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白い階段

 目を開ける前に意識が戻った。寝床が硬かった。頭は揺り動かすごとにやすりで削られているかのように痛んだ。あれ、どこで寝たんだっけ?道路の上で寝込んだ覚えはない。目を開ければ分かることだろう。記憶ならあとからついてくる。

 そうして映った世界は薄暗い白一色で染められた折り返し階段だった。階段、手すり、踊り場、それらを囲む壁、照らす光、あらゆる要素が白で染められていた。外からの光はなかった。僕はその踊り場に全身を広げて横になっていたらしい。あまり馴染みのないにおいがした。塩素系のにおいだと思われる。人間はおろか生物がいないためか静かだった。

 寝る前の記憶が蘇ってきた。確か家で寝た。服装もその時のままだった。寝ている間に何かがあったらしい。

 ここは何階なのか。見事に持ち合わせがなく、周りには目印となる標識がなかった。僕はここから出たかったというと、意外とそうでもなかった。しかしこんな閉鎖的な場所に長時間いたって退屈であり、生活のために必要なものが何もないのだから気持ちに余裕のあるうちに出るべきだろう。出られる目処が立たないと排泄物をこんな場所で垂れ流すことになる。それはごめん被りたい。

 階段の広がりを確認すべく、踊り場の手すりに向かった。手すりの奥は壁があり、その間には通気性のためか上と下を覗くことのできる空洞があった。余程の肥満体型でもない限り身体すっぽり入れられそうだった。上を見ると白の長方形がマトリョーシカ的に描かれているように見え、壁と天井は見えているが距離感が掴めなかった。下を見ると手すりがいくつも見えた。数えてみようとしたが遠くのものほど小さく見え、今どこをカウントしたのかわからなくなってやめた。

 最上階か最下階に出口がありそうだが、案外途中の階にあるかもしれない。仮に僕を背負ってきた人がいるのなら同情する。上るにしても下りるにしても訓練を積んでいない限り相当な疲労だろう。

 ところで僕を収監した奴らは僕に何をさせたいのか。放置されただけではさっぱり想定がつかない。いや複雑なことを求めるのであれば、何か説明をするかその類の紙でも置いておけばいい。おそらく説明不要なのだろう。「すみません。ここから出して欲しいんですけど」「あら、そうですか。でしたら出口まで案内しましょう」「ありがとうございます。助かります」……少なくともこんな展開は望めそうにない。


 上から足音が聞こえてきた。ドアから入ってくる音などはなく、一時停止から音源を再生したように聞こえだしたので不自然だった。出入り口にドアがそもそもないのか、ここからは聞こえないほどに遠いのか。単に歩くのを再開しただけかもしれない。踏みしめる音に力強さがあり、やけに音から音の間隔がある。おそらく一段飛ばしだろう。

 上の階に出入口があるんじゃないか。

 次第に音は反響を伴って大きくなった。階段を下っているらしい。

 出くわすなら僕と同じ愚かな被害者であるとありがたい。合流して協力することがあるのか分からないが心強いことには変わりはない。だがこの空間は階段を上るか下るかの二つに一つの二択しか道はなく、いざ相手が危ない奴と分かったからといって相手をまけそうもない。したがって下りてくる人の素性が知れるまでは対面を避ける方が安全である。独り言でももらしてくれると分かりやすくていい。僕は音をたてないようにし、聞く耳を立てながら階段を下りることにした。

 実際に下りてみて分かったのだが、段差が大きい。一段一段を踏み締めるのがいちいち軽く飛び降りているかのようだった。一段下りるだけで足への衝撃がそれなりにある。両端の手すりを掴んでやると少しはましにはなったが、聞こえてくる音のテンポに対してこちらの方が明らかに遅かった。このままでは追いつかれてしまう気がした。遠くの足音を聞きつつ慣れない動作を目で補正しようとするものだから足取りがおぼつかなかった。聞くことに集中すると下りにくくなくなり、下りることに集中すると相手との距離感を見失ってしまうのだ。


