表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色色夢界  作者: 基個夢
1/1

黄化世界

 黄化世界



     第一界


    Ⅵ


  人間における危機的状況と『字』の使用においての変化

    ー対応の変貌と倫理的思考の歪曲についてー


    一.始めに

 

 人間は危機的状況に陥ると思考が極端になる。言うまでもなく「余裕」がなくなるからだ。「余裕」と言う化けの皮を剥がされた本能丸出しとなった人間は「守り」が強くなる。本論文ではこの「守り」の行使について観察したものである。我が国の科学及び医療の発展の下、完成した時間代替システム(以下、テイシス)は金銭及び共通通貨の代わりとして「時間」を用いることで世界の統一化に大いに貢献し、テイシスの技術を応用することで、当人の健康状態や誕生時の特性(我々はこれを「字」と名付けた)、知能指数、運動神経など、生きる上で必要な素晴らしい情報を得ることができた。

 ここで私が注目したのは『字』である。『字』は「漢字」を用いて、当人の能力のうち最も特出した部分、あるいは、総合的に見て当人の最も適した能力が微弱ながらに与えられる、言い換えれば「得意分野」と言ったところであろうか、そのような力である。故に世間では「入試で使うもの」としての定着が深くなり、パスポートの一項目に載せても違和感がないほどその力はごく自然的で日常的で小力的なのである。だが、冒頭の「危機的状況に陥った時、生存本能からあらゆるステータスが上昇する」という人間の本能的原理に基づけば、「字」の力量も変化する。(一般に字数の割合は、独字:双字:満字:他字=90:6:3/十⁹:9、匣の割合は、テイスト:テインド:テイルド=99:一:+〇、である)

 私がこの度調査することは、「最大三つまで所持できる『字』の能力の上昇度」「『字』の合成と最大数」「剥奪字の変化」の三つである。






    1 普遍


  僕の周りを静虫が囲んでいる。そのうるささが煩わしくて、その圧倒的違和感についに目を開いた。しかし、目を開けたのは間違いであった。窓がなければ、光もない。物もなければ温度も感じない。夢に似ていたが、断じて夢ではない根拠にしっかりと意識があった。試しにほっぺを抓る。麻痺したかのように頬に触れた感覚さえなかった。どうやら夢のようだ。

 僕はさて、目を開けているのかさえわからない状況で、その重々しい体を起こした。言うまでもなく辺りは闇と静虫に囲まれている。

「やぁ、今日は涼しいね。こないだまで暑かったのに・・」

 どこからか聞き覚えのある声がした。当然、それが誰だか、ましてやこの闇中でいかにして僕を視認したのかはわからない。僕は周りをキョロつきながら必死にそのハスキーっぽい声の主を探す。

「あー、君には私は見えないよ」

「あぁそう、で?君は誰?」

 僕は諦めて、再び寝そべりながら聞いた。

「きみがよーく知っている人物さ。と言ってもきみは分かろうとしなかったね・・」

「?」

「まぁいいさ、私は遺言なんて残す柄じゃないし、最期にきみと会えて良かったよ」

「ん・・?遺言?」

「私は先に失礼するよ。んじゃ、後のことは頼むよ。コト」

 そう言い置くと奴は僕の心をポッカリと空けて消えた。

「あ!待って!」

 消えたと言うのはすでにわかっていたのにも関わらず、僕は叫んだ。そして、喪失感と安堵と絶望で目がほんのりと熱くなった。


   ・  ・  ・  ・ 


 起床。起きた。しかし起き上がったわけではない。この毛布という防具がなければとてもこの部屋で暮らしていけるとは思えない。目を開ける。

 しかし、変な奴だったな。僕は彼を知らないし、ましてや「遺言」なんてセリフを吐く奴と知り合いになんてなりたくないね。頭の中では切り捨てたたかが夢の話だが、熱くなっていた目はよく冷えた。

 毛布に包まりながら体を起こす。朝日に照らされるこの汚部屋は、すでに日常的な風景になりつつあった。特に一畳ほどのクローゼットの中にはシワシワのヨレヨレになった服の山ができ、夜中、目が慣れてくると人が覆い被さっているようにも見えて、少しトラウマが残っている。

 さて、そろそろ支度をしよう。学校に遅れてしまう。僕はイモムシように布団から抜け出し、毛布の中で身支度をした。制服は体に張り付いて濡らしたように冷たかった。

 体を震わせながら、スライド式のドアを引いた。ストッパーが外れるスライド式特有の大きな音が鳴り、同時に部屋の電気もつける。後ろから二つもぞもぞと布団の寝息が聞こえる。僕は冷気漂う廊下に出て、リビングへ向かった。

 リビングへの扉を押すと冷えた手足が溶けるように温められた。暖房もついていなかったが心地よかった。焦げ茶色の木製ダイニングテーブルには三つ朝食が用意されていた。豚汁と白米である。

 その質素な朝食を平らげると七時半のサイレンが鳴った。僕は食器をシンクに片付け、歯磨きをし、そそくさと口を噤んで家を出た。山からデカデカと七時半を知らせるサイレンが鳴った。

 殺風景な住宅街を呆然と眺めながらエレベーターを呼ぶ。近くの階の人がゴミ捨てにでも行っていたんだろう、間もなく何やら喋りながらドアが開いた。入って「1」を押す。このマンションのエレベーターはまあ古く、いちいちボタンを押さなければならない。政府曰く地方に使う「時間」は無く、こんな細かいところに頭が回らないらしい。地方政府が空白状態にあるのも相まって、僕たち、みんなも仕方がないと諦めている。

 エレベーターのドアが開く。白いタイルの上を静かに歩く。相変わらずエントランスは無表情である。自動ドアを通過し、数段の階段を降り、数段の階段を上がった。凍てついた空気が顔に張り付く。ポッケに両手を隠して、アスファルトの歩道を追いかけた。

 視界をアスファルト一色にして、白線は目に入れなかった。なぜかは解らない。ただそうしたかった。視界に石色の石階段が現れ、顔を上げた。僕はこの学校へと続く広い階段を上り始める。階段は蛇行するようにジグザグに曲がった設計であった。

 歩道側じゃない方には瓦屋根の郵便局や事務所、お店のようなものが悲壮感を出して佇んでいた。夜中には絶対に通りたくはない。そんな場所だ。

 階段に沿ってを三回曲がると両サイドに色が錆びて、剥がれて、鉄がむき出しになった緑色のフェンスが王座前に陳列する護衛者のように出迎えてくれた。

  学校の門をくぐって、駐車場と化した下グラウンドを直進し、また階段を上がる。今度は細く急な階段であった。息を切らしながら登りきって数歩歩くと、漸く僕の靴箱が見えた。靴を脱ぎながら近づき、靴箱にセット、持ってきた上履きを地面に落とし、動きを止めたところで足を通した。少しきつく感じた。

 零色、ガラス色の近い昇降口を足を擦りながら階段の踊り場を通って廊下に入る。それから翡翠色の中央線の上を歩いて、唯一色反転した「6−3」の学級表札が取り付けられたその教室のドアを開けた。生憎、というよりいつも通り、教室には誰もいない。

 窓もしっかりと施錠され、ドアも締め切っていたおかげで布団のような暖かさが体を包む。しかし、布団のような安心感はない。

 ため息をついて前から3番目、窓側からも3番目の机に荷物をかけて座る。ランドセルを漁ってみるが、やはり目ぼしいものはなく、仕方なくふて寝することにした。特に意味も価値も持たない行動であるが、僕にとっては強靭(・・)にして強固な防御であった。

 瞼の裏側には眩しくはない色んな色彩を帯びた閃光と紅色の靄が伸縮を繰り返して、小さな明度の低い宇宙を作っている。幼児が描いた絵のように美しさの欠片もないけれど、ほんのり悲しいような、心が浮いているような気持ちになった。

 前にシンに聞いてみたら、この儚い宇宙を「眼内閃光」とか何とか言ってたな。原因は・・何だっけ?まあいいや、この景色は不愉快じゃないし。

 この体勢のまま30分ほど経過した。すっかり教室の中は人の声で満杯だった。うるさいのは好きじゃない。けれどどうすることもできない。人一人の力じゃ何も変わらない。というより独りのために誰も動こうとはしない。むしろその独りを封じ込めようとする。多数派正義・少数派悪辣ゆえに排除、これが人間らしいのだろう。僕はとうに諦めた。

 唐突に僕の前の方、多分教室の隅にある先生のデスクの方から、緊急地震速報のあの恐怖心を煽る警告音が鳴った。体が跳ねる。まだ笑い声がする。

「緊急地震速報です。およそ9秒後に震度七程度の地震がきます。強い揺れに警戒して下さい。」

 もうすでに揺れ始めていた。そんななか、学校のチャイムが呑気にも鳴った。だれも笑わなくなった。

「みんな!早く机の下に隠れて!」

 多分教頭先生の声である。しかし教室の中は混乱と恐怖、焦燥に飲み込まれ、椅子を引く音は一つもしなかった。

 僕は相変わらず目を瞑る。僕は隠れない。小さかった揺れが次第に大きくなっていった。もう立つどころか動くことさえできない。ジェットコースターのような緊迫感と恐怖があった。生憎、僕はジェットコースターが苦手であった。そんなことを気にする暇もなく僕は轟音とともに瓦礫に呑まれた。

『ごめんね・・』


    ・    ・    ・    ・


 目を覚ましたのは暗闇の中だった。不安さえ感じるほど静かで、僕が望んでいたはずの状況なのにどうしても怖かった。僕はようやく本当の孤独の強さを身を持って知った。閉所恐怖症の人はきっとこれの何倍も恐いのだろうと何故か冷静に思った。

 今、仰向けの僕が唯一できることは、この岩の箱の蓋を押すことぐらいだった。意外にも蓋は優しく、そこをのいてくれた。木漏れ日並の小さな光の点が僕を出迎えた。箱の外はまだ箱の中だった。

「えぇー・・・・」

 流石に文句と溜息が出た。はっきりとしない暗闇の中、光を差し伸べる妖精を頼りに足を擦りながら進んだ。

 いざ、妖精の姿を垣間見ようとその目玉一個分の穴を覗くと外の瓦礫の小山の上に誰か立っていた。

「ねえ!聞こえる?!」

 声が届いたのか、薄っすらと開けた口をこちらに見せてくれる。しかし、降り注ぐ日光の強射のせいで、まるで仮面を被っているように見える。でも絵にしたらきっと美しいのだろう。

「あの!ここから出してくれませんか?」

 声が届いてないのか、ぼーっとしたままこちらに視線だけ送り返してくれている。

「あn・・」

 再度、声を出そうとすると、あたかも視線が糊で接着されたみたいにある一点を見つめながらこちらに向かってきた。

 近づいてきても、その素顔は見ることができなかった。どうやら今は正午辺りらしい。燦々と降る日光の腕だったり足だったりが、ここぞとばかりに僕の好奇心の邪魔をしてくる。

 そんなことつゆ知らず、彼人は僕の目の前まで来る。しかし視線は相変わらず左上に引っ付いている。もう目の前が壁なのに止まろうとしないそのNPCにまた声をかけた。

「ちょっと、大丈夫・・」

 一瞬にしてそのセリフの意味がなくなった。ちなみに阻んでいた壁もなくなった。消えた壁の向こうには人影も音もなく、ただ自然という大きな生命がそびえ立っているだけであった。

 ふと、自分の口に手をやった。小指3本分ぐらいは開いている。

 学校だった瓦礫の残骸にはその面影もなく、また初めて見た廃墟というものに新鮮な気持ちを抱いた。彼人が始め眺めていた意味もわからなくもない。この現状を見るに彼人は本当に妖精だったのかもしれないとさえ思えてくる。

 環境に配慮したツタまみれの廃墟と気色が良くなる閑静な景色に、頭では戸惑いが混雑していたが、僕としては好奇心と冒険心とのワクワクで純粋に楽しんでいた。

「ツタ、採るか」

 考えるまでもなく、現状を理解するのは無駄そうだったので、ひとまず僕の記憶の書庫を覗いては「サバイバル」というものを行ってみることにした。

 感覚でツタを見分け、工作用に持ってきていたカッターナイフでツタを切断した。引っ張ってもう一方の端を探すと、引けど引けどツタが張ることはなく、でも気になって仕方なく続けていると漸くツタの端が見えてきた。

「あれ?本?」

 しかしツタの先端には予想外の、本が絡まっていた。表紙は灰色、小説本くらいの大きさと厚さ。僕の好奇心は最高潮に到達した。その本を手にとってホコリか砂かを落とす。

 普段、あまり小説だったりを読まない僕が自ら興味をもって本を読むのは、これが初めてである。それもまた・・。


―【本の内容】



 ①夢書において


◯夢書は特定の読者(以後、所有読者)へ向けた「自分」を示す本である。ここではこの夢書が計九つ存在し、それぞれ内容と表紙の色が異なる。表紙の色は、◻︎・青・白・緑・灰・黒・黄・無・赤である。


◯なお、夢書はいかなる方法を用いても人為的に消すこと、意図的に無くすことはほぼできない。また、その夢書の所有読者以外がその夢書を閲覧することはできない。故に所有読者の口と手からでしか、夢書の内容を他人が知ることができない。


◯唯一、夢書を消す方法は所有読者の完全な消滅のみである。


◯所有読者の認定はこの本に最初に触れた者のみに与えられる。


◯所有読者とこの本との距離が3メートル以上になると自動的に追尾するようになっている。


◯夢書の内容は所有読者同士で共有が可能である。なお、共有できるのはその誰かが熟知している情報および簡易な情報のみである。


◯夢書の内容は読まずとも自動的に脳内に保存される。



 ②内容において


◯夢書の内容は、はっきり言ってかなり雑である(主な役割は記憶の保存であるため)。とはいえ、雑、というのは大雑把とか抽象的とかという部類である。さて内容だが、以下の六3項目に分けられる。


 ●字(字数)

 字は生物の能力のうち最も特出した能力、いわば特技を換字化したもの。所有読者の場合、元の字数がいくつであっても必ず「満字」になる。


 ●字(匣数)

 匣は複数の字が熟語化したもの。所有読者の匣数はまず「テインド」になる。


 ●恐力

 所有読者が持ついわゆる超能力。本来、特技として能力の行使を微力ながら補助する字が

、顕在化し、特技を積分化した技術にまで覚醒した「字の暴走」を総じて言う。大抵は内力的なエネルギーに負けて、ホワイトホールなどを生じて、肉体もろとも消滅する。(この内人工的なものを「夢力」、夢書の影響によるものを「恐力」、その他自然的なものを総じて「字力」と呼ぶ。)



 ③その他・追記

 

◯夢書は所有読者の意思に合わせて姿形を変えられる。


◯字は全て個々に刻まれた刻印とも言える。


◯所有読者は夢書とのコミュニケーションが可能である。この本のどこか白紙のページに記入するとこれが可能。


◯夢書同士は反発し合うので、互いに交わることはない。


◯以降、記憶はここに記される。


◯所有読者が死亡すると魂がこれに固定され初期化される。


◯字は譲渡が可能である。


◯所有読者の常態は基本的に共有されない。


◯初期化された夢書はその意識が認証した登録夢書に取り入れられる。


◯所有読者は好きな項目を増やせる(なお、所有読者全員の夢書に同様の項目が追記される。)


所有読者:向口個人

夢書:灰

年齢:拒否

性別:拒否

字:[拒否][拒否]

