37.敵は世界観ギャップ
「お待たせ……」
嬉々として跳ねるように女湯へ消えていったシャナが、深くフードを被り意気消沈した様子で公衆浴場から出てきたのを見て、ヴィルとエドガーは何事かと顔を見合わせた。
「どうした? 何かあったのか?」
「シャナ、大丈夫……?」
早々に入浴を済ませてシャナを待ちぼうけていただろうに。気遣う言葉にありがたいやら申し訳ないやらでシャナの涙腺が緩む。
今日は朝からいろいろなタガが外れてしまっていて、自分でも言動や行動がおかしくなっていると感じていたが、情緒までおかしいらしい。
「うぅ……」
「うおっ?!」
「えっ、ちょ、わわ……っ」
夕暮れ時とはいえ人通りの多い道端である。だというのに驚くほど感情を鎮められず、呆気なくぼろりと涙が転がり落ちた。
驚き慌てふためく男たちにますます申し訳なくなって、それがまた涙腺を刺激する悪循環だった。
「エドガー、悪いが先に宿に戻るから夕飯買ってきてくれ」
「あ、はい! わかりました!」
「ぅあー……ごべんんんん……」
背に添えられた手に促されるまま、ヴィルの胸元に額を押し付けたらもうだめだった。
大きくて暖かい手が優しく背中を擦るものだから、余計にシャナの自制心が職務放棄してしまう。いや、朝、ヴィルの長い腕と脚の中でしゃくりあげたときから機能は停止していた。
慌てた足音が遠ざかると、背中の手が脇に差し込まれた。え、と思う間にふわりと身体が浮いていた。
瞬きと共に涙が零れ落ちて、いくらか鮮明になった視界はいつもより高い。驚くより先にわずかな振動が伝わってきて、街並みが緩やかに流れていった。
「……えっ?」
「ちゃんと掴まってろよ」
「あ、はい」
言われた通りに視界の端にあった太い首にしがみついた。
抱っこされている。それも親が幼子を抱くような縦抱きである。
シャナの顎の下にある肩は逞しく、背と尻を支える腕は安定感がある。厚い胸板と割れた腹に密着した身体が、汗をかきそうなほど熱いのに冷や汗が出そうだ。
「え、いや、これはちょっと……」
「もう宿だから大人しくしとけ」
「ひぇ。人の話ちゃんと聞いてよぉ」
「部屋でな。いくらでも泣いていいぞ」
違う、そうじゃない。
とっくに涙は引っ込んでいるのに、顔を上げられない。公開処刑とはこのことか。
押し問答の間、ヴィルの腰に回すしかなかった両足でもがいてみたが、鍛え抜かれた肉体を持つS級冒険者は意にも介さなかった。
鋼の肉体には鋼の精神が宿っているのだと学んだ。そしてこの男と羞恥心や社会通念は共有できないことも。
確実にあらぬ誤解を量産しつつ借りた<赤鷲亭>の一室で、借主のヴィルより先にうつ伏せにベッドを占領したシャナはひたすらに身もだえた。
「ぐぅぅぅ……なんたる辱め……」
「寝床にまで鼻水つけるなよ」
「人の心がないのか……」
異世界交流はかくも難しきものなり。
両手を使って丁寧に運んだだろ、と言われてもシャナにはその丁寧さがわからない。片手であったとしてもきっとシャナは今と同じように身もだえたことだけはわかる。
「で? 何があった?」
街中で泣き出した女を丁寧に運んでベッドも提供したうえ、話まで聞いてくれようとする男は間違いようもなく優しい。
社会通念性の共有はできないし、シャナの胸の内を理解も共感もしてくれないが。
「……石鹸盗られた」
「おう」
「絵は富士山じゃなかったけど、めちゃくちゃ日本の銭湯っぽいのに治安が悪すぎる……」
「……ニホンってのは随分といい国なんだな」
ヴィルにしてみれば”富士山”も”銭湯”も聞き覚えのない単語で、言葉の意味は理解していないだろうに、問い返すこともせず相槌を打ち、感心したように言う。
「備え付けの石鹸使ったら髪ギシギシバサバサで泣きたいぃ……。こっち来てから髪も肌もぼろぼろでやだよぉ」
泣きたい、と言う声が震えていて、シーツとフードで顔を隠している意味はなかった。
美容オタクの友人からはもっとあれこれ手間をかけろと言われたシャナではあるが、それでも自分なりに肌や髪の手入れには気を使ってきた。
特に髪は細くてふわふわと広がりやすいくせ毛なので、毎日丁寧に洗ってヘアパックとトリートメントの上、オイルでケアもしていた。
そうでもしないとまとまらないともいう。
こちらの世界にシャンプーやリンスはない。
王城の風呂場にも石鹸一つあるだけだったので、おそらく身体と髪を分けて洗ったり、髪を保湿するといった概念がないのだろう。
整髪剤代わりのオイルくらいはあるかもしれないが、少なくとも市井で使っている人はいなかった。
ハンドクリームやリップクリームなどもきっとないのだろう。
手や唇もかさかさと乾燥が気になって仕方ない。冬になったらもっと酷く乾燥して血が出るだろう。今から考えただけで憂鬱になる。
日本では当たり前にできていたことができない。
それがこんなにも精神を摩耗させるとは思わなかった。
「馬車はお尻痛いうえに人のことカモにするし、宿でも安心して休めないし、ベッド固くて痛いし汚いし……」
「そうだな、この価格帯の宿はみんなこの程度だからな」
木箱にシーツを被せただけのベッドを叩きながら嘆けば、ヴィルもうんうんと頷いて同意する。
筋肉の鎧に覆われていてもこのベッドは痛いらしい。ならば現代日本で、安価でもふかふかのマットレスで快適に安眠を得ていたシャナが馴染めないのも当然な気がした。
「ごはんもみんな似たような味だし、お米ないし、味噌と醤油が恋しいよぅ」
屋台や宿屋での食事しかシャナは知らないが、基本的に塩コショウと魚醤の組み合わせばかりだ。香辛料やハーブはあるはずなのに、活用されていないように思う。
色味から醤油を使ったタレかと思って食べたら、鼻に抜ける臭みで魚醤だった、というがっかりを何度か繰り返している。期待をやめられないのだ。
「安心しろ、過去の聖人が広めて、イェーレブルーの主食は米だ。ミソとショーユも生産してる」
「マジで?!」
ぐだぐだと管をまくシャナ。その頭をぽんぽんと撫でるヴィルからかけられた言葉は、福音と言っても過言ではなかった。
がばりと勢いよく顔を上げ、期待を込めた目でヴィルを見つめれば、そのあまりの食いつきぶりにたじろぎながらも頷きを返してくれた。
「や、……ったぁぁぁぁ!! これで、勝つる!」
「何と戦ってたんだ……」
世界観ギャップとである。
ベッドの上で膝立ちになり、両手を高く突き上げ全身で喜びを表現するシャナと、それを若干引いた目で見るヴィルの間にある、それである。




