19.初めての戦闘
「くっ、腰が……!」
地べたにしゃがみ込んで草をむしる行為は、運動不足のアラサー喪女の腰に大ダメージを与えた。
考えなくてもわかっただろう結末だが、依頼を受注したときのシャナにはそんな未来は見えていなかった。つまり、浮かれて何も考えていなかったゆえの、自業自得である。
痛む腰を叩きながら上体を起こして軽く背を逸らす。ぼき、だかぱき、だかあまり宜しくなさそうな音が聞こえた。
あいてて、と腰を擦りながら摘んだ薬草の本数を数えると、ちょうどあと一本で規定数となる。
魔法の練習が主な目的ではあるが、小銭でも稼げるときに稼いでおかねばと顔を上げて周囲を見渡した。
――ドンッ!
「へぶぁ……っ?!」
突如、背中に何かがぶつかってきた。
驚きと共にバランスを崩し、顔面から地面に倒れ込む。
土と草の混じり合ったにおいで自分が草原に顔から突っ込んだと理解すると、背中の痛みも追いかけて来た。
幸い、出血を伴うような裂傷の痛みではなく、どちらかと言えばうっかり壁や柱にぶつかってしまったときのような鈍い痛みである。痛みよりも驚きの方が大きい。
慌てて起き上がって振り返ると、毛玉がいた。いや、尖った鼻先と丸い耳、ずんぐりとした胴体、そして長い尻尾――ネズミだ。シャナの知るものよりもだいぶ大きいが。
緑色の毛並みの犬がいるくらいだ、ウサギ程の大きさのネズミが居ても不思議はない。不思議はないが、襲い掛かって来られると話は別である。
追撃をかける大ネズミの体当たりをなんとか転がって避ける。
「ぶぇっ、土食べちゃった……! ぺっ! ぺっ!」
転がる際に閉じ忘れた口に土が入り込んでしまって、慌てて吐き出しながらシャナは大ネズミと対峙した。
魔法の練習ついでに戦闘の経験もできたら、なんてことを考えてはいたが、背後から急襲される心の準備などしていなかったせいで、心底焦っている。考えが甘っちょろいと言われればそれまでであるが。
現代日本で一般人として生活していたシャナに、当然なら命の危機など訪れたことはない。骨折のような大怪我だって、まだ骨の柔らかい子供の時分に経験したきり、病気も事故も縁遠い恵まれた環境でぬくぬくと生きて来た。健康な身体に生んでくれた両親に改めて感謝したい――いや、今はそれどころではなかった。
寝転がったままでは逃げられもしないと本能的に立ち上がったものの、その後どうしたらいいのかさっぱりわからない。
大ネズミの濁った赤い目がぬらりと光り、シャナを見据えていた。
殺される。初めて肌を撫でる明確な殺意に、シャナは無意識に震えていた。
お互いににらみ合ったまま、静かに息を吸う。とにかく一度落ち着かねば。
いつの間にか浅くなっていた呼吸を意識して深くしながら、この状況の打開策を考える。
――逃げるか、戦うか。
逃げるのは無理だ。どう考えても、というか考えるまでもなくネズミの方が素早い。また背後から体当たりされて転ぶ未来しか見えない。その後の死因は考えたくない。
となれば戦うしかないとはいえ、シャナは武器すら持っていない。
一応鞄の中にはナイフが入っているが、あくまでも調理や野営用の果物ナイフ程度の小型のものだ。そして大きい鞄の奥深くに埋もれている気がする。
つまり、やはりというか考えるまでもなく、当初の予定通り、魔法で何とかするしかない。
せめて剣か盾でもあれば牽制できてもう少し心に余裕が持てたかもしれないが、それは今考えるべき事ではない。
「うぇぇぇ……こ、”光線”!」
大ネズミへ向けて翳した手から、その名の通り光の線が真っ直ぐに伸びた。
光だけあって射出から着弾まで一瞬のことだったが、大ネズミは素早く横へ跳んで避ける。
避けた大ネズミが重心を低くして狙いを定めるような動きを見せた。
先ほどまで無様に転がっていた人間の思わぬ反撃に、警戒が強まったようだった。
教本にあった光魔法はどちらかと言うとそのイメージ通り、回復やバフなどの補助に特化した系統であるようだった。数少ない攻撃性のある魔法がこの”光線”である。
そして使ってみてわかったが、直線でしか攻撃できないので使い勝手があまりよろしくない。
「えぇと、えーと……”影縛り”!」
大ネズミを対象としてその足元の影に四肢が捕らわれるイメージで魔法を放つ。
するとずんぐりとした体に対して小さい手足が、ずぶ、と自身の影に沈んだ。驚いたのか、キィと甲高い声を上げて大ネズミが暴れる。
逃げられないようにしてしまえばいい、という安直な発想から次に使用した闇魔法は、こちらも補助系統だが、光と違いデバフなど対象の妨害が主な用途とされていた。
”影縛り”は対象の影に魔力を送り込んで操作し、足止めや拘束に向いた物らしい。読み込んでいたおかげで咄嗟に使えて良かったが、まだ大ネズミは戦意剥き出しでシャナを睨みつけている。
一先ず攻撃される恐れがなくなったところで、シャナは今度こそ大ネズミに向けて手を翳し――指を握り込んだ。
照準を合わせるため、自然と人差し指と中指を揃えて伸ばした形――銃を模したハンドサインを作っていた。
握り込んだ小指側を左手で支えて、大ネズミの頭に狙いを定める。
「――”光線”!」
頭の中で明確にイメージを作り上げ、魔力を練った上で放たれた光線は、先ほどよりも太く眩く走った。
一瞬の静寂のあと、とさりと小さな音を立てて大ネズミの身体が草原に倒れた。断末魔は聞こえなかった。
「……で、できた……」
ぜぇ、はぁ、と耳障りな荒い呼吸が自分のものだと気付いて、こめかみから流れる汗を拭った。
強張っていた身体が、緊張が解けた途端に弛緩してその場にへたり込む。膝が笑ってしまってしばらくは立てそうにないと思ったが、風もないのに葉擦れの音がして肩が跳ねる。
ここはまだ草原のど真ん中で、いつまたどこからともなく大ネズミや他の魔物が飛び出してくるかわからないのだ。
気合で立ち上がり、頭を撃ち抜かれて絶命した大ネズミの亡骸に近づく。そして手を合わせた。
数秒間、祈りを捧げた。
散らばった採取品を集め直し、初めて倒した魔物の亡骸を手に、シャナはトルトゥの街へ戻った。
その後、冒険者ギルドで大ネズミの解体を依頼し、薬草を納品したところ規定数に一本足りず、また草原に戻る羽目になった。
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