36.告白と公衆浴場
購入したばかりの防具を身に着けたシャナは手にした棍棒……もとい、杖をひと撫でしてむふん、と満足げに口元をほころばせた。
杖ではないらしいが、魔法性能と言われてもよくわからないシャナにしてみれば、軽くて持ちやすい方が良い杖である。
「まだ明るいけど、この後はどうする?」
自分の装備を店で整備してもらったばかりのエドガーが空を見上げて言う。
昼過ぎに来店し、さほど時間もかからず買い物を終えたのでまだ夕暮れには少し遠く、明るい街中は活気に満ちている。
「特に用がなければ宿に戻るか……」
今夜からシャナやエドガーと同じ<赤鷲亭>に宿を移すことにしたヴィルは、荷物のすべてを魔法鞄一つにまとめており、実に身軽でうらやましい限りである。
「あ、はい! 公衆浴場に行きたいです!」
「風呂? この間あんなに嫌がってたのに……大丈夫?」
挙手をしたシャナに、エドガーが驚いたように目を瞬いた。
どうやら川で泳げないと言ったり、先日公衆浴場を断固拒否したことで、エドガーの中で「シャナは水恐怖症」と認識されている節がある。
実際のところ、単に性別を誤魔化していただけなのだが。
「魚だった前世を思い出したんだよな?」
「えっ、前世?!」
「ちょ、その話は忘れてってば……!」
今朝、諸々のシャナの事情を知ったヴィルが意地悪く口の端を釣り上げて言えば、人を疑うことを知らないエドガーがきらきらした目でシャナを見る。
我ながらどうかしているとしか思えない言い訳だった。恥ずかしくなりながらシャナは手を振ってヴィルを止めた。
エドガーが「俺の前世はなんだろう」などと期待のこもった眼をしていて居た堪れなかった。君はきっと犬だよ、とは思っても言わないでおいた。
「えぇとね、黙っててごめんなんだけど、私これでも女性でして……」
「えっ?!」
人懐っこい犬のような目が見開かれて、まじまじとシャナ――のどことは言わないが――を見た。
しかしすぐに自身の視線が不躾だったと思ったのか、顏ごと視線を逸らされる。いい子だ。
「そ、そうなんだ。確かに名前の響きが女性っぽいなとは思ってたけど……全然気づかなかっ、あ……」
「うん、女の一人旅は危ないって聞いてね。男性に見えるようにしてるから、そう見えてたなら全然、まったく、なんの問題もないんだけど」
「あ、あぁ、そうだね。ただでさえシャナは攻撃手段がないし、大事なことだよ」
数日間、朝から晩までともに依頼を受けていても「全然気づかなかった」のか。エドガーの人を疑うことを知らない善性以外の何かがある気がしたが、目をつぶることにした。
男に見えるようにしていて、実際男に見えていたのなら何の問題もないではないか。
シャナはそう自分に言い聞かせた。
だが視界の端で笑いを堪えているS級冒険者は別だ。許さん。
「この先も一緒なら話しておいた方がいいかと思って。ヴィルにはもうバレてるし」
「そっか、教えてくれてありがと! 水が平気ならよかったよ」
まさに好青年。
シャナの事情を理解し明るい笑顔で頷くエドガーに、目が潰れるかと思った。
「なんていい子……こんな大人になっちゃだめだよ……」
「こら、俺を指さすな」
「ヴィルさんは憧れの先輩だよ!」
「「うっ……」」
エドガー少年の純真な笑顔と憧れのこもった視線に、思うところが多々ある大人二人は胸をおさえて呻くしかできなかった。
すでに浄化されたような気分とはいえ、シャナのお風呂への気持ちが冷めることはない。
王城からいただいてきた石鹸もようやく使い時だ。
この世界の風呂や石鹸は、やはりというか過去に召喚された聖女・聖人により生まれた文化や技術らしい。
それまでは風呂と言えばサウナが一般的で、それも王侯貴族や裕福なごく一部の商人だけの贅沢だったのだが、そこは風呂好きの日本人である。王家と縁づいたこともあって、あっという間に国内に日本式の風呂文化を普及させた。
そして風呂と共に衛生管理という概念が生まれ、石鹸が普及した。
とはいえ最初のころは動物性脂肪と木灰からなるいわゆる「軟石鹸」だったため非常に臭く、風呂はともかく石鹸はちょっと、という人が多かったらしい。
その後、「硬石鹸」が作られるようになったことで、改めて衛生に意識を向ける風潮が強まり、石鹸を完備した公衆浴場が国中に作られるようになった。
……とかなんとか。
ヴィルからの課題資料のどこかで読んだ気がするが、成り立ちなどシャナにはどうでもよい。
毎日”浄化”で綺麗にしているので汚れなどはないはずだが、それとこれとは違うのだ。
温かい湯に肩まで浸かる。その行為そのものに意味がある、とシャナはそう思っている。
王城からいただいてきた白い石鹸でざっと身体を洗い流し、いそいそと大きな石造りの風呂に身を沈めれば、すぐに体から力が抜けた。
「ふぁぁぁ……」
この世界に来てからの疲労やストレス、その他いろいろのあれやこれやが溶け出すようだった。
街並みから古代ローマのテルマエのような浴場を想像していたが、実際に訪れた公衆浴場は洗い場と大きな浴槽、そして壁画と、とても銭湯っぽい。
タイルではなく石造りであったり、壁画が富士山ではなく見覚えのある裸の夫婦神だったりと細かな違いはあるが、全体的な造りは完全に日本の銭湯だ。
なお、衛生面はまだちょっと信用できないので、入浴前に浴場全体にこっそりと”浄化”をかけさせてもらった。
「お嬢ちゃん、随分きれいな黒髪だねぇ」
「もっと北の方の出身かい?」
「あー……ありがとうございます。イェーレブルーの方から来ました」
込み合う前の時間帯だったらしく、数少ない先客は近隣に住むご婦人方でみな顔見知り同士のようだ。その中で見慣れぬシャナは少しだけ浮いていた。
とはいえ黒髪と幼く見える容姿のおかげでにこやかに受け入れてもらえ、話好きのご婦人方にあれやこれやと話を振られて少し落ち着けない。
あらかじめヴィルに設定を考えてもらっていなければ、受け答えに困っていたことだろう。さすがはS級冒険者。先見の明がある。
問題はシャナの対人スキルや嘘をつく罪悪感である。
話が途切れたタイミングで髪を洗うため、そそくさと浴槽から洗い場に避難したが、先ほど使って置いておいた石鹸が消えていた。
「え? あれ? えっ?」
場所を間違えたかと周囲を見渡すも、備え付けの薄茶色の石鹸が等間隔に置かれているだけで、シャナが持ち込んだ白い石鹸は見当たらない。
きょろきょろとうろたえるシャナの後ろを、浴槽でにこやかに言葉を交わしたご婦人方が通り過ぎて脱衣所へ戻っていく。
「高級品をその辺に置いといちゃだめよ、お嬢ちゃん」
うふふ、あははと華やかな笑い声と共にガラス戸の向こうに消えたご婦人方に、シャナはすべてを悟った。
(く、くそばばぁ……っ!)