだろう。


 かつての少女を男爵の手から略奪する際、殿下はあわや卑劣な罠にかかるところだった。男爵の凶刃が閃くそのとき、背後から男爵を、分厚い本で打ちのめしたのが、他ならぬ少女本人だった。


 恐怖による隷属、暴力と無縁の気性。何が少女を突き動かしたかはわからない。だが、男爵の呪縛を断ち切るのは少女の魂を焼き切るような業苦を伴ったのは想像に難くなく、少女は狂ったような悲鳴を上げて、失神してしまった。


 そう。男爵の死因は、事故などではない。かつての少女が、心を消し炭にしてまで手を汚し、殿下を救ったのだ。


 うなされ続けた少女が安らかな寝息を立てられるのは、殿下の腕の中だけだった。


 これは、殿下の犯した所業の中でも、最も明るみに出る恐れのある汚点。たとえ男爵に問題があったとはいえ、あの略奪は法に反している。幸いにして、その一部始終を知っているのは、その当時を知る古強者と、殿下だけだが。


 それよりも、殿下は自分の弱さを後悔している。


 目覚めた少女は、ショックで記憶が欠落していた。


 シルビアは、何も知らない。


 暴力男爵に負わされた心の傷が癒える日を、殿下は待ち望んでいる。だが、いくら神話や芸術を極めても、あの日、少女の披露してくれた素朴な作品には届かない。


 あの日の茶会は、追い詰められた殿下自身が、ブレイクスルーを求めた結果だったのだろう。


 娯楽音痴の殿下にしては、大した成果だ。


 いつか、我が王と王妃が連名で出版することになる一冊の本。この本は王政に反するものだが、初版は娯楽として広く親しまれることとなる。この著作が、王政から民主制への過渡期に重要な精神的支柱となるが、それはまた別のお話。


 その収益の一部は、森の小さな屋敷の改装に使われることになるが、それは二人の余生の話。つまりプライベートだ。


 ただ一つ、お二人の私生活を垣間見せるとすれば、森の奥、野バラの花園は、小さいままだ。とだけ。

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