恐力:拒否

型:防御型                    ―



「なんじゃこりゃ」

 口心一体となった感想だった。少し考える。分かるはずもないのに、脳が勝手にこの本が正しいかどうかの演算を開始しやがったのだ。

 結局一秒もかからず「わかんないっ」と結論を出した。でもこの脳みそは理解したようだった。僕はほとほと脳みそには人格があるんじゃないかと思わざるを得なくなる。

 ともあれ、一旦「この本は姿形を変えられる」らしいから試してみるとしよう。・・何にするか。リストバンドでいっか。

 周りの木々やら草花やらが何やらざわつき始める。周りが静まり返るよりかはいいほうか。ざわつき度合いの激しい頭上の木々に視線を動かされると、踊り狂う姿を見せずにただジッと冷静な表情で見下された。

 周りのざわつきも一瞬にして無に帰る。誰かがやらかしたらしい。

 視線が落下すると無地の灰色のリストバンドが置かれていた。新品同様のモッコモコでロシアンブルーの子猫のような魅力には思わず言葉が二万ヘルツを超えてしまった。

「・・っていうかなんでここに?」

 愚問だったのは自覚している。でも理解に似合わず不思議だったのだ。まあすぐに装着したのだが。

 しかしこれでこの超越的な事象は現実のものだと証明された。証明・・されてしまった。本がリストバンドになるなんて物理の基本法則を完全に無視している。しょうがない、後でシンに教えを請おう。

 僕はもふもふを眺めながら、途端に暇だと自覚した。いや、当然家族が心配なわけだが、あの人らなら大丈夫でしょという確実な信頼があるから気にかけるほどではない、のだろう。というよりそう思わなければ逆に失礼とさえ思える。

「とりあえず、シンのとこ、行くかぁー」

 呑気に体を伸ばしながら、押し出される腑抜けた声でそう呟いた。緊迫感がなさすぎと自分でツッコみたくなったが、逆にこういう気持ちでいないとパニックになってしまうだろうなとも思って目を瞑った。

 僕は学校に地震が来て体内時計で間もなく一時間を迎えようとしてようやく、下校を開始した。

 門をくぐってやっとこの小さな町を一望することができた。いつもと同じ景色なのだがどこか閑散としている。よく見なくとも人が誰一人としていないことはわかった。田舎にあるべき静けさがやってきたような感覚だった。僕は再びその異界をかけていった。この階段、登るのはきついけど下るのはとても楽しい。

 階段の麓まで下りた。黄色い。ここも相変わらずの静けさである。ただ人がいる時のような静けさとは異なってあれよりさらに無に帰ったような、今にも耳鳴りが起きそうなほどであった。

 また来た道を帰る。まだあってよかった。僕は初めての帰路についた。

 誰もいない虚無感のある公園を横切り、苔かカビかわからない緑色の生物で埋め尽くされた川を眺め、空き家と見違えるほどボロ臭くなった一軒家を通り過ぎたら、僕のマンションが格好良く背中を向けて立っている、という「いつも」がきれいに崩れ去っていた。でもそれが本来のいつも通りなのだろう。

 僕らにバチでも当たったのだろうか。ただ、取り残されたような気がして罰を食らっているのが自分だけな気もする。

「ま、そうかどうかは今にわかるかぁ」

 そっと右足を道路の白線に向ける。僕は周りの静けさに合わせて足音を殺してスタスタと横断する。

 3歩ほど進むと地面の隙間、空気の隙間、どこからかはわからないがドライアイスのような白い煙がほんの一瞬の瞬きの間に視界を覆う。顔が引きつる。またそれに気づいて必死にこらえる。

 驚きの声も恐怖の感情も湧かない。ただ無意識に瞬間移動した人は目の前の景色と感じていた自分の心情とのギャップにこうやって困惑するのだろう。何が言いたいかって?僕にもわからない。僕はただ思ったことを頭の中で復唱しているだけ。

 さて、ドライアイスと喩えたこの白煙だけれどもこれに何の温度も感覚もない。「無」そのものというのが一番近いかもしれない。まあ、僕の数少ないボキャブラリーの中で、だから他のもっと理解表現があるかもしれない。けど今はどうでもいい。

 まだ数秒しか経っていないはずだけど、恐怖心がひしひしと膨れているのは自覚できる。どうやって出ようか。そうなことを考え始めようとすると霧が薄っすらと消え始めた。

 自分の体さえも見えなかったところから、自分の手を伸ばした指先まで見えるまでになった。ただ、これ以上は晴れなかった。

 とはいえ、この少しの晴れによって奥に何やら人影が揺れているのがみえた。影というくらいだから黒いのだが、影の黒さではなかった。ひとまず近づいてみる。

 その子は喪服を着ていた。いやただの黒い服なのかもしてない。僕が直感的に喪に服していると判断したのも無理はない。その子の目線の先には「地附家」と彫られた墓があった。その中性的な見た目の子を見ると、傘をさしているせいかもしれないが、どこにも感情の色味がなく、その優しそうな瞳も光を失っていた。

 これには目を逸らした。これ以上見ていると自分の何かが割れそうになったのだ。

 僕は墓に手を合わせた。

「ユウは進んだ。あとは僕らに任して」

 無意識に出た言葉であったが必然的だと納得した。

 合掌を解くと霧が少し晴れた。目を開けると人も墓もなくなっていた。ひとまず僕はこの霧を虫を追い払うように両手で空をはたきながら前へ進むことにした。

 手を動かすたびに霧が晴れていくことに気づいたときにはほとんど晴れて、また人影が、今度は3人現れた。戦隊モノみたいだな、と思いながら霧を除ける。

 分にもかからず霧は消えていった。そこに隠れていたのは見覚えのある顔ぶれであり、何かを僕も含め計八人が囲んでいた。

『あっ』

 数人とハモった。

「トトーー!」

 横から薄桃の弾丸が発射された。いつも髪色に合わせたカーディガンの上に白衣を着ていて、野生を超えた運動神経を持っている、通称「犬」こと、小色エルの突進ハグである。この殺人的・・あ、いや、友好的なハグミサイルのお陰でその容姿端麗のデバフをかき消している。

「ありゃあ、終わったな」

 しかし飛んでいくエルを「トト」こと、木屋トキトは受け止めながらものすごく回転した。けど装着していたメガネはどこかに飛ばされていった。

『マジか・・』

 反対側にいたシンと同一の感想を漏らす。トトはふらふらとしながら倒れた。腕を額に被せている。

 「シン」こと、名生シンはめっちゃ賢いんだけど、服装が、なんだろうなあ。シンプルな黒い革ジャンに黒いジーパン、そしてあの・・首まである、えーと、あっ、タートルネックの黒い服を着ている。他にも黒い手袋とかして、全身を黒く覆って地肌を隠している。肌が弱いとかじゃなくて、「格好いいだろー」と言ってくるくらいだから、多分趣味だと思う。

 僕は夢書の内容を確認する。脳内に内容が浮かび上がってくる。きちんとさっき思ったことが記録されている。・・なるほど。

「アイツを受け止めるなんてキネス記録だろ」

 シンはフルフェイスのヘルメットをしているが、それでも驚いて笑っているのはわかった。シンの方に向き直ってみると同じようにモイとユウもエルたちのことを傍観しているようだった。

 「モイ」こと、希有モイは、ツリ目のせいか機嫌が悪そうに思われるけど、シン以外に怒る事があるくらいで意外とほわほわした性格である。意外とね。今日も灰色のカーディガンを着ている。あと黒い、学校指定の裾がゴムのズボン。腰のあたりの方がダボッとしたやつ。本人は暗い色が好きらしい。

 「ユウ」こと、地附ユウは小顔ではあるんだけど、背が高い上にあまり表情が動かないからめっちゃ怖がられる。見てる分には面白いんだけど、ちょっと気持ちがわかるんだよな。ユウはシンと服装が今日は、お揃いでユウの方は比較的白い地肌が所々見えている。

 ふうーこれで始めを知れる。いつか見返すときに必要だからね。

「・・みんな無事だったみたいだね、」

 僕は静かに言葉を吐く。

「ん・・・・そのようだな」

 目の前の明るさがただの虚しい映像のように思えた。

『・・・・』

 なんとなく気まずくなる。なんで?なんかやらかした?シンは遠い地面を眺めているようだ。二人は二人で話している。

「ね、ねぇ、本、拾ったんだけど・・」

 すると3人は一斉にこちらを見た。3人はそのシンクロにお互いを見合っては内二人は何やら納得したようであった。

「俺も拾ったぞ」

「わたしも」

「私も拾ったな」

 まさかの全員が拾っていた。「なんで?」と訊きたかったがそれはすぐに意味をなくす。

「うっわ、まじかー」

「何だ?おそろいは嫌だったか?」

「いや、そうじゃないんだけど・・」

 途端に周囲の音が消えた。皆と合うまでも静かだったけど・・音量が〇を切ったみたいだ。微かに耳鳴りとノイズが脳内にちらつく。

{あー、マイクテスト、マイクテスト。・・すべての恐力者に告ぐ。私の名は所有者「オウ」。聞こえて〜・・そうだーね、じゃあよぉく聞いてねー}

 音として聞こえるのに心の声のような無音。音として聞こえるのに字幕のように意味が分かる。みんなを見回すとみんな聞こえているのか空をキョロキョロ見ている。

{えーと、まず、君たちがいるのは現実です。あ、現実だ。君たち9人はそれぞれ本「夢書」と恐力を得たはずだすっ。あ・・・・ねぇ〜これ敬語じゃだめ〜?・・え!いいの!なんだあ〜最初から言ってよね!}

 二人はいるようだ。咄嗟に身構えていたけどなんか気も力も抜けていく。

{えー気を取り直して、恐力については省くけど、言いたいことはひと〜つ。それはズバリ君たちの中に一人だけインポスター「殺人者」がいるってこと!}

 周りがざわめくことはなかった。僕自身信じがたかったし、何より現状が夢のように信憑性がない。ん?夢なら信憑性は無いことはないか?まあいいや。

{以上!あとはお好きなように!}

 鼓膜が切れるような音がして、その「放送」は終わった。音量ボタンを連打するように音が戻ってくる。

「何だったの、あれ?」

 早々に頭の筆を置いて誰かに訊く。「誰か」というのは言わずもがな頭の切れるシンのことなんだけどね。

「どうやら、殺人者がいるのはマジらしい」

「それで?」

 僕は腕を組みながら訊いた。恐力があるせいか怖さは微塵もない。シンは一切表情を変えずに説明しだした。ヘルメットだからだろうけど。

「俺は嘘か本当かを見分ける力があるから、それで奴らの言葉に一点の曇りはなかったってわかっただけの話だよ。俺達で殺し合いをしろー、とか言う意図はなく、ただ一人のインポスターを見つけろ、っていう依頼らしい」

 シンは面倒くさそうにため息を吐く。

「はあ~、こちとら朝起きたら誰もいなくなってるわ、なんか変な力とか本を手に入れるわ、で供給過多なのに更に追い込みを入れるんかね、あーあ面倒くせぇ」

 いつも通り愚痴を漏らす。極度のめんどくさがり屋のシンは、ついにこないだから学校に来なくなった。ヘルメットのことで色々と距離を置かれていたのもあると思うが、単に授業がつまらなかったのだろう。

「シンの言う通りで、今から人狼が始まるんなら今夜誰か殺られるんじゃないの?」

 モイが地べたに寝そべって足を組んでいるシンに訊く。久々に聞いたな、モイの声。モイのほうがシンより面倒くさそうな声をしている気がする。

「それは俺の恐力が火を吹くな。ここだけの話、俺は『情報』を操れるからこれをうまいこと使えば今夜、ってかこの先この9人から減ることはない」

「その自信はどこから・・」

 モイはシンをいささか睨みながら半分呆れ声で言う。

「ああ、じゃあさっきの放送の真意のどうのこうのもそういうことか?」

「そういうこと」

 シンは両手の人差し指をユウのサングラスに向かって指しながら答えた。

「あ、お前らも言えよ」

「何そのアルハラみたいなノリは」

「まあまあ、別にいいだろ?どうせ俺らの中にはいないだろうし。それに知ってたときのほうがいざっていうとき連携が取りやすい。そう思うだろ?」

 シンは足の反動を使って立つと振り向きながら言った。

「まあそう言うならいいか。私はdthだったぞ」

「わたしはc4c@4だった」

「僕はh4tyだったよ」

「あっそ」

「聞いといて何だそれは!」

 ユウは激怒した。でも本気の怒りとは違う。

「じゃあ、何に答えりゃいいんだよ。『すごいね』か?それとも驚きゃいいのか?」

「でも『あっそ』違うだろ!」

「はいはいそこまで」

 いつも二人の言い合いはそこら辺のタイマーでも測れないくらい続くから早めにブレーキを掛けておく。

「さてと・・他の奴らとも話しとくか?」

 途端に話題を変える。

「いってら」

「どうぞ」

 ユウとモイはあんまり乗り気じゃないらしい。

「はいはい、そんなこと言ってないで行くよ。これには選択肢なんか無いんだから」

 僕は動こうとしない二人の背中を押しながら他五人のところに足を運んだ。




  2 異変


「エルちゃん、もう思いっきり体当たりしたらだめだからね!わかった?」

「わかった!」

 本当にわかっているのかな・・。でも信じることにした。

 幸い、トトはその華麗な身のこなしのおかげかはたまた幸運か無傷で済んでいる。さっきからため息しか出ない。

「おー、トト、ピンピンしてんな」

 名生たちがやってきた。少し身構えてしまう。無意識に私の手は弟のトクの手を握った。

「いやー危なかったよー」

 トトは笑って応えていたが本当に危なかったのだろう。

 名生はトトと話しながら、なぜかこちらを見てきた。肩が跳ねる。それを見て満足したのか。再びトトに視線を落とした。

 私は名生から目を逸らしながら、話を聞いた。その話によるとさっき頭の中に流れた「放送」の言ってたことは本当らしい。名生がその力で守ってくれるらしいが体は信用できていないのか、ずっと微かに震えている。

「とりあえず、物資を確保しに行くぞー。APでいいよな?」

「早く行こ。人等来てるし」

 青いパーカーのポケットに手を入れているソウが、名生の後ろ方を指さしながら呟くように言った。みんなが揃って振り返る。ソウの言う通り千差万別の人等が群をなして百鬼夜行、いやどこぞのゾンビ映画のようにゆらゆらと近づいてきている。

「何あれ、何がどうなってあんな群がってんの?」

「知るか」

「エルでも飛ばしとく?」

 エルは今にでも飛び出してしまいそうなほど足がばたつかせている。前に進まないのはトトが襟かどこかを掴んでるからだろう。

「きつい冗談・・じゃなさそうだが、やめといてくれ。あの量じゃあ飛んで火に入るようなもんだ。おい、エル落ち着け」

「はぁい」

 名生に頭を叩かれると花のようにしおれてやるせない返事をした。またもや私の肩が跳ねる。今度は肩にかけたトートバッグを握る。だけど私が怖いのはあの子じゃなくて名生家のはずなのにな。体が震えるたびにそう思う。

 名生家は名生真《なおいまこと》を筆頭とする全テイシスの核心としての仕事を担い、同時に裏では政府の第二の財布としての役割も担っている。最近は「字」や難病に対する「時間」延命割合の増加などの研究も行っているらしい。

