52.衣・食・住
結局、ヴェイツ辺境伯への報告は一旦保留ということになった。
シャナ自身、報告されるものと思い込んでいたから諦めていただけで、できるなら王族に近い貴族とは関わりたくない。
だが話に聞く限り、どうも辺境伯は王家よりも召喚された日本人に寄り添うスタンスであるようなので、昨夜は判断を保留したのだった。眠気に負けたともいう。
辺境伯家というか、北部全体は戦争反対派であり、仮に報告していた場合でもすぐに王族にバレることはなかっただろうとヴィルは言っていた。
さらに当主自ら魔の森の討伐に赴く上、領内の税もそれほど厳しくはない。領民とも距離が近く好かれているとのことで、話を聞く限りでは良い領主なのだろう。
それに王都に戻らないことを選択した過去の聖人・聖女が住み着いた地でもあり、黒髪や黒目などの日本人的特徴を持つ平民が他の土地に比べて多い。
土地柄か辺境伯家の意向かはわからないが、日本の食文化が王都よりも根付いているのを見ても王族に対する忌避のようなものは感じない。
そう、日本食である。
イェーレブルーの主食はパンではなく、米である。
もう一度言おう。
米である。
魔の森に目が行きがちだが、イェーレブルーは山間の土地にある。雪解け水がゆっくりと山に沁み込み流れ込んでくるため、非常に水資源が豊富だ。街中にも大小差はあれど川がいくつか流れている。
この山から下りてくるのは水だけでなく、風も吹き込む。そのため春から秋にかけて昼夜の寒暖差が大きくなり、米造りに最適な環境となるのだ。
イェーレブルーを中心とするヴェイツ辺境伯領は魔の森から国を守る盾であり、国から定められている税率が他の領よりも低い。さらにヴェイツ辺境伯自身も裕福な暮らしや贅沢には興味がない。
防衛費には糸目をつけないが、それも領民の平和を守るためのもの。
辺境伯領の収穫物の内、麦は国へ納める分がほとんどだ。麦の作付けを増やしたところで国からの徴税が増えるだけだ、と最低限しか作らせていないのだという。
その結果、麦で税を納め、米と芋を主食とするようになった。
さらに過去の聖人・聖女が大豆による加工品の知識も持ち込んだことにより、醬油や味噌といった調味料に加え、枝豆や豆腐等も食卓に並ぶ。
「ありがたや……」
その恩恵を口にしたシャナはしみじみと先達たちに感謝をささげた。
疲れていたのか、朝というには少し遅い時間にやっと起きたシャナは、ハンナが作りおいてくれていた朝食――白米と豆腐の味噌汁にダンジョン産の魚を焼いて醤油を垂らしたもの――をいただいている。
この世界に来て初めての和食である。
一口一口を大事に噛みしめて食べてしまうのは仕方のないことだった。
「食べ終わったらエドガーのとこの商店に行くぞ」
「はーい」
向かいに座ってシャナが食べ終わるのを待っているヴィルは、いつも通り日の出とともに起きて身支度と食事を済ませている。
手持無沙汰だろうに、急かすこともなく待ってくれるのはありがたい。
「だらしねぇ顔してんぞ」
ただ、人の顔を見ての感想としては最低である。
+++
いつもの倍ほどの時間をかけ、久しぶりの和食を堪能したあと、シャナはいつもの鞄と外套を身に着けて宿を出た。
細雪はいつも通り首に巻き付いてまどろんでいる。蛇の生態はよくわからないが、魔物から普通の生物になったことで何かしらの影響があるのかもしれない。
鞄からは野営道具などの買い物に不要なものは除いてきたので非常に身軽に感じる。
今日はまず下着と着替えを買うつもりである。
下着は元の世界で着用していたものに加えて、王城で手に入れたものがあるが現代日本人女性の感覚としては心許ない。
服に至っては<穴熊>で購入した物のみで、上下ともに二着ずつしかない。上着のベストに至っては一着のみだ。そしてどれも男物である。
旅の最初、女の一人旅は危険だからと男物の服を<穴熊>の老婆が勧めてくれた。途中からエドガーやヴィルが同行し一人旅ではなくなったが、旅のさなかに荷物を増やす気にはなれなかった。
シャナとて引きこもりのアラサーとは言え、状況が許すのであれば人並みにオシャレを楽しみたい。
他に仕事を見つけるまで冒険者として装備は今後も使うだろうが、私生活でぐらいスカートや刺繍の入ったシャツを着たいのだ。
そして生活に余裕ができたら刺繍を習って自分の服や小物を好みにカスタマイズしたり、何なら服だって自作してみたいところだ。
オタク活動の一環として、衣装を自作してのコスプレも嗜んだ経験のあるシャナである。
旅の目的地であるイェーレブルーへ辿り着き、S級冒険者たちが常宿としているおかげで安全性の高い<獅子の尾>を当面の宿とすることができた。
この世界ではもう食べられないかと思っていた白米やみそ汁、醤油と再会を果たし、朝から心行くまで堪能し今後も食べられる目途が立っている。
住居、食事が満たされたことで、シャナの意識は残る「衣」に完全に振り切れていた。
向かう先である<青葉>商会で、エドガーとその両親がリンス液販売に向けて虎視眈々、手ぐすねを引いて待っていることなど、ちらとも予想していない。




