13.初仕事
安全や衛生などという概念は溝に捨てたと言わんばかりなおんぼろ宿。
その硬いベッドで一夜を明かしたシャナは、自分の危機管理能力に打ちひしがれた。
まさかの日暮れと共に寝落ち。からの夜明けまで爆睡をキメてしまった。
あんなに身の危険を感じていたというのに。屋根と壁があるというだけで気が抜けるとは、なんたる危機感のなさ。絶対に野生では生きていけない。サバイバルする気は毛頭ないが。
異世界召喚された身としては、自分の神経が意外と図太いことに感謝すべきかもしれない、と顔を出したポジティブシンキングには丁重にお帰り頂いた。
シャナの異世界における行動理念は「いのちだいじに」である。ここまでのところ、まったくもって実行できていないが。
朝から自己嫌悪と後悔の念に苛まれつつ、手早く身支度を整えると店主に鍵を返却して早々に宿屋を出た。ぐっすり寝てしまったとはいえ、古ぼけた木製の箱をベッドと呼ぶのは無理があった。体中が痛い。
痛む体を伸びたり捻ったりしながら冒険者としての初仕事に向けて賑わいだした市場を進んだ。
昨日のうちに受けた依頼は商家から出されたものだ。内容は飼っている番犬の散歩代行である。駆け出しも良いとこのド新人F級冒険者でも受けられる依頼は、街中での町民のお手伝いが主で、町の外に出るものは少ないという。
ゲームでいうところのチュートリアルクエストのようなものだろう。なんてことを思いながらいくつかある依頼の中から、動物好きだし、などという単純すぎる理由で選んだ。
ギルドでもらったトルトゥ内の地図と、受付嬢に教わった宿屋から依頼主である商家までの道順とを照らし合わせつつ、なんとか迷うことなく辿り着くことができた。
他の家々と同じく、レンガ色の屋根を乗せた白い石造りの家だが、周囲の家よりも大きな窓がはめ込まれ、数も多い。家の前には庭と呼べるスペースもあり、青々と茂った低木がその敷地を取り囲んでいた。
思ったよりも大きな家からは、番犬を必要とする裕福さが窺えた。
玄関扉に重厚さを与える、垂れ耳と嘴を持つ、三つ目の生物を象ったノッカーに手を伸ばす前に、改めて依頼票の内容を確認し気合を入れるため頬を叩く。
動物好きだからなんて受けてしまったが、ノッカーのモチーフのように地球産の犬とは全く違う見た目の謎の生物だったらどうしようという不安を無理やり払った。
(大丈夫、もふもふしてれば愛せる……!)
道端でドブネズミを見ても特に嫌悪などは感じないが、それが虫やカエルだったら途端に手の平を返す程度には毛皮を持つ生物に対して甘いのがシャナである。もふもふは正義。異論は認めない。
見たこともない生物のノッカーを鳴らせば、それほど待つこともなく誰何の声が聞こえた。低く落ち着いた声は重ねてきた年月を感じさせる。
「どちらさまでしょうか?」
「冒険者ギルドで依頼を受けて来ました、冒険者のクラシャナと申します」
恐らく家主ではないだろう声の主が扉を開け、迎え入れてくれた。
皺のない白いシャツと濃い色のジャケットをきっちりと着こなした壮年の男性は、シャナの頭の先からつま先まで視線を走らせてから軽く顎を引いてこの家の使用人であると名乗った。使用人がいる辺り、やはり想像以上に裕福な商家のようだ。
そして異世界マナー的に、シャナの身だしなみは及第点のようである。
手持ちの中では比較的清潔感のある旅装を選び、ブーツの土汚れを落として来てよかった。フードは被ったままだが、顔は確認できる程度に見えている。
とはいえ応接室等に案内されるはずもなく、玄関扉の前で仕事についての説明を受けた。
説明と言っても犬の散歩であるからして、それほど難しいことはない。この家のお嬢様が大層可愛がっている番犬のボニーちゃんを、お嬢様がお休みの隙に小一時間ほど街中を散歩して戻って来るだけである。ボニーちゃんは基本的にお嬢様に抱きかかえられて移動しており、運動不足気味であるらしい。なんとも優雅な生活である。
ボニーちゃんは室内飼いのため、帰宅後は足を拭き汚れを落としてから室内へ入るように、との注意が追加された。
散歩中の排泄処理についてはそのままで良いとのことだが、シャナ的にはNGである。街の設備として共用の井戸や公衆トイレがあることは昨日の内に確認済みなので、それでどうにかすることにした。
説明と確認が済めばついに番犬との対面である。
果たして想像通り、地球で見知った見た目の犬であるのか。はたまた犬とは名ばかりで嘴や鱗や角を持った別の生き物なのか。
頭や足の数が違っている可能性もあるが、とりあえず裕福なお宅の少女が日常的に抱きかかえて連れまわす程度には危険性はないようである。あと、きっとメタボリックな体型をしていると思われる。
少々お待ちを、と言われてその場に残されたシャナは失礼と思いつつ玄関から見える範囲の内装を観察させてもらった。
天上は高く、壁の上半分には無地の壁紙が貼られており、下半分の木目との対比がしゃれている。取り付けられたランプも数が多く、夜でも室内は明るいのだろう。
板張りの床にはドアや階段の前などにマットが敷かれ、花を生けた花瓶が全体に彩を与えている。
裕福さを感じさせる内装は目には楽しいが、シャナの精神衛生上は非常によろしくない。昨夜泊った宿を思い出し比べるたびに貧乏が恨めしくなるので。
戦闘に不安しかない現状で、冒険者として一人前になりたいわけではない。というより、なれるとも思えないが、せめてもう少しまともな宿に泊まれる程度には稼げるようになりたい。
いまだ痛む腰を擦りながら、シャナは初仕事へのやる気を奮い立たせた。
――なお、今回の報酬は冒険者登録手数料の半額以下である。
塵も積もれば、とは言ってもさすがに世知辛くて涙が出そうだった。
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