 そういった研究には非人道的なものが含まれているらしく、モルモットにされた人たちやその事実を公にしてくれた人たちは全員もれなく人等にされたとの噂もある。噂だけど完璧な事実である。

 なぜなら私の妹は目の前でそうやって殺されたから。これは大々的に報道された。けど一貫して事実を否定した。

 そんな奴らの3人の子どもの内唯一生き残っているのが、今目の前にいる名生芯なのである。

 私が前を見るとみんな人等を背にAPこと超巨大スーパーのような店に向かっていた。

「にしてもあいつらが群がるなんて変なことがあるもんだねー」

「何いってんだ、今すでに変だろ」

 コトと名生はそんな会話をしながら先に向かった。

「人等。なんで急に・・」

 私はそう言い残して、みんなの後を追った。

 というのも、人等という生き物は本来そこら中にいるもので群れをなさない。その正体は人間の成れの果て、つまり「時間」が尽きた人で、言ってしまえば屍とかゾンビとかと表現しても矛盾はない。

 また、人等は基本的に知能がほとんど無いので会話することも何かをさせることもできないのだが、生存本能だけが残っており、攻撃を加えたり、ただ触ったりしただけで死傷するという事故が起きることも少なくない。

 人等は「時間」がない「等属」ゆえに有象無象の見た目をしており、ほとんどが人形ではあるが、のっぺらぼうのように顔がなく、指もなく、代わりに色んなところが凸凹しているため夜中に出会ったときは心臓が飛び出るかと思ったほどだ。

「姉ちゃん?ちょっとビビり過ぎじゃない?母さんがいないからって気ぃ緩めないでよ」

 トクが手を引っ張りながら少し叱る。私は「ごめん」と俯いて言う。視界の外で軽いため息が聞こえた。

 私は弱い。それはもはや目を背けても変わらない視界の一部である。それでも「頼れるお姉ちゃん」を取り繕わなければならなかった。でも、ほんの一瞬でも誰かの肩の上で涙を垂らしちゃいけないのかな。

 家族や友人、いろいろな知り合いの顔がアスファルトの地面に投影されて、喉元に鉛がみるみる詰まっていく。

「とうちゃあーーく!」

 その明るい声に背中に背負っていた靄が軽くなっていくのを感じた。聞いてて心地の良い声。あの子と触れ合って救われた子は一体何人になるんだろう。

 エルは我先にと洋館の玄関のようなドアを開けるとあっという間に暗闇の中に突進していった。それから何人か入っていくが一向に電気がつきそうな気配はない。二人に手を引かれながら、どこかしらのアトラクションに乗っているときの感情が再燃する。

 中に入るとそこまで暗くはなかった。ブラックホール効果というものだろうか。

 全員が影の中に入ると靴に乗っかっていた光が徐々に細くなって、やがてはドタンと鈍い音を出して消えた。これで見た目通りの暗さになってしまった。

「おっと、そうだった。ここのドア、どうやっても勝手に閉まるんだったな」

 誰かが頭を搔く音がする。

「誰かいますかー」

 トクの声がよく響く。けど返ってくるのは静寂だった。

「誰か、光とか出せるヤツいねぇか?」

「僕の字じゃ無理」

「私も光は出せん」

「わたしも」

「んームリっ!」

「できるかも」

「むりかなぁ」

「むりだねぇー」

 各人が答える。みんな無理らしい。字が強化されても法則による制限があるからだろうけど。同じ理由で私もできない。

 夢書によると字力の発現の条件として「物理法則に則ること」と「品詞による効果の分化」、「字の解析度比例」などがあるらしい。

 物理法則に則るのはまあ当然のことと納得できる。だけど品詞別に効果が変わるのは少し面倒であった。

 字を名詞として使う場合はそれに合う動詞を付け加えて、それが字力の効果となる。動詞としてならこの逆といったように、字に一つの品詞を付け加えて効果を生み出すという仕組みらしい。

 また比喩は効果外となる。例えば字が「延」のとき「寿命を延ばす」とかという方法で使えないということである。それでもってこの効果の意味をちゃんと理解できているかによって強度が変わったりするらしいから、字力をつかうのもなかなか面倒なのだ。

「お前も無理か?」

 名生が聞いてくる。見えるはずもないが首を横に振った。しかし何故か伝わった。

「そうか・・、結局、トトも無理なんだっけか?」

「いやあ、作れるんだけど材料が・・ねぇ?」

「おけ、じゃあ、俺とコイツで電気つけるわ」

「なんで私まで」

「ほら行くぞ脳筋」

 一つの溜息とともに二つの足音が遠のいていく。

「あのちびヘルめ」

 おそらくモイの独り言だろう。すぐに空気に溶けた。

「これ木かなあ」

 コトが何やら周りを物色している。物音が静まるとムワッと熱気が顔にはりつく。

「コト?なんで嘘ついたのー?」

 トトがジリジリとコトに寄り詰めていく。はにかむように笑いながら、両手でなだめる。

「まあまあ、ちょっと自信なくて」

 私はその明るくどこか幻想的な炎を見て、少し心が騒がしくなった。

「ソウ、暗かったけど大丈夫だった?」

 ソウは暗所恐怖症なのである。しかしソウの顔からは過去は思い出されなかった。

「大丈夫だよ」

 そう言って小馬鹿にするようにわらう。その返答に違和感を覚える。今まであまり感情を出さない彼が笑ったのも違和感極まりないのだが、暗所で人が変わったように平然としているのが不気味だった。

 私は内心ポツリと一つわだかまりを感じていた。だが、そのわだかまりを除こうと目をつむるも、ただの一線がすべての点を通っては、眼裏に映る未来に私の首はますます萎縮していく。

 その理由が、私の字は[感情][気]、恐力が「想思情感=想情」であることだ。

 これを意味するのは、私は他人の感情に干渉できるということである。これだけ恐ろしい能力でありながら、息をするのと同じように使えてしまっているのも、またそれを受け入れざるを得ないこの状況も、この上なく悍ましい。

 一瞬にして光が闇に飲まれた。けどまた一瞬にして光が二つになった。

「はい、これが限界」

 トトが松明もどきの大きなマッチ棒をマラカスのように持って言う。

「ちょっとしっつれーい」

 エルが電気玉でも作るのかのように両手を胸の前に構えて、何やら指をウニョウニョ動かし始めた。腕を組んで眺めていたが、変化はすぐに現れた。松明の炎が空中に吸い取られ、円形をなし、エルの頭上に浮遊した。

 これでも飽きたらなかったのか、エルは眉間に小さなシワを寄せて目と口を強く閉ざした。するとエルの背中にはまさに人翼と表現できそうな白く光る炎が形成された。

 私の口から漏れたのは「わあ・・・・え?」であった。

「エルー、何の必殺技?それー」

 コトが翼に手を近づけながら言う。

「なんかできた〜。ねえ、これ空飛べるかな?!」

 するとエルの背中はますます輝き始め、少し独特な匂いが鼻についた。

「え、燃えてるけど・・?」

 光が一つ消えた。残り二つの光源からトトがエルの背中をはたいているのがわかった。

「エル、大丈夫?」

 いくら炎が神秘的でもちょっとした過失で億兆の灰を生み出してきた。私は家が火事になりかけたことがあるからその怖さは十分に理解している。

 エルの頭には火の粉はなかったがコトが脳天に手刀を入れた。エルは頭を抱える。

「うぅぅ・・ごめん・・」

 ようやく天井の無数のビルが始業したのか、あらゆる面が白く塗りつぶされた。思わず顔をしかめる。

「っ、相変わらずの眩しさだねー。やんなっちゃう」

「ねー」

 私のホッと力が抜けて、座りこむと何やら柔らかいものが体に触れる。

「ぐぇっ」

「え、トク、何やってるの?」

「姉ちゃん・・踏んどいてそれはないよ・・」

 トクは寝転んだまま言う。私はぎこちなく避ける。少し、ムズムズとした歯がゆいような感覚が体に残る。不快でもないが快くもない、複雑な感覚だ。

「失礼しました」

「トク・・よく寝そべれるね」

 ソウが初めてマムシを見た時のような目をトクに送る。

「別にいいじゃん?ここ、毎日掃除してくれてるんだしさ。今、世界こんなんだし、これぐらいできないと・・。これだから準・・・・潔癖症予備軍は・・」

「でも少なからず人が歩いたところ」

 トクが両手を広げて煽るのはいつものことだが、ソウが弱いパンチに加えて言い返すのは新鮮に感じた。

「まあまあー・・、あれ?どうしたの?その左手」

 手首に赤い線が入った腕を背中に回す。

「なんでもない」

「腕見せて」

「いや、見せなくていい。ねえ、僕らには腕を怪我しているように見えたんだけど、気のせい?」

「はあ・・」

 ソウは腕を組んでため息をついた。その中にある決断の意を感じた。

「帰ったぞー」

「おかえりー」

「ほら、エル、突撃」

「よぉし!」

「まてまてまて、ってか、おい!ユウ、テメェ離しやがれ!・・ゴッフっっ」

 シンとエルがカーリングのように奥に滑っていった。

「良かったねーシン。ラッキースケベじゃん」

 モイが抑揚なく言う。コトは爆笑、モイは嘲笑、あとは微笑苦笑を浮かべていた。

「あー、みんなぁちょっといい?」



 ソウが小さく手を上げて言う。種々の笑いに二本の縦線がかけられる。

「なんだ?」

「能力開示でもしようと」

「え?」「は?」

 全員の表情が〇を切る。

「なんと、ぼくは回復ができます!」

 あれはそういうことだったのか。隣のトクもエルの方を見る。エルは火傷一つ無い。

「回復か・・」

「ねえねえ!効果範囲は?どれぐらいの怪我まで回復できる?死者も治せる?使いすぎるとどうなるの?病気も治せる?」

 トトがそっとエルの頭に手を置くとエルはゆらゆらと揺れ始めた。

「というかアンタなんで開示したの?」

 モイが首の落ちたエルを横目に訊く。

「人狼と同じだよ」

「はあ?アンタそれ・・死にたいの?」

「違うよ。ヘイト買って、返り討ちにすんの。どうせ相手一人でしょ」

「えぇー・・そう」

 小さく眉間にシワを寄せながら、納得も反論もせず額に手を当てて、まさに頭を抱えた。

「僕は別に君が少しの憂いも感じていないんなら文句は言わないよ」

 コトがソウの肩に手を置きながら言った。

「それはもちろん。ぼくはもう誰かわかってるもんね!・・君もでしょ?」

 今まで見たことのない、まさに完璧な道化師の仮面を被ったその表情をコトに向ける。コトはその不気味に気づいていない。

「よくわかってんじゃん・・因みに・・・・」

 コトは両手をポッケに突っ込んで少しカッコつけた様なポーズを取る。

「そうそう・・・・いや違うよ」

「んじゃ・・え、違うの?まあ、誰でもいいや。二人でやっちゃう?」

 ソウは申し訳なさそうに捨てるように笑って首を横に振る。

「いやこれは、ひと・・ぼくがやった方が良いでしょ。というか、ぼくじゃないと・・」

「はいはい、お邪魔しました」

 コトはモイを連れて先程から奥で犬のいがみ合いみたいな変質なグループに混じっていた。

「っと、いうことだよ」

「へー」

「ソウ、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。ぼくを誰だと思ってるの?」

 いつも無口なせいでてっきり自分に自信がないことばかり思っていたけれど、意外にも勇ましい。

「え?わがままボディノロノロ僧侶じゃないの?」

「ぼくってそんな魅力的なの?そっかあ、トクにはそう見えてるんだね」

「いやいや、そうじゃなくてさあ」

 胸がスプーンで掬われたように梳いていく。

「おっ、なんだぁお前ら。ここは冒険者ギルドとかホテルとかじゃねえぞ、用がないなら帰れ。用があるならさっさと済ませな」

 おじさんが気持ちの良い笑顔を浮かべながら言う。レジに立って言う。この屈強な体格といい話し方といい間違いなく、ここの店主のおじさんだ。名前は知らない。

 おじさんは私達を眺めて、窓を眺めて、腕時計を眺めて、また私達を眺めて、ようやく何かに気づいたようだった。

「・・・・あー、リユ、ちょっと話がある」

 先程の笑顔とは打って変わって、険しく真剣な表情でレジ裏へ戻っていった。

 トクたちと顔を見合わせる。

「姉ちゃん、何やったの?」

「うーん、なにも心当たりはないんだけどなあ」

「まあ、リユのことだからいつものじゃない?」

「あーありそう」

「ちょっと!二人とも!ほんとに何もないんだってば!」

 私が声を荒げると二人はケラケラと笑い出した。

「もう!いってくるね!」

 私は足で強く地面を踏みながらおじさんの跡を追った。相変わらず後ろからは聞き慣れない笑い声が聞こえた。

「おじさーん?」

 恐る恐る少し褐色の入った冷たいドアを引くと、明かりも特にない廊下に金属の軋む音が響いた。廊下の奥に、見間違いと思うほど細い光の一線が道を記した。

 やがて音と光の消されたこの空間には溶けてしまいそうだった。暗闇の沼が脚にかかるが、まだ足は軽い。左腕を跡が残るように強く握る。

 記憶の中の僅かな道に沿って出口にたどり着く。冷え切った扉を開くと消えたものが迎えてくれた。

「・・リユ、こっちだ」

 おじさんが悔しそうな顔で私を6畳間に通す。親しみを覚えてきた靴を脱いでテレビのセットのような和室にのぼる。

「・・・・」

 おじさんの意外と華奢に見える背中に隠れていたおばさんがちゃぶ台を挟んで正座している。おじさんもその隣に胡座をかいて座る。二人とも俯いて哀愁漂う表情で自分の影を睨んでいる。

「あ・・の?」

 震えた声が出る。

『ごめん』「・・なさい」

 二人は深々と陳謝した。

「私達にはできなかった」

「っ・・」

 言葉が詰まる。それ以前に状況がよくわからない。やがて推察する思考の中を記号が満たしていく。

「、そうだな・・今はまだわからないよな」

「?」

「いや・・リユ、わからないと思うが、いつかこの謝罪を受け取ってくれ」

「・・・・は、い」

「リユちゃん、重ね重ね悪いだけど・・この男、吉川雲内に会ったら、気づかれる前にみんなで逃げなさい」

 濡れた目を私の目に通して言う。

 その写真は私たちの通っている学校の先生だった。生徒からも他の先生からも優しいと評判の先生だけど、私には泥がついているように見えた。

「リユちゃん・・後悔せずにいくんだよ」

 その声は震えていた。心から漏れ出したようなその涙は私の字を持ってしても、止まりそうになかった。なんだか、つられて私までも泣きそうになる。

 心に穴が空いて風通るような空虚感というのが、なんとも惨たらしかった。二人とも穴だらけだった。私の字は相手の感情と同期することもできるのだろう。

 二人は涙を袖に擦りながら、この壇上から下りていった。滲み始めた二人の姿は滲んで淡くなって消えていった。なんとなくわかっていた。ただどうしても、擦っても滲んだ世界は元には戻らなかった。

 私にとって二人は親のような存在だった。私の本当の親は、父方は生きてるのか死んでるのかわからないようなあやふやな存在で、母は毒親に部類されるのだろう。体や生活面には一切危害はないのだが、言葉があまりにも猟奇的である。