 突然相手の足音が止まった。止まった?だが確信が持てなかった。本当に止まったのか、僕が聞き逃ししただけなのか判然としなかった。僕の足音を聞こうとしたのかもしれない。見る対象と聞く対象の乖離のせいで僕の意識は漠然としていた。

 相手の動向を気にしすぎたために、下りつつも保たれていた身体の均衡が崩れた。左足を踏み外し、転倒しそうになった。上手く踊り場に着地して転倒は免れたものの、大きな音を立てて着地してしまった。もちろん見逃してもらえるはずもなく、立派な反響が階段内に広がった。筆記試験中に奇声を上げたあとの静寂のような気まずさを感じた。

 これで間違いなく気づかれた。相手が耳栓でもしていない限り聞いていないということはありえない。だが開き直って考えると、堂々と音を立てて下りることができるというわけだ。このまま最下層までトップスピードで逃げ切ることだけを考えればいい。僕はすぐさま階段に足をかけ、数段下りたところで面倒になってそのまま踊り場まで飛び降りた。五段飛ばして着地したので先程以上に大きな音が響いたが、もう耳をすます必要はなかったから気楽なものだった。夢中になって十往復分くらい下りた。

 あと最下層までどれくらいかが気になって手すりと壁の間の空洞を覗いた。最初に覗いた時と景色は変わって見えなかった。ちょっと気が沈んだ。間もなく上から足音が聞こえてきた。約0.5秒間隔の単調な音が迫ってきていた。

 その後も下り続けた。気が散った頃合いに空洞を覗く。だが見える景色は変わらない。タンタンタンタン……上から足音が聞こえてくる。五往復くらいして空洞を覗く。だが見える景色は変わらない。上から足音が聞こえてくる。五往復くらいして空洞を覗く。だが見える景色は変わらない。上から足音が聞こえてくる。数往復くらいして空洞を覗く。だが見える景色は変わらない。上から足音が聞こえてくる。………………………


 どれだけ下りただろう、空洞の景色が相変わらずなのを確認して僕は踊り場に腰を下ろした。脚の動きが鈍くなっていた。疲労困憊で階段両端のに手すりを握り、衝撃を和らげる等工夫をして下りても関節が痛かった。スピードは最高でも歩いて下りるのと大差がなくなった。いくら下りても自分が疲労する以外に何も変わらないので気分が沈み切っていた。

 せめて立ったまま休憩した方が良かったかもしれない。しばらく立ち上がれそうもなかった。

 僕がそんな状態にも関わらず、上からの足音は絶えず聞こえていた。耳障りな音である。どうして僕はこんなに疲労しているというのに、上の足音は一定のペースを保っているというのか。紙をくしゃくしゃに丸めるように僕の自尊心はくしゃくしゃになった。床に拳を叩きつけた。

 次第に聞こえてくる足音は大きくなってきた。だが僕はもう動かない。階段から転げ落ちるようにして最初の一歩さえ出せればもう少しくらいは逃げられるだろう。しかし一度だって最下層あるいは出口に近づいた感じがしなかった。逃げる意味がないのだ。大人しく来る者にされるがままになるしかなかった。

 だんだん音が近くなってきた。加えて服の擦れる音まで聞こえた。もうそこまで来ている!現れるのは僕を陥れた野郎か、僕と同じ被害者なのかどっちだ。足音さえなければ僕は何も下りる必要はなかったのだ。上る選択肢もありえただろう。

 そんな考えの途中、ついに姿を現した。黒いジャンバーを右腕に抱えている若くない男ということだけは確認した。それ以上は覚えていない。というのも男は目の前の僕に目もくれず、下りて行ったからである。まるで僕が見えていないかのようだった。

 想定外の行動に困惑した。思わず「おい」と大声で叫んだが返事はなかった。聞こえてくるのは徐々に小さくなっていく足音だけだった。僕はここに存在していないのだろうか。それともあの男が僕の作り出した幻影に過ぎないのだろうか。

