14.もふもふは正義
まるまるとした胴体から生えた小さな足がちょこまかと動き、上向いた尻尾が上機嫌に振られる。
長めの毛並みは鮮やかな緑色をしていて、最初は植物の塊のようにも見えたが、十分も共に歩けば見慣れてしまい愛らしいばかりである。
垂れた耳とつぶらな二つの目。黒豆のような鼻と愛らしく吠える口。角も鱗も羽根もないし、見る限り各パーツの数もシャナの常識の範囲内だ。
ボニーちゃんは見慣れない色味であることを除けば、地球でいうところの犬と大きくかけ離れた外見ではなかった。
そして、もふもふしている。
大事なことなのでもう一度言おう。
もふもふしている。
それだけで異世界の世知辛さに心折れそうなシャナは一命をとりとめた。もふもふは正義なので。
旅馬車の馬は大事な商売道具だからと御者や護衛が近付かせてくれなかったため、この世界で初めての動物との交流である。
きゃん、と鳴く声は小型犬そのもの。予想通りメタボリックな体型ではあったものの散歩自体は好きなようで、楽し気に尻尾を振っては時折リードを持つシャナを振りかえって笑いかけてくる。
「ふあぁ……ボニーちゃんは可愛いねぇ……」
短い脚で一生懸命歩く犬をデレデレと締まりのない顔で見下ろしては、先ほどから可愛い可愛いと繰り返している。端的に言って、シャナの語彙は死滅していた。
使用人曰く、決まった散歩コースもないため、街中であれば好きに散歩してかまわないとのことだった。
とはいえあまり治安のよろしくない道はシャナも避けたいため、ギルドでもらった地図に近寄らない方が良い場所を書き込んでもらい、それを片手にボニーの気の向くままにお散歩中である。
ときたま細い路地に興味を惹かれたり、地図上の危険地域に足を向けそうになるボニーを宥めつつ、大通りをメインに人通りの多い明るい道を選んで歩く。
北部への連絡口とはいえ、春先のトルトゥはよく晴れているのもあって温かい。ときおり吹く強い風が、じんわりと額に滲んだ汗を冷やして心地よかった。
地図と町民への聞き込みで市場のほど近くにある井戸へ迷うことなく到着することができた。
開いた口から舌を垂らして興奮気味に息を吐くボニーに水分補給をさせつつ、運動不足のシャナも少し休憩したかった。
民家よりも市場が近いせいか、井戸の周りは商人やその護衛の方が多いように見える。
木桶に鼻先をつっこんで水を飲む馬やロバを見て、ボニーを抱きかかえてから井戸に近づいた。
ちょうど釣瓶を引き上げていた男がシャナに気づき、その腕の小型犬を見て軽く顎をしゃくった。その意図までは汲み取れなかったが、呼ばれたらしいことだけはわかる。
少し迷ったが、井戸水で濡れた地面に気を付けながら近づいてみることにした。
「坊主、新人冒険者か?」
「あ、はい。今日が初仕事です」
「そうかい。ほれ、皿だしな! 頑張れよ!」
汲んだばかりの水がたっぷりと入った桶を揺らして急かされるまま、荷物から自分用の深皿を取り出した。途端、ざばりと豪快に水が注がれてシャナの手や袖どころか、足元まで濡れた。
男の慣れた様子から、この辺りでは犬の散歩依頼を受ける新人冒険者は少なくないのかもしれない。
大雑把だが気の良い男に礼を言って水を零さないよう、慎重にその場を離れた。
小脇に抱えられたボニーは、日頃から抱えられているおかげか初対面のシャナが片腕で抱えていても大人しくしている。それならば、と店の連なる通りから民家の集まる地区へ足を向けた。
それほど遠くない場所に近隣住民が井戸端会議をしたり、子供たちの遊び場になっている小さな空き地があるのだと、地図に使用人が書き込んでくれていたのを思い出したのだ。
民家と商店の合間で中途半端に余った土地を遊ばせていたら、いつの間にか交流の場として使われたのだろう。ぽっかりと開いた土地は人が良く通るため土が踏み固められ、古ぼけた簡素なベンチが二つ置かれていた。
朝の忙しい時間帯だからか、空き地に人影はなかった。近くの民家からは朝食の支度をする音や匂いが漏れており、そのおかげで寂れた雰囲気はない。
ベンチの一つに腰を下ろしたシャナは、足元にボニーを下ろし、いくらか零れてもまだたっぷりと水の入った皿をその鼻先に置いてやった。
小さな舌で一生懸命に水を飲むボニーを眺めつつ、自分も荷物から水筒を取り出して口を付けた。
水筒とはいっても日本で使っていたステンレス製の筒型のものではなく、袋状の革に金属製の飲み口を取り付けたものなので、正確には水袋と言った方がいいかもしれない。
異世界における原材料は不明だが、地球ではヤギや子牛等の動物の内臓を使っていたものがあったと記憶している。今手にしている水筒も、皮を縫い合わせた様子はなく、臓器と言われれば納得するような形状をしていた。
原材料について思考するのはあまり精神衛生上よろしくなかった、と苦く感じる含んだ水を喉を鳴らして飲み込んだ。
ころころした体躯の愛らしいボニーは、散歩好きではあっても体力はあまりなかったようだ。気付けば水を飲んで満足したのか、シャナの足元でまあるい腹を横たえてうとうとしている。
シャナの手でもすっぽりと覆えてしまう小さな頭をわしゃわしゃ撫でれば、気持ちよさそうに目を細めるものだから、顔が緩んで仕方ない。
「んふふ……可愛い……」
思わず漏れた声は、本日何度目かわからない猫撫で声だった。周囲に人がいないのをいいことに、デレデレとボニーを愛でた。
シャナとていい歳した社会人なので、いくら可愛くても人前でしてはいけない顔くらい弁えている。しかし異世界で初めての癒しの前には、そんな理性も溶けて消えていた。
思う存分撫で繰り回されたおかげですっかり目が覚めてしまったボニーの視線が突き刺さる頃、シャナの理性は戻ってきた。
毛並みを整えつつ、使用人から預かってきたおやつの存在を思い出した。お詫びの品として、これ以上の物はないだろう。
「ボニー、お座り」
言ってみるも、ボニーの視線は手の中に握り込んだおやつに集中している。可愛い。
「お座り」
もう一度言う。今度は聞こえたようだが、首を傾げられた。可愛い。
おやつはまだか、という視線に初めて聞いた言葉への戸惑いが混じっているように感じられて、異世界における犬のしつけ事情を何となく察した。
「ボニー、お座り」
再度はっきりと言葉を発しながら、勢いよく尻尾を振るお尻を下げるよう、手のひらで軽く押す。素直にお座りの姿勢を取ったボニーに、握っていたおやつを差し出せば、即座に伸びた舌が攫って行った。可愛い。
楽しくなったシャナが思いつく限りのトレーニングを行ったのは言うまでもない。
ボニーが賢かったおかげで依頼完了時にはすっかりコマンドを覚え、報告時に使用人が目を丸くしていた。
朝の身支度を済ませたお嬢様も、シャナの発する単語一つ一つに的確に応えるボニーに驚き、そして大いに喜んでくれた。おかげで昨日冒険者ギルドに支払った登録手数料が帳消しになったのは嬉しい誤算である。
冒険者よりもドッグトレーナー的なものを目指した方が良いかもしれない、などと聖女の肩書を持つのも忘れてシャナは今後の収入に思いを馳せた。
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