 そんな私の愚痴やら相談やらを聞いてくれていたのが二人だったのだ。ここは第二の家だった。弟妹を守るのに疲れたときの休息所だった。二人はいない。ただその事実だけが静けさの中に漂う。

 ドアを叩く音がする。私は仮面をつけるように片手で顔を覆う。これは感情を初期化してくれる。先程の濁流は清々しく美しい自然の背景となって流れている。

「なに?」

 声は震えなかった。顔を拭って、あの温かみを残した靴を履いてドアに向かった。

「姉ちゃん、呼ばれてるよ。・・あれ?おじさんたちは?」

「・・出てっちゃった。旅に出たんだよ」

 ちゃんと笑えているだろうか。

「ふーん。そう。まあいいや。行こ」

「ん」

 またあの廊下を抜けて、戻ってきた。窓の外は少し白かった。

「おー、ありがとなートク」

 トクはレジのカウンターの上に座る。みんなもうすでに集まっていた。

「別にたいした話じゃないが、とりま、今日はここに泊まろうと思うが・・おじさんたちはなんか言ってたか?」

「えっと・・」

{あと、今日ここに泊まるなら、二階を使うといい}

 記憶が上書きされる・・ように頭がその言葉を納得する。

「二階使っていいって」

 私は上を指しながら言う。

「そうか・・じゃ解散!」

 各々好きなところに散っていった。

 日もだいぶ傾いてきてこの店の光がいっそう強くなる。その間、私の読んでいた小説は喜劇的なのに儚く感じた。この「空白」はナイフで刺してでも埋めたい、胸を握りながら歯を噛んだ。



  3 過去


「おやすみー」

 普遍的な光が消え、非日常的な星々の明かりが小窓から滴る。その一滴ずつの光が、この部屋の闇を祓う。

 私の瞼に錘がつく。程よい温もりと心地よい緩みに疲れが発掘されたようだ。

「・・・・・・・」

 静かだなー。力が抜けていく。こんなに・・いつぶりだろう。・・ああ、私は辛かったのか。そして、今、こうしてそのことに気づいて、自覚してしまった。私はわかっていたのだろう。気づいた方がもっと辛いって。


   ・   ・   ・   ・


「おねぇちゃん!おねぇちゃんってばぁー。起ーきーてー」

 私は薄っすらと瞼を開ける。睫毛が暖簾のように視界を遮るが、私の上に乗っている暖かく、心地の良い重さのものは何なのか、ここはどこなのかといった疑問は視界の暖簾が外される前に分かった。

「はいはい、っふぁあー、今日はどうしたの?こんな早く」

 ベットから見える窓は黒く塗られており、視界の隅でもまだ早朝か、下手したら深夜ということは分かっていた。

「えー、わすれちゃったのー?きょうはおねぇちゃんといっしょにおべんとうをつくる、だいじな日なのー。ほらおねぇちゃん早く早く」

 この子は妹だ。私の妹、リズだ。私はハッと眠気が覚め、振り向いて時計をアナログ時計を確認する。

【12月3日(水) 5:52 72.3% 14.7℃】

(ものすごいデジャヴだ。リズは生きている)

「どうしたの?おねぇちゃん?」

 私は時計から視線を戻すと、リズを抱きしめた。私の両目は煮られているように熱くなった。でも苦しくはなかった。ギュッと力が入る。

(確かにあの事故がなければ、明日の弁当を作る約束をしていた)

「うん・・そうだったね・・・・つくろっか、お弁当」

「おねぇちゃんどこかいたいの?」

 懐かしい、小さな眉が相変わらず垂れ下がっている。

「ううん、アクビで涙がデちゃっただけ。あと、天使様が私のところに来てくれたことかなー」

 胸の辺りから見上げる困った小さな顔はニッコリとした小さな顔に変わっていった。

「うれしいときもお涙出ちゃうんだ!・・なんでだろ?」

 私は抱きしめるのを止め、リズをベットの端に座らせた。私も隣に座る。

「それはね、リズがもう少し大人になったら分かるよ」

「・・・・・・・」

「リズ?」

 リズの小さな体を揺すろうと手を伸ばすとリズは床に倒れた。私はここの床が床ではなくなって、道路、しかも横断歩道であった。顔を上げるともう私達は自室にはいなかった。何やら周りは騒々しい。心配、情け、後悔、不安、恐怖、驚嘆、焦燥、様々な感情の雰囲気が騒がしさの中に立ち込めていた。

「もしもし、警察ですか?、事故が起こって・・・・はい、そうです、・・はい、えっと一人?、三人?、・・はい・・・・はい・・・・えーとえっと、オールスーパー前の交差点です・・・・・・・・」

 その通報を聞いてようやく、燃えているトラックと滴る血液、そして横断報道の上で涙を流しながら仰向けになっているリズの姿を確認し、理解した。

「リズ!・・リズ!起きて!」

 完全なデジャヴであった。私はこれから自分が何度・何回その名前を呼びかけるかも、助ける手段を独りで考える内容も、その思考故に腹部に刺さった大きな包丁を何度抜こうを結論を出すのかも、すべてあの時と同じように行っていた。

 途中から過去の自分を客観視しているようだった。そう自覚したときには、すでに体は過去と同じ過ちを犯すようになっていた。リズも私も赤いペンキで塗られていく。ハンカチでもいいからと傷口を塞ぐ。

 救急隊員がタンカーに乗せて救命しようとするのを、まるで不条理に娘を取られた親のごとく泣き叫び妨害した。私の涙はリズの血を流すように幾度も落ちる。

 私はたった9年でこの一時だけ、母に課せられた「お姉ちゃん」という立場に、使命に背いたのだ。私はこの一時だけ家族を裏切って感情的になったのだ。

あのとき冷静になっていれば、リズは助かったかもしれない、と母に散々言い聞かされた。救急車の中で灯火が消えることはなかったかもしれない、とも。・・・・私が殺したのも同然だった、と自覚した。私はこの罪を背負って、毎日事あるごとに目の前の空気に懺悔した。

 突如、一線を切ってしまった人の混濁した感情に飲まれたときのように周囲が暗くなる。目の前に白いワンピースを着たリズの姿が現れる。私はフラフラと立ってリズに近づく。

「リズ、ごめん・・私が・・・・」

 なんとなく察してはいたが、リズに触れようとした手は空を刈った。リズは無言無情に私を通り過ぎ、その後ろ姿は今や、私より大人らしく、誰よりも綺羅びやかであった。その姿に魅了されつつ、その未来を奪った名生家の人間と私に対するひどく汚れた感情が、あの穴を埋めた。

 白ワンピースのリズは何かを思い出したのか「あ」と声を漏らした。リズはスカート部分を泳がせるように振り返って言った。

「お姉ちゃん、多分いると思うから言うんだけどさ、これからもよろしくね」

 私にはそれが言われるかもしれなかった未来の言葉なのか、それともこんな私に言った今の言葉なのか理解できなかった。

「お姉ちゃん、あとこれ」

 リズは相変わらず小さい手のひらに、表紙が少し青みの帯びた紫色の本を乗せていた。私がそれを受け取るとリズはそのまま暗闇に呑まれていった。もうどこにもいなかった。

視線を受け取った本に落とす。これは夢書だろうか。恐る恐る本を開く。


―【本の内容】



所有読者:相可理由(承認済み)

所有助手:相可梨子(承認済み)

夢書:黄・紫

年齢:12

性別:女性

字:[感情][気][拒否]

恐力:想思情感=想情

型:支配型(テイマー)+“隠匿中”              ―


 瞬時に詳しい内容も頭に入る。とりあえず納得したことにした。

(おねーちゃん!やった!うまくいったよー)

「・・ん?エルちゃん?」

 聞き覚えのある声であるのは確かであった。眠っていた体を起こす。

(エルちゃんじゃなぁーいー)

 目を擦りながら青い部屋を見回すが声の主は見当たらない。

(リズだよー、夢書から放送中です!)

 声も口調も昔の記憶と違わない。

「え、ほんとに・・」

(おねーちゃん・・・・っ!よけて!)

「え?」

 爆発音とともに顔に恐ろしいほどの突風が押し寄せる。かろうじて掛け布団で飛んでくるものを防いだ。部屋の外からドタドタと足音がやってくる。

「大丈夫か!なんだあの音・・・・」

 私は名生の妙にセリフが詰まったことが作用して、柔らかい盾から恐る恐る顔を出す。窓があったあたりは大きく抉られ、そこに私がやりましたと言わんばかりに長身痩躯の西洋のお洒落をした人等のようなものが立っていた。

 私は置物、と暗示をかける。おかげで、私には見向きもしなかった。しかし隣で寝ていた警戒心ゼロのトクにヘイトが向かってしまった。

 フルフル震えながらカクカクと動きだした人型に、思わず暗示が解け、トクの前で両手を張った。が、私の体を掻い潜るように腕が伸び、私の頭上からトクを連れ出した。

 私は物理的にも心理的にも動くことができず、心理の壁を超えて伸びた腕に触れたときは、またあの時のような悔しさが喉に詰まった。これには「感情」がなかったのだ。

「おい、何なんだ?ここ恐力が使えねぇぞ!」

「ホントだ。なんで?」

「ねえ、どうしよ?どうしよぅ」

「ひとまず、殴ってみるか?」

 目を動かしてユウを見ると、手にものすごく力のこもった拳を作って、ゆっくり近づいてくる。すると目の前の腕が二つ四つと分裂していき、その一本がユウに向かって伸びていく。ユウは咄嗟に身構えるが寸前に止まる。

 私の加速した心臓は落ち着きを取り戻す。ユウは怪訝な表情でその得体の知れない腕に触れようと試みた。それを横目に私は脱出を試みる。肩と額を壁に押し付けられ、やはり力が入らない。

シッ・・・・ボトッ・・

 聞き慣れない音が、不愉快な感覚が、懐かしい思い出したくない匂いが私の脳に直接伝令された。

 視界の隅で黒い何かが蛇口のように流れる。また、あの細長い腕がうねり、一瞬にしてユウの左腕を静かに切り飛ばす。

「・・っっぅあああ゙あ゙あ゙ぁあ、っああ゙ああ、あ゙あ゙あ゙」

 ユウのどんどん濁ってゆく悲鳴に、私はようやく我に返ったようにその現実を受け止める。

「ああ・・あ、ああ・・ぃああああああ」

 汚い記憶が蘇る。記憶のスクリーンは血の色で汚れているのに鮮明に思い出される。目を背けた過去。封印した過去。閉じ込めた気持ち。その痛み。感情と記憶の濁流に飲まれながら、自分の悲鳴に溺れていった。

 苦しくなってきても、声が出なくなっても叫ぶのをやめられなかった。目の前が現実だなんて信じたくなかった。自分が死んでおくべきだった。だけど死ぬのは恐い。切迫する「死」と「穢れ」との板挟みで圧死したように私の意識はこの体から切り離された。

 ・・・・私はどうなったの?どこかが押し潰されたような、殻が割れるような感覚があったけど、果たしてあれは私のだっただろうか。

 ・・暗い。軽い。怖い。心地よい。独りで大草原の真ん中に大の字に寝そべっている、頭ではそう変換される。

「まったく、世話の焼ける(あね)さんだぁ・・・・ほら、こっちおいで」

 あなたは誰?そんな疑問を問う前に光の中に投げ込まれる。

「君には生きてもらわないと・・ね・・・・」

 時空が歪むように意識が圧縮されたり伸縮したりを繰り返して、どこかへ向かう。そして壁に勢いよくぶつかった。

「はっ!」

 勢いよく起き上がる。床に影一つ逃す場を与えないほどの強い光が、誰もいないこの部屋を照らす。

 頭が働かない。視界ははっきりしている。「頭に靄がかかった状態」というのはこのことかとぼんやり思う。

「あ、起きた・・・・みんなー起きたよー」

 廊下あたりから声がする。どうやらみんな私が起きるのを待っていてくれたらしい。申し訳ないな・・、心の中で呟く。

「リユ!・・よかったっ」

 誰かが部屋の入口で跪く。

「ちょっと失礼」

 顔の黒い人が私にねこだましをする。

 すると水中から顔を出したように音も光も思考もシャボン玉が弾けるように明瞭になった。

「ケホッケホッ」

 なぜか咳が出る。今まで息をしていなかったのだろうか。

「よしっ、起きたな・・じゃあ単刀直入に言うが、トクが連れ去られた」

「は?」

 誰一人として私と目が合わない。・・という状況がことの残酷さを物語っている。

 胸がひどく押しつぶされる。それでも風は通る。頭の中の虫が走る。思わず手で視界を覆う。

「・・っは、・・・・」

 何かが呼吸を阻害する。私はまた失ったのか?また・・目の前で。手は届いたのに。手に力がどんどん入っていく。

 私は弱い。自覚はしていた。何より自分がよく知っていた。何度自分に失望したかも知っていた。だけど、結局、私は強くなろうとはせず、最低限の役目を果たして、あとは自分のことしか頭になかった。その上、鏡さえ見ることを拒んだ。きっとバチが当たったのだろう。

 誰かが私の肩に手を置く。私にはその温もりが不快だった。自分のような醜く穢らわしい化物にはその優しさは毒だった。肩を揺らす。

「おい、自分を責めんじゃねえぞ」

 ・・そんなのわかってる。でも、今は自分を責めないと、自分として存在できなくなりそうなのが怖いんだ。

「これは殺人鬼の方が何枚も上手だった」

 たのむから、優しくしないで!自分を許して、また・・逃げてしまう。

「まあでも、死傷者はいなかったんだ。俺達はよく生き残った。そこは讃えようぜ」

 だから!・・って?あれ?「死傷者がいない」?そんなことはない。だってユウの手が・・。

 手の隙間からユウを覗くと、何事もなかったようにその手は動いている。

「少し嘘を言ったな。・・ユウとお前は死にかけた。だが、なんとかソウの能力で一命をとりとめたんだ。感謝しとけよ」

「ほんとに、リユさんが潰されたときは肝が冷えたどころか、死を明確に感じたね。・・・・ごめん、余計だったかも」

 モイがコトに睨みを効かせ、コトは素直に同じように俯く。この時、みんなの目が少し腫れていることに気づいた。

 私が、潰された・・?そんな記憶はなかったが。

「潰された?どういうこと?」

 私はコトの目を見る。コトの目は大きく揺らぐ。蹴られたからだ。

「痛いって!自分のことくらい教えてあげようよ」

 モイの暴行は止まらない。

「あなたの人情はどこ行ったんですか!」

「やめろ、モイ」

 ユウがモイの振りかざされた右腕を制止する。

「まったく、コトは口下手がすぎる。要するに彼女に知ってもらうことで、彼女自身に逃げ場を作る、つまり心の枷をいくつか取り除こうってことだろう?」

「そうだけど・・、え?なんで分かるの?(あのユウが!?)」

「あのー、聞こえてますけど」

 3人が振り返る。それに割って入るように名生が顔、ヘルメットを出す。

「お前はあのバケモンに顔を潰された。一応この後のことも話しておくが、お前をやった後、アイツは来たとっから、翼みたいなもん生やして飛んでいきやがった。お前の弟連れてな。そん後は、ソウが一瞬でお前らを治して、あのバケモンに何かを放った。まあ、外れたが。それで安心したのかみんな倒れて眠った。んで今」