 僕に用がないとすると、なぜ下に行く必要があるのかさっぱり分からなくなってしまった。下に何かがあるに違いないが、ただそれだけである。

 踊り場の手すりから身体を乗り出し、空洞から男の姿を見届けようとした。今度はこちらが上にいる。男は踊り場までよらずに下りているらしく足音ばかりで見えない。なんとか目に収めようともっと身を乗り出したときだった。鉄棒の前回りのように全身が回転し、逆さになったかと思ったのもつかの間、両手は手すりを離れ、僕は空中に浮いた。

 一番下まで落ちると思った。それが常識的な発想だろう。しかし僕の記憶が正しければ、途中まで落下した後ばねのように上向きに跳ね返り、どこまでも上へと上がっていった。その速さのあまり、上がっているときは何もよく見えなかった。ただ世界が白く見えただけだった。そのまま気を失った。



 最後に家で寝てからおそらく一か月が経った。僕は未だに白い階段の中にいる。

 空中に浮いて気絶した後、僕はいくつかの道具と食料に出くわした。踊り場に限らず階段の途中にも放り散らかしてあった。僕がもともと所有していたものの大半を見つけた。その中にはパソコンもあり、充電のためのコンセントが備え付けてある踊り場を見つけたのでバッテリーの心配はなくなった。Wi-Fiも完備してある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のはこのためだ。白の空間にずっといて画面ばかり見るために、遠くが見えなくなった気がするがそんなことは些細なことに過ぎない。

 食料は適当に階段を上ったり下ったりしていればどこかに置いてある。自分で選べないのが残念だが、量は十分に用意されているので空腹に苦しんだことはない。移動も面倒だが最低限の運動ができるのでそれもありかと割り切っている。

 妙なことと言えば時々一定のペースで走り去っていくさまざまな人がいるということだろう。先に述べた下っていく人もいれば上っていく人もいる。正体は分っていない。当初はやはり追手ではないかと恐怖と劣等感で力いっぱい逃げていたのだが、僕を無視してそのまま去っていくことが何度も続いて恐怖に慣れてしまい、今ではこちらから「がんばれ」と声をかけている。返事はいつだってない。

 ……こんな風に無限に続いてそうな階段での生活を楽しんでいる。空洞は一度飛ばされて以来使用していない。荷物から遠くに飛ばされたくないのだ。

 懸念点といえば場所を移動するときだろう。手元の荷物が増えれば増えるほど運ぶ量と重さに悩まされ移動しにくくなっている。もっとも全ての荷物を持って移動する理由はほぼないといっていい。コンセントはどの踊り場にもあるわけではなく、どこかが特別快適というわけでもない。それが分かってからはコンセント付近で定住生活を送っている。

 外に出たい気持ちが消え去ったわけではない。白い空間をぼんやり見ていると突然温泉のように衝動が沸き上がり、作戦を立てることがある。このとき、荷物はいくらか諦めなければならないと痛感させられる。空洞を利用するにしても入るスペースには限界がある。荷物の中には愛着 それに出られたからと言って僕の満足できる居場所があるのか怪しい。上に出口があるのかと思ったが、下から上ってくる人もいるわけだからどこに向かえばいいかも分からないでいる。

 

 おや、書いているこの途中にも下りてくる足音がしている。まあ気にすることはない。あれ?下から階段を上ってくる音も聞こえてきている。一度に複数人がやってくることは今までなかった。挟み撃ちにされそうだ。でもいつも通りだと信じてこの記録を続けよう。万が一の場合、空洞に飛び込めばいい。


「君の時間は有限じゃないんだ」上から来た

「おいおい」下

(ここで記録は止まっている。)

(追記 これ以降記録されることはなかった。いやさせなかったといった方が正しい。彼は追い抜かれるという淋しい役割を立派に果たしてくれた。)

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