 つまり、ソウが頑張ってくれたみたいだ。

「そういえば、シン、さっきから余裕ぶってるけど、策でもあるの?」

「あるも何も、取り返しに行くに決まってんだろ、フツー」

 驚いているのはトトだけではなかった。

『まじか』

「大マジ。そのために俺とコイツの能力を駆使して、アイツ追ったんだかんな」

「まじかよぅ、・・因みに?」

「TASys第3講究実績記録荘、お前らも知ってる単語で言うと、アイツ、『人間屋敷』に向かってやがる」

 全員の表情が豹変する。それもそうだ。「人間屋敷」は監獄よりも地獄よりも恐ろしい、聞くところによると生きたまま麻酔無しで人体を解体されるといった非人道的な行為が行われているところである。

「まじか・・今日「まじか」しか出ない。ねえ、シン大丈夫なの?」

「大丈夫なくないが、今、世の中こんな感じだろ?あそこに収監されてる極悪人共が暴れ散らかす危険性はある。殺人鬼(サイコパス)はそれが狙いかもな・・」

「あっ・・そう・・」

「なんだ?」

「いや、噂があるじゃん?」

「あーあれか。・・否定はできねえんだよな。俺たちは。・・まあ安心しろ俺の父はそんなことはしない」

 不安のこもった眼差しが残る。

「まあ、お前ら支度しろ。昼には出るぞ。・・一応念には念をだ」

「はーい」

「行こ」

「何持ってけばいいん?」

「知るか」

「リユ」

「ありがとね、ソウ」

 ソウは照れくさそうに笑顔を見せる。

「んじゃ、昼に玄関前なー」

 名生の声が廊下に響く。今はその声がなんだか落ち着いた。


  ・  ・  ・  ・  


「んーーレッツゴー!」

 エルが楽しそうに扉を開く。まもなく突風に煽られ、顔や腕にはいくつか白い跡が増える。目を守ることだけに集中し、いくつかの悲鳴を聞き取る。名生とユウは心配ないな。

 風がやんで、薄らと開かれた世界は、廃れた砂漠だった。

「おいおい、なんだよ・・これ・・」

「こ、黄砂とかじゃない?」

「やば・・」

 あのエルでさえ、笑顔を失うほど絶望と同時に夢現な状況に感情がひどく乱れる。

「ま、まあ、とりあえず、港に向かうぞ。そこまで距離はなかった気がする」

 そうは言うものの誰一人として足を出さない。

 やっとトトが重い足を前に出して、石化したエルの肩を叩いて「ほら、いくよ」と笑顔で言い放った。

 そんな普通の言葉が私達に付いたからくり人形の糸を絶った。

 全員が外に出ると、思いの外熱くはなかった。それどころか気持ちの良い風が体に優しく触れる。晴れ曇といった曖昧な天気なおかげか、と、情報と知識に橋をかける。

 相変わらず大きなバイパスは勇ましく立ち続けている。その巨体に目を奪われていると足元を砂にすくわれた。やはり、砂漠は歩きづらい。

 何分かバイパスに沿って歩いてみたが、同じような景色が続く。下半身を砂の中に収めた家々とそれほど時間が経っていないのに枯れていく建物等。・・人等は見かけない。

 みんなはこの状況に慣れてしまったのか、談笑を始めている。私はソウと話しながらバックからペットボトルを取り出した。

 これは支度中にエルが見つけたこの本の機能である。この本は自分の思うように変形ができるので、四次元ポケットとしての機能もつけられるらしい。つくづく不思議である。

 何の前触れもなくペットボトルの水が暴れ出す。よく見なくとも地面が大きく揺れている。

「もう!今度は何?!」

 私は自分でも自覚するほど大きな怒声を上げる。

「もう、そんなに怒らないでよ」

 どこかで聞いたような声だ。みんなが倒れているおかげでその姿がよく見えた。黒いローブ姿のいかにも怪しい、男の子のような、でも女の子のような顔立ちの子であった。

(あれ?リク・・・・)

 リズが反応する。私もその名前とあの子の容姿には見覚えがあった。とても心が凍る感覚とともに、これほどにないうれしいという単純な構造の感情が言葉を紡いだ。

「リク?リク!体はもう大丈夫なのね!・・生きてたんだね」

 私は立ち上がって言った。声は震えていた。彼からはマグマのような、固体と化したどす黒い感情が抑えきれずに漏れていた。私の心も飲み込まれそうだった。

「『生きてたんだ』・・かぁ。そっかぁ〜。そうだよねー。君は何も知らないもんね。君も消えて欲しかったんだ」

「え・・いや、ちがっ」

「『いや』はこっちのセリフだよ。君がどれほど否認しようと、ぼくがそれを否定する。ぼくはぼくを想う方に従く。もう、そういうことにしたんだ」

「ねえ、聞い・・」

 リクは脱力した手をゆっくりと胸の前まで上げ、指先を波打つように伸ばす。それに連なるように地面の砂が大きく波打った。

「おい、テメェ何する・・だ!」

 砂の上の私達は不可避の壁に飲み込まれて、延々と回転して身動きが取れない。砂嵐の中に入ったときより痛いし、圧迫されて苦しい。何度も砂が口の中に入る。次第に声も出せなくなる。

 どうしよう。どうしよう。そういった疑問符だけが浮かんできては、どれに対しても答えを与えないままどんどん何も考えられなくなってゆく。

 ただただ怖い、その感情が頭の中を塗っていく。この状況で私に何ができるだろうか。私の恐力は相手に直接触れないと使えない。

 咄嗟に考えたこともすぐに棄却される。何か巨大な渦に飲み込まれてゆく。思考も真っ暗になっていく。

「もう、使うしか・・」

(おねーちゃん!ダメ!それは使っちゃダメ!ぜったいに使わないで!)

 私はリズの涙声を切り捨てて手を合わせる。これは、リズの恐力だ。使えばきっと・・・・私はリクの望み通りになるだろう。

 急に全てから開放される。一メートルくらいの高さから硬い地面に脇腹をぶつける。

「はーい、やめやめ。ねえ、シン、もう正当防衛でいいよね?」

「ああ、まあ、アイツを傷つけるなよ。アイツと同等になりたいか」

「いやあ、悩むねえ」

「あ?」

「すみませんでした」

 私達がいる空間だけ砂が抉られて、アスファルトの道路がむき出しになっている。私と同じくらいの高さの砂が左右に避けていっている。

「大丈夫?リユ、治すね」

「ありがと」

「よし、じゃあ、コトはこのまま砂を抑えろ。ソウ、あれ打てるか?」

「いける」

 そう言うと指に力を入れて砂の壁にデコピンを放つ。すると、周りの空気が圧縮され、風を起こしながら砂の壁に穴を開けた。

「行け!」

 みんな穴から外に出る。

「は?もう!大人しく捕まってよ!怪物共が!」

 リクは驚いた様子を見せたが、すぐに攻撃をしてきた。コトの力のお陰でその攻撃は相殺される。

「よく言ってくれんじゃん。やってることはテメェの方がよっぽどバケモンだが?」

「はー・・流石に一筋縄じゃいかないかー」

「おい!やめとけ!人が死ぬぞ!」

「はっ、死ぬのは怪物だけだよ」

「あークソっ!不良品は叩いて直すしかねぇな」

「古」

「モイか?なんか言ったか?」

「何も言ってませんよー」

「いつまでも会話するな!」

 また、リクが手を縦に振る。コトは再び防御しようと手を前に出す。しかし砂の波はそれを貫通してきた。再び砂に飲まれる。すぐに辺りの砂は消える。

「誰?ナイスっ。あれぇ〜何か貫通したんだけど」

「シン、あの子の字何ですか?」

「知るかよ・・『砂』とかじゃねぇの?あっ、ユウ出番だぞ」

「あっ、ごめん、見てなかったわ」

「おい」

 ユウはサングラスから目隠しに変わっていたのだが、見れないのは当然なのではないか。

「いや、たしかー・・sーー・・さんずいに・・・・」

「これは出てこないねー」

「まあ、シン、頑張ってくれ」

「はあ?」

 笑みを浮かべてシンの肩を叩く。

「・・コトの防御を壊すことができて、砂を操ることができる、これが今わかったことです」

「さあ、シン!」

「分かるかぁ!わかったら相当な輩だぞ」

「わからんかぁ」

「お前らなぁ・・はぁー、これじゃ、コトの字は無効化されるな」

「おっと!」

 本当に驚いた表情をしている。

「どうするのさぁ?」

 エルが期待の眼差しで名生を見る。シンは黒い指を二本立てる。

「二班に分ける。一つは囮、上で戦ってもらう。一つは砂の下からアイツをたたく。どうだ?」

「・・・・」

 みんな黙る。名生はそっと手を下ろす。

「これ、誰が攻撃するかによるけど上下の連携はどうすんの?」

「じゃあ俺がつなぐ」

「じゃあ、人工無線よろ」

「よし、時間がない。エル、ユウ、ソウは上な。コト、モイ、トトは下だな。あー、お前はどうする」

 私の答えは決まっていた。

「私は下にする。私ならリクを止められる」

 コトが少し心配そうな顔をする。

「そうか。じゃあトト上、リユ下な」

「っ!・・おけおけ、それでいこう」

 コトはシンの決断に驚いていたが、シンに対する信用からなのか、すぐに飲み込んだようだ。私もまさか採用されるとは思わなかった。

「おっとそうだそうだ、言い忘れていたが、上の奴らは、俺達が死んだという体で、感情むき出しで戦ってくれ。よく演じろよ」

「相手の気を引くためにね」

 コトが付け足す。

「よし、行け!」

 エルが面倒くさそうなユウを引きずりながら、白衣を脱いでそれを二本の桐に変える。ボサボサとした薄桃色の髪を、全身黒い甲冑?(にしては薄い)の上に乗せる。全くどこで見つけたんだか。

 一方ユウは黒い短髪に似合う格好いい黒い革ジャンからスレッジハンマーを地面に落とす。革ジャンが夢書なのかな?二人とも準備運動を始める。

「じゃあ・・いってら」

 シンが大きく手を叩くとユウたちは砂の坂を登っていった。

「コト、行くよ」

「はあい」

 モイは私を見たが、すでに歩きだしていた私を見て、やんわりと笑った。

 人二人がようやく並んで通れるほどの狭く低い通路を歩いていく。頭の中に夢書の内容が書き加えられる。


【追記:「区域」について


 ・字力者は皆、「区域」をもつ。「区域」は力量・恐さ・力の消費の3方向のベクトルからなる9つの区間である。基本的に数字の小さいほうが強いというイメージはあるが、一概にそうとは言えない。

 ・また、それぞれの区間を「象限」といい、それぞれ主な役割がある(以下)。

  「第一象限」:威力が著しく大きい、俗に言う大技である。

  「第二象限」:相手を威嚇するときに使うと良い。

  「第3象限」:自己の防衛や強化を担う。

  「第四象限」:見た目が弱い大技である。

  「第五象限」:威力は弱いが罠としての効果は抜群である。

  「第6象限」:特に使えないので娯楽として使われることが多い。

  「第七象限」:威力が乏しいので峰打ちに用いられる。

  「第八象限」:常態能力である。

  ただし、第一から第四象限は力の消費が激しい。】


{だってよ}

 夢書と同じように頭の中に名生の声と内容が入る。まだ慣れない感覚だ。

「なにこれ」

{アイツが使ってたから、夢書に聞いてみたらこの通り}

「あれ?これ、AIか何かだっけ?」

{そんなとこだろ・・・・おっとその辺で止まれ}

 薄暗くてわからないが、どうやらリクの真下らしい。頭の中にノイズが走り、受話器を置くような音がした。

「[第6象限][眼光線]・・はい、みっけ。生るじゃん」

 リクの声とともに頭に痛みを感じながら、砂の上に抜き出された。一瞬だけリクに触れることができたが、あの膨大な気を全て封じることはできなかった。

「[第3象限][熱光線]」

「やめろ!」

 ものすごい速度で突進するユウと背後から刺そうとするエルをひらりと交わす。

「[第五象限][否波光線]」

 リクの姿が砂埃だけを残して消えた。だが、私にはその姿を探す余裕はなくなっていた。

 足に熱いガラスが纏わりつき、反射で足を動かせばガラスが割れ、足に深く刺さった。目には涙が溜まり、足元には赤色を吸い取る無数の微生物が群がった。痛みに耐えて息を抑えるが、やがて苦しくなり否応なく叫び声を響かせる。

 心の中では「痛い」「苦しい」という文字列が真っ赤に染め上げられては、延々と脳内を循環した。

 膝下まで浸かった砂のせいで座ることも倒れることもできずに、砂を掻き分けて出ようにも一向に抜け出せる気がしなかった。

 この状況は感情ではどうもできない。誰かが助けてくれるのを待つしかない。

「なんでこんなことを・・」

 涙ぐんだ声で呟いた。

「ぼくは・・ずっと窓の外を眺めてたんだ。けど外に望むものは見えなかった」

 リクは小さくため息をつく。目の前に感じたリクの気は、もう濁ってすら澄んですらおらず、ブラックホールのような虚空感が私の希望を吸い取った。

 もう、手遅れだ。目の前の恐怖に体中の痛みさえも引いた。ゆっくりと色のつかない気塊が近づいてくる。その一歩一歩にさらに恐怖が伸し掛かる。

「やめて!こないで!お願い!やめっ・・」

「[第四象限][|光の誘導放射による増幅レーザー]」

 静かな冷淡な声とともに脚に喪失感が生まれる。

「あっ・・」

 視点が倒されたカメラのように暗い空を映す。脚の内部が抉れるように痛み、肉体が沸騰して膨張するような感覚が絶えず続く中、もう喉に力が入らない。私は天に手を伸ばす。伸ばした左腕はすぐに私の胸の上に落とされた。

 今度は視界の右側に映ったリクに手を伸ばす。もう少しで脚に届きそうだ。

「[第八象限][感情同化(アイデンマインド)]」

 意識が深い穴に吸い込まれてゆく。

 私の恐力の使用条件は単に触れればいいだけじゃない。一度地肌に触れた相手ならば、相手が触れる範囲内にいるとき非接触でも発動できる。または3秒に一度恐力を使った相手ならば、視界内にいるときでも発動できる。などという制約がある。

 「感情同化」は相手の感情の中に深く潜り、心と対話することで感情の平化を図るものだが、意識が対象の心の中に移るので、肉体は無防備になる。


〔 ようやく浮遊感から開放され地に足をつくことができた。相変わらず黒く塗りつぶされた光景が自分の今の状況を錯覚させる。

 闇の中に顔を隠してうずくまっていた一人の子どもの姿があった。

 優しく肩を撫でると錆びた仮面は割れ、その悲しい素顔が現れる。光を失い抉れた瞳、生を捨て負だけを飲み込む歯のない口、どこまでも進んでも決して届くことはない闇に埋もれ穴となった耳。人等のような残酷なその姿はリクの心そのものである。

 リクは男の子と勘違いされて生まれてきて、そのまま母親に育てられた。どんなにぬいぐるみを、可愛い筆箱やランドセルを強請っても、彼女の掴んだ袖はことごとく振り払われた。

 時々家に帰ってくる父親はリクを女の子としてだけ見てくれたが、その目は娘に送る視線ではなかった。家に帰るたびにリクの体には痣が増え、ベットを赤く染めた。

 まだ昭和思想の残る家庭でリクは小学一年生まで耐えた。一度も逃げるということも、泣くということもせず、本当に強い子だ。

 彼女が小一のとき、幼稚園の頃からの親友であるリズと下校している最中、山から下りてきた熊に襲われた。彼女のお陰でリズには傷一つつかなかった。でも、彼女は長く病院に入院することになってしまった。

 私達はお見舞いとお礼を言いに行こうと計画していたのだけれども、母は彼女の両親が人格異常者とどこかで小耳に挟んだようで、私達を病院に行かせてくれなかった。次の日私はこっそりと病院に行ったが病院の受付という壁を超えられず。補導され、母からはしおれたクレマチスの花と叱責が送られた。

 それから私達はお見舞いに行くことができなかった。その数週間後にリズは死んだ。

「独りにしてごめんなさい、苦しかったね、辛かったね。謝ったって許してもらえないかもしれないけど、私の想いも受け取って。・・・・ここは心がつながっているから、リクの話を聞かせて」

 ひどく壊されて、傷つけられてしまった彼女の心は、二つの大きな暗闇から様々な残酷な体験と負の複雑な感情の泥濁がドロドロと流れ落ちる。その塊が手に落ちるたびに、その不条理さに異常なほどの怒りに加え、胸を圧迫するような強烈な感情と心臓を縛り上げられるような森閑とした感情の二つの苦しさが、波となって心を伝う。

 感情の波が収まり、本来の美しい顔へと戻っていく。ようやく出したかったものをすべて吐き出せたようだ。濡れた顔で彼女を見ると彼女は少し離れたところで椅子の上に立っていた。暗闇故に詳しい状況はよくわからないが、彼女の纏う気は「孤独」からなるものから、「罪悪」からなるものに変わっていた。

「やめて!ダメ!あなたは生きなくちゃ!今までを生きてこられたあなたなら、これからのことなんか比にならないはずよ」

「ぼくはさっきまで復讐人形だったんだ。それがこの壊れた世界で生きるための支柱だった。その役目が無くなった今、ぼくを立たせてくれるものが無くなったんだよ。ぼくは自力では立てない」

「だから、私が!」

「君は弟を助けに行かなきゃ。それが今の君の目標でしょ?そのお人好しでぼくを助けていたら、弟くんも失っちゃうよ。・・それにぼくは罪人だ。それも人殺し。この国では複数人を殺した、また殺そうとした人は、首を括って罪の意識に溺れないといけない。ぼくは最後だけでもいいから人として去りたいんだ」

「・・・・でも!あなたは悪くない!頼むから椅子から下りて!」

「ぼくには逃げる手段があった。でもそれを使わずに復讐という奇行に走ったんだ。自分の意志でね」

「ねえ!たのむから!」

「あっ」

 そう言い漏らすと椅子から降りてその椅子に座った。

「やっぱり死ぬのはちょっと怖いな」

「っ!よかったぁ・・もう二度とあんなことはしないで!」

「それは約束できないな・・・・」

「・・・・・・・」

 私はわからないふりをする。そのことについて考えないようにただただリクに視線を送る。

「少し・・自分語りをしていいかい?」

 私は静かに頷く。

「ぼくは今まで実の親にも知らない子にもたくさん傷を負わされてきたんだけど、今の今まで『死ぬ』ことなんて考えたことがなかった。親が悲しむかもしれない、君が何日も引きずるかもしれない、そんなことも考えるのがきっと怖かったんだ。だから無意識にも生きていたいって思った。苦しさの中にも少なからず幸せがあった。ぼくの人生はマイナスからのスタートだったけど、だからこそそうした小さな幸せを見つけれたと思うと、生きていることが楽しくなった」

 一度言いとどまって、体を俯かせて話を続けた。

「そのうちパパが死んだ。借金が嵩んで追い詰められてたらしいよ。ぼくは冷たく色白になったパパを見て、いつか人は死にたくなるんだと思ったんだ。でもパパの部屋から海外旅行の計画手帳が出てきて、ああ、パパは生きたかったんだって知ったよ。パパは生きたいままに死んでいったんだ」

 こちらをチラチラと見ながら気まずそうに言う。

「ぼくは美しいと思った。ぼくもそうでありたいと思ったんだ」

「うん」

 私の相槌には否定も同調もない。ただ話を聞きたかった。

「・・ぼくはたとえ死んだとしてもまたこの儚くて鮮やかな世界に生まれ落ちたいと思ったんだ。一つの人生に目標とか定まったものを置いてしまうと未練が残らないから、ぼくはそれこそが本当の死だと思うんだ。ただ生きたいという無計画な欲こそが、生欲であり、正欲だと思う。僕らが見つめればいいのは『理想』だけでいいんだよ」

「うん」

 リクは元から達観していて、どこか学者気質があった。考えるのが好きな彼女が独りで色々考えた道なのだろう。

「・・・・ぼくは後悔のないように生きてきて、悔いが残るように死にたいんだ」

「え・・」

 リクは私の小さな驚きにかき消されるように跡形もなく旅立っていった。私は状況を理解する目に心層世界から強制的に追い出された。〕


 私は目を覚ます。今は日の明かりが眩しい。逆光で顔が見えないが誰かが膝枕をしてくれている。そんなことを気にしている場合じゃない。

 起き上がってあたりを見回すが誰もいない。私は後ろの人物に視線を向ける。・・リクだ。

「あ・・あ、あ、あぁぁぁぁあぁぁ」

 見れば見るほど涙が湧いてくる。首に布を巻いて、目は光を失い、お腹には大きなガラス片が刺さり、口から微かに血が垂れている。これほどのことになっておきながら、微かに笑っているように見えた。

 私は勇敢な少女の肩の上に涙をこぼした。

 ようやく落ち着いてきた私は残りの涙を腕につけていると、彼女の体が人等にならず、塵となって風に溶けていく彼女の姿を眺めた。異常ではあったけれど、美しかった。

(・・おつかれ、リク)

「だいじょーぶ?」

 純粋に私を心配する優しい声に撫でられる。隣に座っていた砂だらけの天使が必死に握りしめている胸の内側を照らす。

「何だぁ、起きてんじゃねぇか」

 水を差すように砂の上に置かれたヘルメットが話しかける。

「何?」

 エルをぬいぐるみのように抱きしめながら言う。

「いやどうする?もう少し休むか?」

「ん、やすむ」

「お前じゃねえ。お前は担いで持ってく」

 不意に肩が重くなる。私は訊いた。

「私、どのくらい寝てた?」

「まあ、ゆうて30分くらいだな」

 案外短い。いや、よく頑張ってくれた方だ。

「あと因みにだが、他の奴らは全員どっちでもいいらしい」

 少し憎たらしく言う。

「・・・・じゃあ、行きたい」

「おけ、呼んでくるわ」

 そういうと砂の中に潜っていった。モグラ・・みたいだ。

 発泡スチロール箱みたいに拍子抜けな軽さのエルを抱っこしながら待つ。耳元で懐かしい寝息が聞こえる。思わず赤子みたいに背中を優しく叩いていると砂の蓋が開く。

「よし行くか」

「えーずっと歩くのってなんか飽きそう」

「意外と飽きないかもよ、こんな光景だし」

「たしかし」

「コト、遠足とかじゃないんですよ」

「なるべく楽しもうじゃん。何が起きるかわかんないしー」

 砂の穴から出てきて私の横を次々に通り過ぎていく。

「うん、そうだ」

 小さく呟いて、顔が緩む。私も踵を返して彼らを追う。

 ただソウが見当たらない。また振り返ると、なにもないところを見つめてソウが立ちすくんでいた。

「ソウ?どうしたの?」

 ソウは手を合わせて、少し頭を下げると何事もない顔で走ってきた。私は特に深追いはしなかった。

 私たちは見たことない景色と地元の変貌ぶりに驚きながら、不快な感情を忘れて旅を始めた。どんな結末を迎えてもこの間は楽しく、あとで悔い、次にこの世界に落ちる子たちに形なき想いが連なるように生きるんだ。



  4 成功


「砂漠なのに寒い」

 コトが鼻をすすりながら毛布に包む。

「わかる」

「俺もわかるが、砂漠って温まりやすくて冷めやすいんだよな」

「そうなんだ」

 トトが炎を見ながら少しオーバーリアクションで返す。コトは欠伸で返事をする。

「あのー結局あの人が言ってた殺人鬼って何なんですか?」

「えぇ・・」

 コトが気まずそうな声を出す。

「うぅーん・・・・・現状だと3通りあるな」

「何?」

 少し黙ってゆっくり答える。

「一つがあのバケモンが殺人鬼説。二つ目がトクが殺人鬼説。つまりこの場合自作自演だな」

「ありえない!」

 怒りを超えた感情に押され、声を荒げるがそれ以上は何も出せなかった。

「まあ、あくまで予測で可能性だ。あんま当てにすんな」

 一呼吸入れて続ける。

「最後がこん中にいる説だな。たださっきの事故で全員が全員ただ生きようとしていた。つまり誰も殺そうとする余裕もなかった、ということからかなり薄いな」

「あー、だからあのとき!」

 コトがシンを指さして何かひらめいた顔をする。

「ああ、俺があん時、上にも下にも行かずに傍観してたのはそういうことだ」

「へー、ちゃんと理由があったんですね」

 シンは無視して続ける。

「トクがソウである確証もねぇし、消去法であのバケモンがってゆうことになんだよな。だからあんま気にせんでいいと思うぞ」

「というか、そもそも殺人鬼がいないって可能性はないのかい?」

「それがなあ、殺人鬼の存在をこの本が肯定してるんだよな。あたかもこの世界のルールみてぇに書いてやがる」

 みんな自分の夢書を開く。私もみてみるが、かなり最初の方に書いてあった。


【◯殺人鬼について】

 ・殺人鬼は所有読者のうち一人が侵される病のようなもので伝染はしない。

 ・殺人鬼になった者は他の所有読者を狩る欲望と人を殺る意欲に駆られる。

 ・殺人鬼に対抗する方法は、殺人鬼の身柄を拘束する、抹消するなどがある。

 ・殺人鬼は他の所有読者と比べて秀でる部分はなく、ある程度の裁量によって選ばれる。

 ・なぜ殺人鬼が現れるかは二回目なら分かるはずだ。

 ・その他殺人鬼については「追記」を用いよ。


「何?殺人鬼になったら見た目が変貌するわけじゃないの?」

「そこなんだがな、あのバケモンを殺人鬼と仮定して解釈を捻じ曲げると、あいつは元からあんなだったんだろうよ。そうだとすれば恐力だったりで、見た目とかは好き放題変えられるだろうしな・・・・もういいか?寝たいんだが?」

 名生が欠伸をかいて砂の壁にもたれる。

「あっごめん。じゃ、おやすみー」

「おやすみー」

 静けさが帰ってきた時、体に錘を乗せられる。そのまま一日の幕が降ろされた。

「あっおねえちゃん、ただいまー」

 リズが大きなテレビの前で必死にコントローラーを振っていた。おじさんたちの談話和室を彷彿とさせるその和室には、ちゃぶ台と木製のタンスがあった。その場所以外は壁も床も黒かった。

「おかえり・・?何してるの?」

 テレビに目線を固定したまま答える。

「ゲームだよー。意外に暇なんだー。おねえちゃんと会話しようにも結構体力使うからねー」

「ああそうなんだー。そういうことか」

 私はただ白く輝くだけのテレビを覗きながら、トートバックをちゃぶ台の横に座らせる。私は畳の上に寝転がる。天井はないのになぜか優しい光だけが降り注ぐ。腕でその視界を覆う。

「おねえちゃん・・もう大丈夫だよ」

「うん・・」

 私の声は溺れていた。鼻を何度もすすって後悔する。

「私は、最低だ」

「どこが?」

 美しく、頼もしく、儚い背中が優しく問う。

「私は、また、同じことをした」

「どうして?」

「私は、きっと助かるって、きっと救えるって、どこかにそんな妙な希望・・自信があった。だから、ありもしない奇跡に頼ってしまった」

「なんで、奇跡に頼ったの?」

「それは・・・・でもそれは、」

「頼るしかなかったんでしょ?だったら仕方ないと思うけどなー」

「仕方ないで人が死んじゃったんだよ?そんな簡単に済ませれる話じゃな・・」

 私は自分の愚かさにようやく気づいた。だけど心が納得できていないのが余計に不快だった。でもあのリズが言っているのだ。

「これはわたしの意見だけど、わたしはいつまでも仕方ないことを謝れるのはちょっと嫌だなー」

「っ!」

「わたしはこうして今までおねえちゃんを見てきたけど、おねえちゃんが気にすべきなのは自分のことじゃないかなー?おねえちゃん人一倍真面目で、努力家で、自分に厳しいから、もう少し自分を見てあげなよー」

 私は何も言えなかった。それが事実であり、思考の視界から排除してきた部分だったからだ。違う。それは言い訳だ。私は怖くて目を背けたのだ。

 私は起き上がって、黒い床の上に立てられた身体全体を映す鏡の前に立った。

 鏡の中の私はきれいな服を着ていた。安心したのも束の間、服の下を覗くとひどく炎症を起こした大きな傷口に無数の蛆が集っていた。服の上からはたき落とそうとするも、もうすでに手にも体にも感覚が無くなっている。

 感覚のある脚と頭頸部以外の服に隠された部分は、皮膚が抉れ中身が見えるほど酷い有様となって同じように蛆に侵されていた。

「なにこれ!」

 私はパニックになりながら、服の中に手を入れて虫を出したり、腕を振ったりする。

「それが今のおねえちゃんの心だよ。いつ消えてもおかしくない状況だよ」

 リズの声が暗くなる。

「・・・・・」

「おねえちゃん。一つ、もう無茶しないでって約束して!」

「・・・・わかった。でも3回、3回だけは許してね」

「じゃあ、今回ので一回ね」

 私は仕方なく頷く。

 人はすぐには変われないものだ。でも第二者がいると変わりやすくなる。そして変わるということは、何かを失うということにもなる。

「うん。じゃあもう暗い話はおしまい!おねえちゃんゲームしよー!」

「いいよ」

 私は差し出されたコントローラーを手にとって色づいたテレビを見ながら、リズの横に座った。

ーこの夢のことを思い起こす時、私はその時のリズの顔を一切思い出せなかったー

「みんなー起きてー!」

 よく透き通る声が夢の世界から現実に私を連行する。

「なんだ?こんな朝っぱらから・・・・あ〜眠ぃ〜」

 薄ら目を開けるとエル以外寝る前と特に違和感はない。名生は隣のユウの肩を揺さぶる。間もなくしてユウは飛び起きて、勢い余って炭まみれになりそうになる。

「何かあったの?」

 聞こえるか聞こえないかのかすれた声で尋ねる。

「寝ぼけてないで起きろ!これはヤバい・・」

 耳が痛くなるほどの大きな声で叫ぶ。眠気が完全に覚める。

「[第6象限][視同化]」

 私はちゃんと目を開いてユウの後ろ姿を見ていたはずが、急に外に出される。首を回したり歩こうとする感覚はあるのに、この視界は全く対応しない。

「視覚だけ外に送っているだけだ。安心しろ」

 まもなく背の低いビルとビルとの間に山のような、でもかなりドロドロとしたビルを有に超える大きさの生き物がゆっくり進んでくる。

「これって・・」

 私は手を伸ばして意識を集中させる。それには作り出した手が空を刈る。そういうことか。

「ああ、でかいが人等だな」

「あれ?エルは?」

「エルにこのカメラを置いてきてもらったんだがな・・。帰ってきてない・・な」

 動かぬ視点に特徴的な髪の毛と白衣を着た少女が映る。

「おい、何やってんだ!戻れ!」

 名生が叫ぶが聞こえていないようだ。やがて白衣を桐に、いや、フェンシングのサーブルのような剣に変える。一度こちらを振り返るが、まだ暗くてよく顔が見えない。

 エルはそのまま勢いよく人等に向かって走り出した。

 人等には全く気づかれていない。エルは画面のバグを疑いたくなるほど高く飛び上がる。

 視点がエルに変わる。今や左のサーベルを投げようとしている。

「[第四象限][強性]っ!」

 サーベルは光りながら飛んでいき人等の喉元に刺さる。ようやくエルの存在に気づいた人等は恐ろしい速度で無防備なエルをビルに打ちつける。

「エル!」

 ビルには大きく円状に凹みができる。人等は追い打ちをかけるようにビルを粉々に叩く。

「よし、ちょっと行ってくる」

「では、私も行こうかな。モイは来るな。ここで援護やら何やらをしてくれ。」

「じゃあ、僕も行かなーい」

「お前は来いよ」

「僕はここを守る」

「それもそうだな」

 砂埃の中、視点が部屋の中を走り出す。

「[第6象限][性変]」

 サーベルに乗って空中を浮いて、ビルから脱出する。

「[第6象限][性変]」

 首に刺さったサーベルが急激に巨大化していき、やがて人等の首を切断する。エルはそのまま華麗に着地して、サーベルを白衣に戻して着ながら帰って来る。

 私に視点が戻って外に出てみると映像通りの大きさの人等がエルの後ろで倒れていた。エルは何も言わず、何も顔に出さず真顔で、淡々とこちらに近づいてくる。

 日がようやく出てくる。日に照らされたその目には光がよく吸収された。

「・・・・殺す」

 エルがそう呟くと名生に向かって真っ先に飛んでいった。その手には桐が握られていた。名生は全く動じずそのままエルに刺される。

「[第八象限][合成(フェイク)]」

 名生は画面にノイズが入るようにその姿が壊れ、消える。エルのめは光を失ったまま、近くの人間を刺す。刺された人間もまた名生のように消えていく。

 私は動けなかった。この人の豹変ぶりもそうだが、単にエルの気がいつも通りなのが何より怖かった。エルが、殺人鬼なのだろうか。

「おい、エル?どうした?」

 どこからか、シンの声が聞こえる。またエルが近くの人間を刺そうとする。

「エル、無駄だぞ、そこには誰もいない」

 エルには名生の声が届いてないのか猟奇的な殺人を繰り返す。名生は大きくため息をつく。

「仕方ないですね。[第七象限][落睡]」

 コッという高い音とともにエルが砂の上に倒れる。同時にみんなの姿が見えるようになる。

「さて・・誰だ?エル、こんなことしたやつー」

 誰も反応しない。ふと上の方向から嘲笑うときのような不快な気を感じる。私は屋上を見上げる。

「おやぁ、なんかこっち屋上から反応があるなぁ」

 名生が近づいていく。

「っクソ、[第八][乱心]」

 視界がぼやける。ただ焦点をぼかしたときのような程度である。ぼやけた視界の中でその人が逃げようとしていたのはわかった。

「逃れられると思うなよ、ウイルスが」

 身の毛もよだつ声でそういうとその人は叩き落された。

 名生はどこからか出したナイフを手に握る。

「や、やめて・・シン」

「テメェは殺しておきてぇと思ってたんだ」

「ね、ね、聞いてよ・・違うんだ」

「素直に殺されろ」

「いや、いやぁああ」

 そのまま名生を背に逃げようとするが脚を掴まれ体中を何度も刺される。砂が赤く染まる。私は今、殺人を見ているというのに何も感じない。むしろその人に対して怒りを感じてきた。

 やがてその人から生気を感じなくなる。

「ソウ、治せるか?」

「え?あっ、うん」

 ソウはその場でその人を完治させる。

「起きろ」

 その子は薄っすらと目を開けて、ナイフを掲げたシンを見て言った。

「やっと殺してくれるの?」

 先ほどとは声質も口調も違う。名生はナイフを捨てる。

(あれ?リスちゃんだー)

「?」

(ほら、いつもわたしと一緒にいた子)

 記憶はおぼろげだが確かに既視感のある子だ。

「シン、その子、憑依でもされたんですか?」

「ああ」

 名生は寝てしまったリスを横にする。名生の静かな返答に別の疑問を投げかけようにも自制がかかる。

「[第一象限][混沌乱]、依拠」

 リスが寝言を言うと、その体が金砂となって奥の半壊したビルの方向へ照らされながら飛んでいった。

「みんな、構えろ。あのデカブツが起きる」

「は?」

「なぜだ?倒れてるじゃないか」

「リスが『字の譲与』を行った」

「なんて?」

「『字の譲与』だ。つまり自分の字を他の誰かに与えるものだな」

「え、字ってあげられないものじゃなんですか?」

「いや、ある条件を飲むなら可能だ」

「それって・・」

 ビルの奥で首を切られ倒れていた怪物がゆっくりと起き上がる。そして怪物とリスの声が混ざったような声で唱える。

「[第3象限][乱気]」

「ああ、命の放棄だ」

「ああ、だから学校では「できない」って教わったのか」

 あの人等はまだこちらには気づいてはいないが、もうすでに戦闘態勢に入っている。

「あれ避けていけないのかな?」

 トトの質問に名生は手袋を引っ張りながら答える。

「無理だろうな。あいつの字は[乱]なんだ」

 私は不信感が抑えられず、疑心が口から漏れた。

「なんで、そんなこと知ってるの?」

 私の言葉には若干焦燥と怒りがあった。名生は小刀を袖に付いた鞘から出しながら口ごもりながら言った。

「・・こいつは俺の身内だったんだ。あとは察してくれ」

 誰もそれ以上問い詰めなかった。

「ほらーエルー起きてー」

「ん」

 トトの声に目を擦りながら反応する。ゆっくりと正面に顔を上げると目を見開き、口も少し開く。

[第五象限][蜃気楼]

「戦わなきゃ・・」

 ふらふらと立ち上がり、一人あの怪物に向かっていった。

「あー・・エルー、あんま気負いすんなよー」

 名生の声に本能はない。先ほどと変わりない後ろ姿である。

「はあ、仕方ねぇ、まずはあいつ一人に戦わせてやろう」

「え?ダメでしょ。下手したら死んじゃうよ!一緒に・・」

「お前はエルのことを舐めてるようだな。それに俺らの助太刀は時期尚早だ。一人にさせてやれ。・・安心しろ、俺が仲間をそう簡単に死なせやしない」

 名生はコト、そしてトトの肩を叩きながら言った。

「まあでも、すぐに入れるように配置には入っておくぞ」

「全く、シンはすごいな」

 コトは笑いながら声をこぼす。一方名生の気は少し陰る。

「ははっ、今褒めんじゃねぇ。行くぞ」

 エルが走り出す。勢いよく人等の巨大な脚を何度も攻撃する。しかし人等は動じない。最後に人等の膝辺りに剣を刺すが動じない。やがて脚に刺さった剣が膨らみ出すが、水のようにどんどん下に落ちていき、剣は自動的に抜かれた。

 エルは固まったまま剣を眺める。エルの方へ人等の手が伸びてゆく。

「エル!」

 コトが走り出そうとするが、モイにこかされ、派手に転ぶ。人等まであと30メートル程である。

「コト、落ち着け」

 コトは名生に襟を掴まれながら、人等の手から顔を出したエルを眺める。

 エルは人等の口らしきところまで無抵抗のまま持っていかれ、人等の顔に巨大な穴ができる。

「よし、そろそろ準備しろ。合図はエルが出す」

「え?は?」

 そう言うと人等の手が光りだした。そして人等の手が砕け散る。

「よし行くぞ!配置につけ!まだ参戦すんなよ」

「配置に着くだけかい!」

 誰かがツッコミをいれる。私はまだエルを見上げていた。エルの背中には白い翼に頭上に光る輪っかがあった。持っている剣も光っていた。

 人等はエルに渾身の平手を入れようとするが、エルに当たった瞬間、粉砕される。しかし、この人等、手が再生する。人等は基本的に魂の抜け殻とされているため、人間のように再生せずに消えるはずである。

 エルは人等に顔に突進していき、胸、腹、脚、腕とあらゆる部位に穴を空ける。エルの軌跡には光の筋が残っていた。人等は粉々になって砂埃をあげながら崩れ落ちる。

 私の目の前に天使姿のエルが下りてくると、エルは肩を大きく上下に動かし、エルの背中が見えるほどに翼が薄くなっていた。だが、奥の肉塊はまだ動いていた。

 エルは座り込んでいたが、またふらふらと立ち上がって、人等に近づく。

「エル、よくやった。後は任せろ」

 エルは隣の名生に今にも泣きそうで驚いた顔をして、名生に背中を叩かれると気を失ったように倒れた。

 目の前の名生は消える。モイとソウとトトがこちらに走ってきた。

「・・怪我一つないや」

 ソウがそう呟くと私含むみんなの温かな気が充満する。

 みんな3人の後ろ姿を眺める。3人横に並んで歩いている。名生はダガーを両手に、ユウはスレッジハンマーを背中にかけて、コトは刀を右手に構えながら歩いていく。・・・・ヘルメットと目隠しとリストバンド。

 ふとモイを見るとモイは頭に淡い黄色のバンダナをつけていた。二人のインパクトがあり過ぎるだけか。

「[第四象限][乱視]」

 3人が走り出す。肉塊の動きが活発になる。ユウが肉塊の集合物に一撃を加える。

「はあ、行くか」

 トトが少しため息をつきながら、立ち上がる。

「どこに?」

「ちょっと助太刀に」

「あなたの恐力って自爆系って言ってませんでしたっけ?」

「ほとんどね。一個だけ違うんだ。じゃ」

 まもなく肉塊がもとに戻りだす。ユウたちは攻撃を続けるが人等の再生の方が上だった。

 トトが到着すると、名生は少しトトに話しかけた後、こちらを見ながら頭に怒声を流した。

{おい、なんでここにこいつがいるんだ!}

「なんか恐力を使うらしいですよ」

{はあ?}

 トトはそのまま歩いて前に出ていく。

{何やってんだ!}

{[第七象限][存在の落下(パーティグジスタンス)]}

 トトが手を前に出すと奥にいた人等は一瞬にして跡形もなく消える。私達しかいないこの場所で歓声と感嘆混じりの声が響く。

「お前、それ、先に使えよ」

「いやいや、これ、相手が弱ってないと使えないし、他にも大きさとか敵意とか色々条件があるんだから、そんなポンポン使えないよ」

 四人がこちらに歩きながらトトに対しての質問攻めが開始された。

「あっ、もう言っちゃうけど、僕の恐力は「爆破」ね」

「それでなんで、あれが消えんのさ」

「爆発を起こすためにちょっと起爆材料を吸収する必要があるんだよね。そんなことよりさ、もう少しでバス停だよ」

「そんなことよりって・・おい!待て!」

 トトはエルを抱き上げるとバス停の方へ走っていった。私以外がトトを追う。うまく言葉にできないが、なんだか和ましかった。

 笑いと疑念の声が上がる中、無人常動バスが砂の中から現れる。同時に一番に到着したトトとエルがバスに乗り込む。みんな次々と乗り込む。

 私はリスが消えた場所に座って手を合わせる。私とリスの間に面識はなかったが、リズと一緒にいてくれた親友だ。弔わないわけには行かない。

「ありがとう」

(またね)

 私たちはそう言い残して、彼らを追った。



  5 居然


 バスが停止する。みんなその揺れに起こされる。

「・・なんだ着いたのか」

 私は知らない場所だった。バスは明るいのだが、外は暗くてよく見えない。ドアが息を吐きながら道を示す。

「なんだ、夜じゃん。もう少し寝よ」

「いや、起きろコト」

 ユウが少し焦った声で言い放つ。

「このバスどこ行きだったか覚えてるか?」

 だれも答えない。誰も知らないのだ。奥で砂を踏む音が聞こえる。

「はっ!」

 ユウは口を開くとすぐに歯を食いしばって暗闇の中に突っ込んでいった。

「ちょ・・」

「おい!どうした!何かいたのか?」

 名生も続いて降りていく。次いで、モイ、私が降りると天井が照らされ始める。そこは砂でできた地下通路であった。そして奥には、あの人等がいた。

「[第3象限][感情爆発(マインドスピル)]」

 私は足に力を込め、前方へ走る。私は強い風圧と浮遊感を感じながらただただ拳に力を込める。ただただそのことだけに意識を集中させる。そして私の左ストレートは人等の顔面に入る。

 しかし、人等はみるみるうちに空気と同化していき消えた。よく見たらその手の中にトクはいなかった。

 目の前の鉄のドアが轟音を上げて倒れる。3メートルほどのそれには大きな凹みがあった。やがて左手に痛みが、後ろからヒソヒソと声が現れる。

(おねえちゃん?)

(いや、これは・・違くて、えっと・・)

(あと一回ね)

「リユ〜、また無茶して」

 ソウがため息混じりに言いながら、そっと痛みが一瞬にして消える。

「ごめん」

「いいよいいよ、死なれちゃ困るけど・・ぼくが絶対に死なせないから」

「ふっ、ありがと」

 ソウは有名なアニメの名台詞を言ったのだ。ソウも笑っているし、半ば本気で半ば冗談なのだろう。ソウの恐力はすごい。どんな傷でも一瞬で治すことができる。

「いちゃついてんじゃねえー」

 名生が手を頭の後ろに回して通り過ぎる。

「お前が言うなー」

 コトが名生を煽るように言う。

「うるせえー」

「ホントですよ。大概にしてください」

「うるせえー・・、ユウー大丈夫そうかぁ」

「問題ない」

「勝手に突っ込むなよ、脳筋」

 扉の前が和やかになる。この場の雰囲気に乗じて私も冗談を言ってみた。

「では、これからも頼みますよ、役を」

「おk」

「『おk』じゃないでしょー。軽すぎ」

 私もソウもきっとこの33時間で一番笑っているだろう。

「おーきたきた、ねえ、これどうすばいいと思う?」

 倒れたドアのお陰であたかもそこには地面があるように見えるが、ことが砂を掬って落としてみると砂は延々と暗闇の中に落ちていった。

「奥の床は?」

 ソウが尋ねる。試しに砂を投げ飛ばしてみると倒れたドアの先端あたりから床が続いていることがわかった。

「じゃ、これに乗ってくか・・・・さて」

 名生は私の後ろを見る。振り向くと俯いたままのエルが口を結んでいた。

「あの・・えと・・ご、ごめんなさい・・・・」

 その瞳にはあらゆる光が映っていた。頭が深々と下がる。

「よし、行くぞー」

 名生はまさかの返答をする。流石にエルだけじゃなくみんなが名生に視線を集中させる。

「ちょっとその返答はどうなの?」

「あ?何かおかしいか?」

「うん、まるでエルのことを無視してるみたいじゃないか!」

「無視?」

「ほらさ、エルの謝罪をさ・・」

「はっ、何だ?お前はこいつに謝ってほしいのか?」

「いや、そうじゃないけど・・」

「じゃあいいじゃねえか。それともこいつが謝らねぇといけねえほど何か悪いことやったのか?」

「いや・・」

「はあ、いいこと教えてやる。いいか?お前ら。「みんなが挙って悪いと思うこと」をしたと自覚したときしか謝んな。そんなことやってねえのに謝られるのも、やったくせにぶっきらぼうに謝られるのも、クソほど気持ちわりい」

 みんな反論できなかった。名生は付け加える。

「エル。今ここにいるやつは誰もお前のことを悪いと思っちゃいねえよ。」

 私も頷く。エルは目に涙を溜めていた。

「だから、謝んな。ただ俺達を不可抗力にも傷つけようとしたことに関しては、お前の中だけの話だ。独りで自分の弱さとにらめっこしとけ。お前の感情にこれ以上付き合わせんなよ」

「なんで、そんな・・怒らないの?」

 潤った声で問う。

「話聞いてたか?あぁー、今キレそうだ」

「まあ、要はエルが謝る理由がないってことですよ」

「そうそう、謝るべきはシンだからさー」

「はあ?あーもうこれには我慢できねぇ」

「・・ははははは」

 エルが小さく笑い声を上げる。その顔は気持ちよさそうな笑顔だった。

「やっぱ、ボクが笑わないとね」

「おい、なんでそうなる」

 トトがポケットからストップウォッチを取り出して、電子音とともに止める。

「はいっ、えーと、エルが笑顔になるまで、5分33秒かかりました。えー、今後はね、もっと早くできるように頑張りましょう」

「それ、校長先生の一言じゃん!」

「何やってんだ?バカバカしい」

 トトがやったのはおそらく避難訓練の校長先生の講評の伝説の二言である。聞くところによると、言いたいことが真っ白になったそう。

「なつかしい」

「マジで・・マニアック過ぎ・・」

 私も思わず思い出し笑いをしてしまう。あのときの言い方いい、間といい、本当にジワジワ来る。

「っくく・・は、早く行くぞ・・」

 名生は笑いを堪えながら言う。

 無事、みんな危険な橋を渡り終える。まだ顔のニヤつきが取れない。左にあった人一人が通れる狭い通路の突き当たりに扉があったらしく、順番に入っていく。部屋の中は暖炉と柔らかい白い毛皮で作られた絨毯など誰かが住んでいるのではと疑ってしまうほど生活感に溢れていた。

「エル、探検でもしてくるか?」

「うん!モイちゃん、行こ!」

「私は・・」

 開いた口が塞がっていく。

「おう、連れてってやれ」

「後でし返します。絶対」

 モイはそう言い残して部屋の奥の方へ連れてかれていった。ドアが閉まる。

「シン、休んだらどうだ?」

「そこまで、疲れちゃいねえよ」

「いや、違う違う。私が寝るんだ。子守唄でも歌ってくれ。君の話には快眠作用がある」

「仕方ねえなあー」

 二人はスタスタと右側の部屋へと向かう。

「コトは門番みたいなことしといてくれ。あとは知らん」

 そう言い残して、部屋に吸い込まれていった。まもなく部屋から物が床に落ちるような鈍い音が聞こえたが、ユウが「おい、誰だー、ここに彫刻置いたやつー」と言うので大事ではなさそうだった。

 役割を与えられたコトは玄関先で、早速手を動かしていた。隣のソウに声をかけるとそれは虚しく消えた。

「ソウ君なら二階のロフトにベッドを見つけて、そこで寝てるよ。僕は本でも読もうかな」

 トトはそう言って左側にある通路のソファーを陣取った。そこは薄暗く本を読むにはいささか不都合に見えたが、トトの顔が照らされたことで納得した。

 玄関にあった地図を眺めているコトを横目に、私は暖炉の前を陣取った。絨毯はふわふわだった。実際の動物の毛皮を使っているのかはわからないが、体を埋めてしまうほど気持ち良い柔らかさだった。

 ふと、トクの顔が脳裏に浮かぶ。大丈夫だろうか。トクは運動神経もいいし、ちょっとやそっとのことでは怪我をしない丈夫な体の持ち主だ。でも姉として、家族としてどこか寂しく気がかりである。

 先程から懐かしい曲が流れている。どこで聴いたのかは思い出せない。ただただ温かい。

「この曲なあに?」

 左のライトに訊いてみる。だいぶ待ったが返事はない。「ねえ」と再び聞こうとすると視界が貧血の時のように歪み、一つ、瞬きをしたときには見覚えのある間取りに変わっていた。

 そして目の前を通った少女に意識が吸い込まれていく。


  ・  ・  ・  ・


 薄く開いた扉の先から美しく清々しい音色が聞こえる。とても澄んだ気だった。心の焦げが剥がれていくのを感じた。

 その扉を開けてみたかった。扉の先の白い光に触れてみたかった。小さな隙間にまだ小さな手を伸ばす。扉に手が近づくほど、自分の体に纏う気が焦げていく。

 浄化の曲と相まって私の体は燃えているようだった。これは汚かった。その言葉でさえ恐ろしかった。焦げが腕を重くする。

 やがて、扉につく前に腕は落ちる。曲は知らずに流れ続ける。私はただ曲を聴くだけにした。部屋の外の暗い廊下で寒い廊下で、曲で暖を取った。

 風向きが変わったのか、扉が音を立てて閉まる。曲もそれに反応して不協和音を何度も繰り返し叩き出す。醜い音に体を震わせていると、やはり女性の奇声が部屋から漏れ出す。体は跳ね上がり、持っていた毛布に包まる。

 部屋の中でドシドシと鈍い足音が徐々に大きくなる。勢いよく悲鳴を上げて扉が開くと人ならざる形相で私を見下す。

「お前ぇええ!!またかぁああ!!」

 その怒声は家中に広がる。奥の部屋でまだ赤子のリズが泣き始める。髪が荒波のように乱され、とても人間と思えないほどやつれた顔を見上げると、今にも飛び出そうな充血した目が私に向かって、その押し潰されそうな眼光を絶えず浴びせる。

「アイツを黙らせてこい」

 表情を変えずに悪たらっしく絞り出すような声で、そう告げるとリズをあやすように促した。私は鼻を啜りながらリズの方へ向かう。

「泣くなぁああ!!」

 枯れるような声で叫ばれる。私はそのバケ・・母から逃げるように走って、目を拭って、喉の鉛を飲み込んで、リズを宥めにいった。

 リズの部屋は寒かった。けど廊下よりかは温かい。リズの小さな額に手を乗せる。熱はない。リズの目も潤んでいたが、私のひどい顔を見て、きっと引いたのだろう、少し驚いた表情になったまま泣かなくなった。

 リズから水滴のような気がポツリポツリと滴る。これは・・心配されているのだろうか。私はリズの小さな体を優しく抱きしめた。温かい。

「ありがとう。あなたのことは私が守る」

 リズは父と入れ替わりで生まれた。そのせいで母はリズの誕生を憎んでいる。ただ、父には暴力癖があり、今も父の痣がいたるところに残っている。

 でもそんな自殺してしまった父だが、一応真っ当に働いてくれていたおかげで、母が回復するまでの蓄えはある。が、今のところ母が回復する見込みはない。母は自ら通院せず、一通りの家事と趣味の演奏を行っている。

 視界にノイズが走るように景色が歪んで、また景色が変わる。私の掌は先程より大きくなっていた。

「はい」

 私の手の上に3本の四つ葉のクローバーが置かれる。

 相変わらず母の顔に生気は感じられなかったが、これに関しては純粋に嬉しかった。少し枯れているが、実物をみたのは初めてだった。幼い頃に四つ葉のクローバーを見てみたいと言ったことがあったが覚えていてくれたのだろうか、と色々と嬉々として思考を堪能した。

「ありがとう!」

 笑顔でそう告げると「ん」と一言だけ返ってきた。母は遠い目で笑みを浮かべると、お酒の入ったグラスを口に運んだ。私はこの上ない喜悦に浸って自分たちの部屋へ戻った。

「みてみてー!お母さんからもらったー!」

 興奮止まぬ感じで部屋で淡々と机と向き合っていたトクに話しかける。トクは一段落つけて椅子を回転させて、この萎れ、黄化したクローバーを見る。

「1、2、3・・4!?うわーすっげー、初めて見た。本当にあるんだな・・」

 私は笑顔で頷きながら、一つトクに渡す。トクは掌の小さな植物にすっかり夢中になる。私は、もう何も住んでいない土の入った水槽に二つを並べて立たせる。

 植えてから芽は少し背を伸ばして、一瞬にして枯れ落ちた。やがて、私の腕の痣も薄くなり、少し大きくなる。

 また、あの曲が流れる。突然、不協和音が混ざると、また、闇に覆われる。美しい旋律の中にいてはならない悪魔が所々で顔を出して、清らかな白紙に泥を重ねる。

 辺りは暗闇ではあったが人影が見えた。気は無いが人等ではない。彼女等は何も言わないが、言葉を媒介としない想いが直接心に響いた。目を閉じても耳を塞いでも絶えずに増えてゆく。

 苦しい。何が?誰が?なぜ?・・そんなことは知らない。わからない。わかれない。

 私は破れてしまった膜を編み出す。ここはきっと、言うまでもなくパンドラの匣だ。

 最後の一縫いを玉止めして、歯で見えぬ糸を切ると夢の泡が弾けた。


  ・  ・  ・  ・


 瞼を退けると温かい炎が踊っていた。頬が一筋濡れる。手でよくわからない感情を拭う。

「なんか、懐かしい夢を見たな・・」

 炎に向けて一粒の雨粒を落とすように言う。

 涙がでなくなると喉が渇いた。バックから水筒を取り出す。母がくれたものだ。横向いて飲むと後ろのソファーに誰か座っていた。ゆっくりと振り返るとそこには知らない少年がこちらを見つめて座っていた。

 丸と3角のメガネをした少年は笑顔を浮かべて言う。執事を連想させる服装は彼の高身長に似合っている。

「やあ。はじめまして。そしていらっしゃいませ」

「だ・・どちら様です、か?」

「ここの持ち主で、君たちの案内者(ナビゲーター)です」

「・・・・」

 本当によくわからなかった。ナビゲーター?

 まあ、彼の言っていることはどうであれ、彼の心を読めば彼が何なのか分かる。

 私は彼に手を差し出し握手を申し込む。私の納得したような相槌に彼はそれを快く受け入れる。

([第6象限][心透])

「えっと、詳しい話や案内はみんなが起きてきてからします、」

(えっと、大丈夫かな?これから他の人とも会って、ああ説明して、で、あそこに案内して、で、えーーと、ま、まずは説明の内容を思い出そう・・)

 彼の心の中は緊張による半ばパニック状態だった。

「えっと、ナビゲーターさん?緊張しなくても、間違ってもいいんだからね」

「え・・?」

「あ・・」

 しまった。彼は彼で緊張を隠していたのだろう。私は慌てて言い訳を探る。

「いや、手が震えてたから、そうなのかなって・・」

 彼の手を凝視する。手の中に汗が滲む。彼の目線も動く。

「・・あっうん、ありがとうございます。大丈夫ですよ」

 彼はジーパンのポッケに手を入れて、炎の方へ歩いては徐々に薄くなっていく。

「まあ、後のことは後で話しますね。何かあったらお呼びください」

 そう言い終える前に消えてはいたが、言葉だけは残存していた。そういう能力なのだろうか。それともテイシスの補助動力によるホログラムなのだろうか。

 いや、これほど時間が経っているのにテイシスは機能しているのだとしたら、おかしい。いやでも、APでも点いていたし、補助動力が動いているのか。ただネットが使えないだけということだろう。

「さて・・」

 お母さん大丈夫かな・・。家ももはや懐かしい。過ごした十数年がたった3日に収束する。ただただ今が長い。不規則で循環的に動く炎を見て耽る。

 朝起きて、洗濯機を回し終え、いざ干そうというときに一斉に騒音が怒りの旋律を奏で始める。その音に頭を撃たれて私は倒れた。私は痛みも無く体の力が奪われたことに恐怖心が当然あったが、それでも這いずって部屋から廊下、トクの部屋へ向かった。

 トクはいつも通りを過ごしていた。そこで意識の灯火が途絶えた。

 トクの声で目覚めたときは、この世に音はなく、トクと軋む階段を降りる。母はいない。作られたばかりの世界にいるように新奇で不思議な新鮮な感情であった。

 玄関には私とトクの靴しかなかったから、母が外に出たことは明らかだった。かすかな希望とともにすぐに外に出てみたけれど、そこには母どころか、歩いている人や動物さえもいなかった。

 明らかな異変であった。ただ私はなんとも思わなかった。いや、何を思っていいのか分からなかった。それでもやっぱり母のことを考えた。結果、母を追うことにした。

 その準備の間、極力家のものは持ち出さないように気を張った。私達はトートバックだけ持ち出すことにした。

 トクは丸めて私のバックの中に入れた。バックの中には水筒と財布くらいしか入っていなかったから、今見ると、少しありがたい。

 双子とは言え、いつも一緒にいたわけではないが、当たり前の消失というのは、なんとも否応なく受け入れざるを得ない。実に虚しい。

「起きて」

 聞きたい声が聞こえる。

「トク?!」

 瞑りかけて目をカッ開く。ソファーの向こう側は黒い霧が覆っているが望む影一つない。

「何言ってんだ、寝ぼけてんじゃねえぞ」

 口が塞がらないまま、炎を反射する顔を見る。視界の中には見覚えのある顔が他にも6つ、私を囲むようにあった。

「あれ?」

 分からなくなる。いつの間に、より、言葉で集められない黒が混ざった。

 は?は?なんで?私が見てるものは何?夢?さっきの声は確かに・・。でも。

「何だ?どうした?」

 欲しくない疑問が重なる。積み上げたジェンガが私の方へ倒れる。

「いつの間に・・」

「あ?さっきだよ。お陰様で9時間も寝たぜー」

 名生は首を回しながら言う。他の誰もその言葉に疑問を持たない。私はいつ寝たのだろう。9時間も。俯いたときあることを思い出した。

「ナビゲーターさーん!」

 暗闇が群がる天井に向かって声を張る。ただし、残って、返ってきたのは静寂と気不味さだった。だんだんみんなの視線に焼かれていく。

「ごめんなさーい。遅れましたー」

 私に纏う熱が一瞬のうちに冷めていく。視線の焦点は彼に移る。

「皆様、お初にお目にかかります。ここの管理人であり、貴方方の案内人、ナビゲーターさん改め、新田盥(にいたらい)と申します」

 右腕を胸の下に添えてお辞儀をする。先程より、敬語がうまくなっている。とはいえ、彼がいるということは私はあの時までは起きていたのか?

 すぐさまエルが手を挙げる。

「何でしょうか?エル様」

「何才ですか〜?」

 つられて敬語になる。春に担任の先生にするような質問をなぜ今・・。

「皆様と同い年です」

 笑顔を絶やさずに答える。

「同い年なら、敬語やめようよ」

 コトの隣でモイが腕を組んで頷く。

「そうだな。エルもつられて敬語になってやがる」

「なってないよ」

「なってたぞ」

「なってない!」

「なっ・・はぁ、じゃあもうそれでいい。とにかく敬語はやめろな」

「・・わかりまし、わかった」

 少し残念に思う。なんだか、本当に残念だ。

「私もですか?」

「お前は好きにしろ」

「・・えっと、もういいかな?」

 盥が小さく手を挙げて言う。名生は掌を彼に向ける。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